礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年2月19日
 
「茨の冠の王」
マルコの福音書連講(81)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書15章10-20節
 
 
[中心聖句]
 
 16  兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
 17  そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、
 18  それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。
(マルコの福音書15章16-18節)

 
はじめに
 
 
昨週は、イエスの裁判における群衆の役割に焦点を当て、私達も含めた群衆が如何に無慈悲となり、非理性的となりうるか、それが主イエスの十字架をもたらしたか、を学びました。

今日は、裁判の前後に主が受けなさった辱めと苦しみに目を留めます。余りに残酷な場面ですので、飛ばしてしまおうかとも思ったのですが、どの福音書もこの記事を大切なものとして記録していますので、敢えてここに留まりたいと思います。きっとここにも、大きな意味があることでしょう。
 
A.イエスを辱めた兵士達
 
 
15 それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
 
1.総督付きの兵士
 
 
16節を読みましょう。「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。」並行記事であるマタイ27:27は、「総督の兵士たち」と特定しています。ピラトは、自分の身の回りを警護する兵士達を持っていましたが、彼らが、判決を受けたイエスを処刑する第一義的責任を持っていました。
 
2.総督官邸の中庭
 
 
先ほどまで行われていた裁判は、ローマ総督がエルサレムにいるときに官邸として使っているアントニアという塔で行われていました(南西のヘロデの宮殿という説もありますが、私はアントニアの塔が自然と考えます)。エルサレムの西側のがっちりした塔でありまして、ローマの兵隊が常駐していました。裁判で大きな役割を果たした群衆が官邸の中に入り込むと言うことはあり得ません。恐らくバルコニーの上にいたピラトと路上にいた群衆のやり取りだったことでしょう。裁判が終わって、イエスは一旦群衆から離され、官邸の中庭に連れて行かれました。
 
3.全部隊とは
 
 
当時の歴史を記した記録によりますと、アントニア塔には、一部隊(これは一レギオンの十分の一)で約六百人のローマ兵士がいたと言われています。それは、ずっと後になってパウロが捉えられたとき、千人隊長がそこにいたことからも裏付けられます。「彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。」(使徒21:31、32)このいわば正規軍の兵隊達は、多くイタリアの出身であり、加えて辺境から駆り出された援助部隊出身者で成り立っていました。彼らを支えていたのは、ローマ帝国への忠誠心でありました。

一般的に言って、彼らは宗教的に頑ななユダヤ人を軽蔑していました。さらに、事ある毎にローマ帝国に反抗するユダヤ人を厄介視していました。唯でさえ馬鹿にしているユダヤ人の中の一宗教家が、熱心の余り同胞に妬まれて死刑になった等と言うことは、些細な出来事に過ぎなかったでしょう。でも「全部隊が招集された」のは驚きです。暴動を恐れたための緊急招集だったかも知れません。一大事と思ってせっかく集まってきたのに、その対象は、傷だらけの哀れなユダヤ男性に過ぎません。かれらの鬱憤が、無抵抗なイエスに対するいじめになって現れました。彼らにとっては日頃の憂さ晴らしのゲーム的感覚でいじめただけのでしょうが、対象が栄光の主イエスであるとは、何たる悲劇でありましょうか。
 
B.イエスに対する辱め
 
 
16-18 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。
19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。
20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
 
ピラト裁判の後で、兵士達によってなされた辱めがこの16〜20節に記されています。
 
1.どんな辱めか?
 
 
1)鞭打ち:ヨハネ福音書は、判決の前の鞭打ちを記録しています(19:1)から、判決後の鞭打ちはイエスにとって二度目という事になります。これだけでも尋常ではありません。上半身を裸にし、杭のような低い柱に手を縛り付けて、海老のような姿勢にした上で、打ち据えるのです。(アントニア塔には、その遺跡が残っています)。それも革の先端に金属とか骨を埋め込んだ短い革鞭で、大の男が力一杯打つのですから、皮膚は破れ、肉も裂けてしまうほどでした。この鞭打ち刑だけでも死んでしまう人がいたと歴史家のヨセフスが証言していますが、なるほどと肯けます。

