礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年2月12日
 
「十字架に!」
マルコの福音書連講(80)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書15章6-20節
 
 
[中心聖句]
 
 12  そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」と言った。
 13  すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。
 14  だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。
(マルコの福音書15章12-14節)

 
はじめに
 
 
昨週は、イエスの裁判の鍵を握った男、ポンテオ・ピラトに焦点を当てました。優柔不断なピラトの姿から、私達の内にもピラト的なものが無いかどうか、心探られる学びでありました。

今日は同じ記事ですが、群衆の側に焦点を当てて、この出来事を見たいと思います。
 
A.イエス裁判の概要
 
 
私達の主と崇めるお方は、「裁判で死刑となった」方です。私刑でもなく、暗殺でもなく、公的な裁判による死刑です。実に不名誉と言わざるをえません。ただ、どういう裁判で、どういう経過を辿ってそうなったかを、しっかりと見ておく必要があります。復習になりますが、これまでの経過を振り返ります。もう一度、裁判の6つのステージを表でご覧下さい。

  ◆◆ 主イエスの受けられた裁判(図)◆◆ (クリック表示)

 
1.ユダヤの宗教裁判:冒涜罪で死刑宣告
 
 
これは、前半の三つのステージです。ユダヤの議会(サンヒドリン)における公式、非公式合わせて三回の審理で(とは言いましても、かなり乱暴な方法で)イエスは、自分をキリストと主張したという冒涜罪で死刑と宣告されます。しかし、彼らは死刑の最終決定の権限は持っていませんでしたから、この件はローマ帝国を代表する総督ピラトに委ねられます。
 
2.ローマの政治裁判:反逆罪で死刑確定
 
 
第一回の審理ではピラトは無罪の心証を得ますが、それを押し切る勇気は無く、一旦ガリラヤの領主ヘロデ王に廻されますが、また、ピラトに戻ります。いよいよ最終段階を迎えるわけです。
 
B.群衆の役割
 
 
1.この「群衆」とは?
 
 
1)この群衆と日曜日の群衆は同じか、違うか?:最終段階で決定的な圧力を与えたのは群衆の声、暴動を起こしかねない群衆の騒ぎでありました。この記事を見ると自然に起きる疑問があります。この群衆と、「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声を挙げて僅か5日前に主イエスを迎えた群衆とは同じなのでしょうか、それとも、違った人々なのでしょうか。

2)基本的には違うが、同じ顔ぶれも:私の印象もそうですし、多くの聖書注解者達も指摘していますが、基本的には、顔ぶれの殆どは違った人々でしょう。イエスのエルサレム入城を歓呼の声で迎えたのは、ガリラヤから来た巡礼者を中心としたイエスの信奉者とエルサレムにいたその同調者と思われます。ピラトの官邸に早朝集まってきた群衆は、イエスに反対する宗教家達が掻き集めた雇われものプラス野次馬と思われます。基本的には違うと言いましたが、例外的に同じ顔が幾つかあったという可能性も否定できません。というのは、主イエスの人気は、エルサレム住民の間でも圧倒的であり、一時的にせよ、信奉者が大勢いた事が他の記事から伺われます(例えば12:37で、「大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」のです)。そしてその人気の故に、宗教家達はイエスを公然と捕らえることが出来なかったからです(マルコ14:2「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」)。それほどイエスを支持していた一般大衆を、「十字架につけよ」とまで叫ばせたのは、宗教指導者達の悪意に満ちた情報操作の結果と言うべきでしょう。群衆の「移り気」を非難する説教を何度か聞いたことがありますが、(私の見解では)、移り気は少数の人々で、大多数はイエスに対して忠実の態度を保ったのではないかと思います。
 
2.群衆の声
 
 
12-14 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」と言った。すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。
 
1)扇動された声:群衆は、自らが冷静に物事を見、個人個人が判断して決めたのではありません。背後にあって、扇動した宗教家達(祭司長、学者たち)の扇動に乗っただけであります。この11節の「扇動する」とは、ギリシャ語のアナセイオー(振動させる、掻き立てる、興奮させる)という言葉で、他人の行動を感情的な揺り動かしでそそのかす意味です。自分の頭でものを考え、自分で決定するという作業を放棄して、私達は「扇動」に乗り易いものです。いや、そんなことはない、と思う方に、考えていただきたいのです。ヒトラーが台頭したときに、群衆は歓呼の声で迎えたのではないでしょうか。東条氏が戦争に突入したときに、日の丸行列をして喜んだのは、私達の親たちではなかったでしょうか。その流れに逆らって、良心の声を貫いた人はおりましたが、ごく少数でした。それも弾圧され、かき消されました。私達も、自分で考えているようでいて、マスコミに操られているだけというケースも多いのではないでしょうか。マスコミがこうだと指さしているとき、それに安易に乗ってしまわないで、待てよ、と考えるゆとり、それを批判的に見る冷静さを保ちたいものです。その基準は、聖言と御霊に導かれる生活を送ること以外にありません。

2)情け容赦の無い声:群衆の声は、時とすると残酷な方向に走りやすいものです。可哀相とか、この人だって反論する権利はあるのではないか、というような憐れみの余地を残さず、乱暴な方へと突っ走る傾向があります。「十字架につけろ」という声は正にそういった群集心理の終着点でありました。

