礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年2月26日
 
「メルキゼデクとの出会い」
聖日第一礼拝
 
井川 正一郎牧師
 
創世記14章11-24節
 
 
[中心聖句]
 
 18  また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきた。彼はいと高き神の祭司であった。
 19  彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ、アブラハム。天と地を造られた方、いと高き神より。
 20  神はあなたの手に、あなたの敵を渡された。この神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
(創世記14章18-20節)

 
はじめに
 
 
アブラハムとメルキゼデクの出会いを取り上げます。アブラハムは175年の生涯。そのすべてが記されているわけではありません。以前、お話ししたが、いわば葬式の故人略歴、結婚式の新郎新婦紹介のようにその人の特徴、人格がハッキリと理解できるに相応しい程度のことが取り上げられています。その人のすべてを取り上げていません。聖書の著者である聖霊はアブラハムの人物像を紹介するに、これとこれを取り上げればアブラハムを理解できる、ひいてはメシヤがいかなるお方か、贖罪とは何かを理解するに必要と思われる事柄、出来事だけを選び、記しておられます。

きょうは、創世記14章。アブラハムの前半の出来事、特にアブラハムとメルキゼデクの出会いの記事に焦点を合わせます。最初にこの出会いがなされるまでの出来事、背景を簡単に学びます。
 
背景(メルキゼデクの出会いに至るまで)
 
 
@ケドルラオメル王たちに対するソドム・ゴモラの反乱

アブラハムはこの当時、ユダの南の地方、ヘブロン、マムレのかしの木のそばに住んでいました。この場所に居た時、ソドムゴモラ付近に住んでいたロトに大変な事件が起きました。きょうの14章。1〜10節。この箇所は、12年間ケドルラオメルに従っていたソドム、ゴモラの王たちが彼に背いたために、ケドルラオメルとその連合軍がソドムの王たちを再び配下に置こうとして始めた戦いでした。

Aソドム・ゴモラの王たちの完敗

ケドルラオメルの連合軍は次々に諸国を打ち破りながら、ソドムの王たちが支配する地に押し寄せました。向かうところ敵なしという勢いでした。これに対してソドムの王の連合軍はシディムの谷で彼らと戦う備えをしました。しかし、戦いの結果はソドムとゴモラの王の連合軍の完敗でした。 

Bロトも捕虜として連れて行かれる

ケドルラオメルと同盟軍はソドムとゴモラを破り、その全財産と食糧全部を奪って引き揚げて行きました。その時、ソドムに住んでいたロトも捕虜になり、彼の財産も奪われてしまいました。

Cロトを救い出すための戦い

ソドムが略奪され、ロトも捕虜とされて連れて行かれたことを聞いたアブラハムは戦いに参加しました。アブラハムは自分の家で生れたしもべ、つまり信頼できる、よく訓棟された着たち318名を引き連れて敵を必死に追跡しました。同盟関係にあったマムレ、エシュコル、アネルも共に出陣したのではないかと推測します(24)。彼らは夜、敵に向かって展開し、打ち破った。徹底的な戦いとなりました。ダマスコの北まで敵を追跡、戦いは勝利に終わりました。そしてアブラムはソドムとゴモラから奪われた「すべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻し」ました。

Dアブラハムの勝利

こうして勝利し凱旋する人々が故郷に、家に戻っていく帰り道にありました。ちょうどその帰り道、ヘブロンの手前30キロ程のところに、シャレムという町があります。後のエルサレムだが、この時はシャレムの町と呼ばれていました。シャレムとは「平和」の意。ヘブロンに着くためには、この町の東側にある谷を通過することになります。新約聖書では、「ケデロンの谷」といいます。

このシヤベの谷に来た時、二人の王がアブラムを迎えに出てきました。同時なのか、ある程度の時間差があったのか、定かではありませんが。シャレムの王メルキゼデクとソドムの王。ソドムの王のことはあとで見るとして、メルキゼデク。彼は、パンとぶどう酒を持ってきました。そして祝福のことばを口にしました。
 
今日の学び(メルキゼデクとの出会いの意味)
 
 
18-20 また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきた。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ、アブラハム。天と地を造られた方、いと高き神より。神はあなたの手に、あなたの敵を渡された。この神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
 
きょう、思い巡らしたいのは、このメルキゼデクとの出会い、メルキゼデクの申し出について、です。メルキゼデクとの出会い、申し出がいかなる意味を持つか。3つのことを学びます。
 
1.適切な助けとなったもの(タイムリーな助け)
 