2)紫の衣:鞭打ち刑が終わって、傷だらけになった背中に、どこから仕入れてきたのか、紫色の衣が掛けられます。紫というのは、当時の感覚で言いますと高貴な色です。ラザロと金持ちの譬えの中で、金持ちが紫の衣を着ていたとありますし、ピリピの最初のクリスチャンであるルデアは紫布の商人でした。紫は、特殊な貝殻を粉々にして作る染料からできたものですから、とても高価だったのです。紫は王侯貴族のシンボルカラーでした。ですから、「ユダヤの王様」のシンボルとしては、これに相応しいものはないという皮肉が籠められていました。

3)茨の冠:王様ならば、冠が必要だろう、という冗談半分の気持ちと加虐趣味が一緒になったのが茨の冠です。この地方で一般的な薊ではなかったか、とある注解者は述べていますが、確かなことは分かりません。どうやって編んだのでしょうか。バラ好きな家内の誕生日にバラ用の手袋を贈りましたら、「余り夢の無いプレゼントね」と言われてしまったことがありましたが、ともかくそんな手袋を使って編んだものでしょうか。その刺々しい冠を、事もあろうに、私達の主イエスの頭に押し付けたのです。「血潮滴る主の御頭」と歌ったのは、中世の修道院運動の指導者、クレルヴォーのベルナルドです。主イエスは、十字架に釘付けされるよりずっと前に、こんな痛みと辱めを受けられました。茨とは呪の象徴であるから、ここにも意味があったというような注解も見ましたが、すべての事に余り比喩的な意味を与えすぎない自制も必要でありましょう。

4)唾:その上に、兵士達は、主に唾を吐き掛けました。恐らくそのみ顔に向けてです。唾を吐くと言う動詞は継続を示す時制ですから、彼らはずっと続けてこのような行為を行ったのでしょう。おぞましい臭いと共に、その仕草の意味する辱めに、身も震えるほどです。

5)嘲り:そして彼らは嘲って言いました。「ユダヤ人の王様、万歳!」ローマ人の兵士達にとって、ユダヤ人は、哀れな被占領民族にしか過ぎませんでした。「その被占領民族の王様と自称している、この可哀相な気違い男」という位の見方しか出来なかった彼らでした。更に跪いて拝む真似をするなど、最大の辱めを与えました。

6)打擲:王様ならば、杓を与えよう、ちょっと見渡したところ、葦の棒があったので、それを持たせようじゃないか、という悪ふざけが進みました。「葦」とありますのは、この地方でよく見られるパピルスのようなものだったと考えられます。暫くその棒を持たせてから、今度は考えを変えて、それでうち叩き始めました。葦の棒ですから、そんなに痛くはないかも知れませんが、棘のついた冠を頂いた主イエスのみ頭は疼いたことでしょう。
 
2.それは何を意味していたか?
 
 
1)人間の罪深さ:この受難物語は、人間がどれだけ意地悪く残酷になれるものかの典型的な物語です。ここに居合わせたローマ兵士達が特別に悪者揃いだったとは思えません。家庭に帰れば普通のお父さんだったり、良き社会の住民であるような人々と思います。第二次大戦の時に日本の兵士達がアジア各地で行った様々な非人道的な行為を聞かされるとき、私達はその話は他人事ではない、私達も、そう言う状況に置かれれば自然にそうなっていく残酷さを内に持った人間なのだと思います。

2)無知の恐ろしさ:この兵士達は、自分達が散々からかったり、いじめたりしている相手が、神の御子、栄光の主、王の王であるということは、夢にも思わなかったことでしょう。知っていたら、こんな失礼な態度は取らなかったはずです。「この知恵(神の知恵)を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(第一コリント2:8)と記されている通りです。人間は、自分が接している相手の立場や価値に応じてそれに相応しい態度を取るものです。私が言おうとしていることがお分かりでしょうか。社会的地位のあるものにはそれに相応しく、庶民にはそれなりに接しなさいというのではありません。その反対です。私達は、どんな人間も神の眼には貴い、神のかたちがそこに宿っていると知っているはずです。そうならば、私達はすべての人に対する尊敬を払うべきです。たといそんな価値がなさそうに見える人であっても、尊敬してもそれを受け付けないような人に対しても、です。貧しいものに衣を着せるのは、キリストに衣を着せるのと同じ、と主は語られました。同じように、どのような理由であれ、人を侮り、人を辱めることは、キリストを侮り、キリストを辱めることなのです。