3)無責任の声:群衆は群衆です。責任を取りません。誰かがやった、みんながやった、ということで、この群衆は、正しい人、愛の人を極刑に架けてしまったという良心の呵責を余り感じることなく、家路についたのではないでしょうか。この人々には大きな罪はなかったかも知れません。責任の大部分は、群集心理を利用して、悪意の目的を遂げようとしたユダヤの宗教家達、そして、正義の道を貫けずに、群衆に負けてしまったピラトにあります。

4)知らずして神の計画を実現する声:この群衆は、深い考えもなしに、十字架刑を主張しました。十字架という形の処刑はローマ人が発明したもので、ローマ人が奴隷や外国人、特に極悪人に適用する処刑の方法で、自分達には決して適用しませんでした(斬首という処刑法は、ローマ帝国が自分の市民に適用するものでした)。それほど残酷無比、苦しみの極致、人間の尊厳を徹底的に辱めるおぞましい死刑の方法でした。ユダヤ人は、死刑にする場合は石打が殆どでした。もしユダヤ人が彼らの方法でイエスを処刑したならば、十字架というシンボルは生まれなかったことでしょう。私達は首に十字架の飾りを付けないで、石打の石か、ギロチンのようなものをさげていたかも知れません。教会堂の屋根には石か、ギロチンがシンボルになっていたかも知れないと思うと、違和感がありますね。実は、違和感以上に大切な意味がこの死刑の方法に含まれていました。聖書には、「木ににかけるものはのろわれる」(ガラテヤ3:13)と記されています。イエスは、他の方法によってではなく、十字架という最も残酷な死刑の方法で、苦しみの極致を味わわれました。しかも、木の上に架けられて、呪いを一身に受けなさったのです。群衆は、ただの加虐趣味で、「十字架につけろ」と叫んだに過ぎませんが、神はその残虐非道の死刑の方法を、救いの道と変えなさったのです。私達にも、時とすると「十字架につけろ」とは言わないまでも、傷に塩を塗られるような事がありえます。しかし、感謝しましょう。神はその人々の意地悪の集大成である十字架さえも、救いの道と変え得なさるお方だということを。
 
C .イエスのみ心
 
 
イエス様は、この嵐のような群衆の叫びを、どんな気持ちをもって受け止めなさったことでしょうか。聖書に、イエスのお気持ちを示す言葉は記されていません。でも、その行動から、ある程度の推測は許されることでしょう。
 
1.悲しみ
 
 
先ほど言いましたように、「十字架につけろ」と叫んだ群衆が、「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声を挙げて僅か5日前に主イエスを迎えた群衆と全く同じでは無かったでしょうが、中には同じ顔も幾つかはあったことでしょう。何という移り気でしょうか。何の悪もなされず、ただ愛をのみ注いだイエスに対する何と言う仕打ちでしょうか。私がイエスの立場にあったとすれば、胸張り裂けるような悲しみ、虚しさ、切なさを感じると思うのです。
 
2.憐れみ
 
 
しかし主は、自分の事を哀れと思う自己をセンターと考える考え方から超越したお方でした。十字架につけろと罵っている人々の側に立ってものを考えなさるお方です。ヴィアドロロサでも、あなた方に懸かってくるであろう悲劇的な運命を思って、それを悲しんでおられる記事を見ます。恐らくこの裁判における騒ぎにおいても、罵る群衆を赦し、その祝福のために祈ったのではないでしょうか。
 
3.甘受
 
 
十字架の刑は確かに恐ろしいものでした。しかし、主イエスは死にまでも従ったたけではなく、十字架の死までも従ったとピリピ2:8に記されています「キリストは、・・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」それ以外に救いを開く道がないことを充分理解した上で、黙々とその道を受け入れなさいました。
 
終わりに
 
 
1.赦しを求めよう
 
 
私達の罪がイエスを十字架に逐いやったという深刻な事実を決して忘れないようにしたいと思います。私達は、2千年前のエルサレムには居合わせませんでした。だから無罪とは言えません。私達が無慈悲な言動を私達の隣人に向けて行う時、私達はイエス様を傷つけているのです。私達が罪もない友を嘲る時、イエス様を嘲っているのです。その罪の積み重ねが十字架なのです。「イエス様どうぞ罪深い私を赦して下さいな」というCS讃美歌がありますが、罪もないイエス様を十字架につけた一半の責任はわしにもあると言うことを覚えて、主に赦しを乞いたいと思います。
 
2.十字架を受け入れよう
 
 
主は、私に従うものは、自分の十字架を負って私について来なさいとおっしゃいました。私達にもそれぞれ負うべき十字架があります。逃げ出したくなるような十字架もあります。しかしその時、イエス様を見上げましょう。私達の罪のために恥を忍んで喜んで十字架を背負われたイエス様を、です。私達は割合簡単に、「自らを十字架につける」と比喩的に言ってしまいますが、十字架につけるという行為はただごとではありません。痛みと恥を徹底的に受けることです。自分の尊厳や、権利や、やりたいことを全く踏みにじられることです。それを理解した上で、「私はキリストと共に(同じ釘で)十字架につきました」(ガラテヤ2:20)と言えるでしょうか。言い訳せずに、文句も言わずに、黙々と十字架を背負いつつ、主の御心の一端を学ばせて頂きたいのです。
 
お祈りを致しましょう。