 
@パンとぶどう酒

パンとぶどう酒を持ってきました。これはアブラハムたちにとってありがたいものです。ヘブロンまでは徒歩でまだ一日かかる。みな懸命に追跡し、戦ってきました。長い道程を走り続けました。みな例外なく疲れていました。このまま水も食料も与えずに行軍させるのは、総司令官として忍びない。まさに、メルキゼデクは、アブラハム最も必要な時に、最も必要なものを差し入れてくれたのです。パンとぶどう酒。それが人々に配られた時、どんなに喜んだでしょうか。パンとぶどう酒肉体に活力を与えました。心に、たましいに喜びを与えました。そして、メルキゼデクはただ単に食べ物、飲み物だけを差し入れに来たのではありませんでした。そこには、アブラハムたちの働き、労苦に対するねぎらいがあり、感謝もあったでしょう。そしてそればかりではありませんでした。祝福のことばを口にするのです。

A祝福の言葉

「祝福を受けよ、アブラハム。天と地を造られた方、いと高き神より。神はあなたの手に、あなたの敵を渡された。この神に、誉れあれ」
 
2.大祭司的存在・役割を明らかにしたもの=キリストの型
 
 
@いと高き神の祭司と言われる

メルキゼデクの登場はまさしく、大祭司的存在・役割を明らかにしています。至高の神の御名によって祝福しています。とりなして下さっているといってもよい。メルキゼデクは「いと高き神の祭司」(18節)と言われています。

そもそもなぜ、カナン人の王である者がアブラハムの神、イスラエルの神と同じ神の祭司と言われているのでしょうか。アブラハムがその10分の1をメルキゼデクにささげたということは、まさしく祭司として彼を認めているからです。

ある学者はメルキゼデクはアブラハムの神を信じていたであろうと言います。具体的にどのように知り、信じたかは定かではないが、アブラハムが彼からの祝福を心から受けている姿は同じ神との意識があったのではないかと考えます。いや、メルキゼデクはアブラハムの神を知らなかった。カナンの神の名で祝福したのだが、アブラハムが柔らかい心でそれを受け取ったのだという学者もいます。

Aキリストは永遠にメルキゼデクの位に等しい江年の存在

きょうは難しいことは省いて、ともかくも新約聖書ヘブル書で、キリストはメルキゼデクに等しい位の永遠の祭司。このメルキゼデクは大祭司の中の大祭司であるイエス・キリストの型として語られていることに心をとめましょう。彼は「平和の王」にして「義の王」、かつ、「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです」と言われています。彼は王であると同時に、祭司です。詩篇110:4「あなたはとこしえにメルキゼデクの位に等しい祭司」にもあるように永遠の大祭司キリストの予表/型(タイプ)となります。ヘブル書7章は機会があれば、詳しく学びたい思いがしますが、詳しいことは、きょうは省略。

要は、メルキゼデクは突然にアブラハムの目の前に現れ、その後また忽然と消えていきます。神の祭司である以外は、素性がよく分からない。メルキゼデクはキリストそのものではない。ただ、系図が記されていないために始まりも終わりも分からない。その点がキリストに似ているため、「キリストの型」として扱われるようになります。

B大祭司の役割はとりなし(メルキゼデクの陰のお祈りの存在?)

アブラハムにとってメルキゼデクは、まさにいと高き神の祭司でした。聖書の著者である聖霊はこの出来事、この人物を取り上げ、ヘブル書において永遠の大祭司なる主イエス/キリストの予表型(タイプ)と示すわけです。そして、みなさん、大祭司の役割とは何でしょうか。とりなしです。

実は、アブラハムがこの時の戦いで奇跡的な勝利を得たのは、その陰にこのメルキゼデクの大祭司的祈りがあったと考えることもあながち間違いではないと信じます。
 
3.誘惑に対する備えとなった
 
 
@ソドムの王の悪意を秘めた提案

メルキゼデクとの出会い、交わりが、次の人との出会いの備えとなったという意味です。ソドムの王の登場です。アブラハムを迎えた二人は同時であったか、少し時間差があったかどうか。同時のように思えます。でも、状況を考えるとつじつまが合うようで合わない。つじつまが合うか合わないかは別として、メルキゼデクの用が済んだ瞬間か、しばらくの後か、ソドムの王はアブラハムに近付いてきて声をかけました。「アブラムよ。人々は私に返し、財産はあなたが取るように」

これに対してアブラハムは、言い放ちました。22〜23節。「私は、天地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物からは私は何一つ取らない。手を出さない。私自身の名誉のためにそうする。よく聞け。あなたが『アブラムを富ませたのは私だ』と言わせないためである」「但し、私と共に戦った人々のことは別だ。アネルとエシュコル、それにマムレには彼らの分け前を取らせるように」