3)(結果として)神の計画を成就:十字架の物語りはすべて、人間の悪意から出た行為が神の計画を成就したという、誠に驚くべき結果をもたらした様子を示します。ローマ兵士が、ゲーム感覚で最大のいじめをしたことが、みな、イエスの救い主たることをより鮮明に映し出しました。私達の呪いを受ける象徴としての茨の冠、ユダヤ人の王即ちメシアとしてのお姿、イザヤが予言した受難の僕(これは次の項目で述べます)の姿をくっきりと示したのです。神の知恵の深さを思い、私達はただ平伏すのみです。
 
C.辱めを甘受されたイエス
 
 
1.冷静さを保たれた
 
 
このような仕打ちにあっても、主イエスは一貫して、口を閉ざし、冷静沈着な態度を取られました。その冷静さの理由は何だったのでしょうか。
 
2.冷静さの理由
 
 
1)予言の成就と見ておられた:クリスマスの時、キリストは「耳に割礼を受けた僕のように、神のみ心を行うことを喜ぶ」(詩篇40:6,8)という聖言を口ずさんで、天から地に降りてこられました。地上生涯の最後の瞬間にも、聖言が彼を支えていたことは、容易に想像できます。特にこの状況にフィットした予言がありました。「5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。7 しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。」(イザヤ50)今、私は聖書が予言している主の僕、メシアの道を辿っているのだという深い静かな頷きをもって、人々の蔑み、暴虐を耐えなさいました。

2)辱めに贖罪的な意味を見出しておられた:イザヤ書53章には、さらに苦難が持つ贖罪的な意味を語っています。「3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」絵画的な表現をしますならば、ローマ兵士達の一打ち一打ちが、実は、私達の癒しと平安とをもたらすためだったのです。主イエスはその事を自覚しておられたでしょうか。私はそうだと思います。

3)「己に死にきって」おられた:人間イエスと、神の子キリストとの心の葛藤は、ゲッセマネにおいて終わっていました。「出来るならば、この苦い杯を遠ざけて下さい、しかし、自分の願いではなく、み心のままに」と祈られたとき、主は既に十字架についてしまっておられたのであります。その死にきったものとしての平安が、嵐のような怒号、人間の心の醜さを露呈するような不当な仕打ち、辱め、痛みの中を通過させる力となりました。
 
終わりに
 
 
1.憐れみの心を持とう
 
 
私達が人間関係のもつれや、難しさの中を通ることがありますが、少なくとも、加害者にならないように、主の助けを祈りましょう。自分が接するすべての人について、「相手の立場に立ってものを考える」習慣を養いたいと思います。主イエスを苦しめた心ない人々を責めるのは容易です。しかし、私達も気付かずしてだれかを同じ目に遭わせているかも知れません。苦しみに会う人々と同じ心を持つように務めましょう。英語のcompassion(あわれみ、同情)という言葉は、感情を共に持つという所から来ています。私達に期待されているのはこのcompassionであります。
 
2.「己に死ぬ」ことに徹しよう
 
 
苦しみを受ける立場から考えましょう。私達の人生にも、誤解から生じる不当な扱いや、いじめや、その他言い尽くせないほどの傷を他人から受けることがあります。それらを数えて、落ち込んだり、他人を恨んだりしないで、主がそのようにさせておられるのだと達観したいものです。己をキリストと共に十字架につけてしまったもの、と信じ、その位置に自分を置きますとき、心は晴れます。この朝、自らを十字架につけてしまったという自分の位置を確認いたしましょう。
 
お祈りを致します。