A神のチャレンジ・テスト

ソドムの王の誘いを断固断ったアブラハムです。そこには、ソドムの王の底知れない悪意、悪巧み、策略が潜んでいるかのようでした。実はこれは、神のテストであると申し上げたいのです。良いものとそうでないものが二つ、目の前に示される。あなたは何を選ぶか。神は選ばせる。二つ並べて、いじわるをするのではありません。良いものを選び、良くないものを断固として退けるとの信仰的決断と実行がテストされているのです。

メルキゼデクとの出会いと同時なのか、それとも若干のずれがあるのか、それとも先に出て来たソドムの王をおしのける意味で、「さて」(18節)と突然にメルキゼデクが登場するのか。ともかくも後からの話がソドムの王です。メルキゼデクとの心からの出会い、恵み、祝福がソドムの王とのやりとりの準備、備えとなったと確信します。

信仰の人も敵の攻撃から無事であるわけではない。勝利のすぐあとに、新たな誘惑に遭うことがあります。アブラハムの場合も同じです。「アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時、ソドムの王はシャべの谷、すなわち王の谷に出て彼を迎えた」(17節)。この行動の中には、敵の非常に深い陰険なたくらみがありました。ソドムの王は、ケダラオメル王とその連合の王たちが示した敵の力とは全く違った方面の、有害な力を示しています。ある学者は、前者はライオンの叫びであり、後者はむしろ蛇のささやきと表現しました。ライオンであろうが蛇であろうが、主の恵みの備えは十分であり、この神のしもべの重大危機にも表わされたものでした。メルキゼデクの登場時期を考えて下さい。絶好のタイミングとなっています。メルキゼデクはアブラハムがケドルラオメルを追い掛けている時に現れませんでした。ソドムの王が登場すると同時か、或いはその前に彼は登場してきました。メルキゼデクはただ単に食べ物、飲み物だけを差し入れるために登場したのではなかった。ソドムの王に対する備えにもなっていたと言えます。

B選びと選別=パン、ぶどう酒、祝福の言葉

神は戦いに勝利した者にそのすぐ後に、良い意味で信仰のチャレンジを与えなさることがあります。栄光は主に、そして選ぶべきものを選ぶ、必要のないものはきちんと処理していくこと。信仰の次の段階への飛躍のためのチャレンジ、テストと言ってよいものです。

実はアブラハムの生涯全体のキーワードは、選びといえます。選びとは同時に結局、必要のないものは切り捨てる、切り離す、離別を意味します。アブラハムの生涯はまさに、これです。

彼はカルデヤのウルを切り捨てました。約束の地カナンを選びました。父テラと死別、それゆえに父としばらく一緒に住んだハランから離れました。ロトと離別しました。ひとり子イサクをささげました。最後には妻サラと死別せねばなりませんでした。長い生涯の中で神のご計画、み思いを選び続けるものでした。逆に言えば、切り捨てる生涯でもあります。ここでも、選びと切り捨ての場面です。

メルキゼデクはアブラハムに神を「天地の主なるいと高き神」と呼び、そればかりでなく、アブラハムをその神によって祝福された者と宣告した。これは彼にソドムの王に会うための備えを効果的に与えました。神に祝福された者が物欲を取る必要がない。そしてもし彼が「天地の主なる神」を見上げているならば、当然のごとく、財産は彼には何の魅力もない。それゆえ、ソドムの王の提案の時、彼は、「あなたのものは何も受けません。アブラハムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように」と答えたのです。アブラハムはソドムの王によって富まされることを拒んだ。もしアブラハム自身が世に支配されていたとしたら、どうでしょうか。

神の意思、ご計画、み思いに対する決意、前進です。物質的欲望或いは罪からの決然とした離別です。言うなれば、この二人の王は、アブラハムの信仰成長の度合いを試すための格好の試金石となりました。神はアブラハムがこの二人の王に対して、いかなる対処をするか、見ておられました。

アブラハムはソドムの王の申し出を断りました。物質的な利害は、アブラハムにとっては取るに足りないもの。それよりもはるかに大切なものがある。アブラハムは今や、それを完全に自分のものにしたのです。
 
しめくくり
 
 
(1)神は信仰者に、最も必要な時に、最も必要なもの・助けを与えて下さる

(2)神は信仰者を引き上げるために、折々にチャレンジを与えられる

(3)神は最善のものを常に備え、それを選ぶようにと希望される(信仰者は、神の備える最善のものを、他のものを離別し、選びたい)

最後に、18〜20節を読んで終わりにしたいと思います。
 
18-20 また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきた。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ、アブラハム。天と地を造られた方、いと高き神より。神はあなたの手に、あなたの敵を渡された。この神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
 
栄光は主に。ご一緒にお祈り致しましょう。