プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年2月26日

「クリスチャンの証」

竿代 照夫牧師

マルコの福音書 5章18-20節

中心聖句

Mark 5:18-20 

それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。

しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

(マルコの福音書 5章18-20節)


A.証こそクリスチャンの存在目的

今回のテーマは「クリスチャン『と』証」でしたが、「クリスチャン『の』証」に変えました。

証というのは、クリスチャン生涯の大切な一部であるという以上に、クリスチャンの存在目的であるからなのです。言い換えると、クリスチャンが生きているのは、実は証のためなのです。イザヤ書43章は最近良く引用されてます。

イザヤ書43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

これだけで終わりますと、私達は神から愛されている−それ自体ものすごく素晴らしいことですが−という満足感で終わりそうです。しかし、これに続いて、

イザヤ書43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

イザヤ書43:10 あなたがたはわたしの証人、--主の御告げ。--わたしが選んだわたしのしもべである。

イザヤ書43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

と続きます。私達は神が救い主であることの証人として今生かされています。この身、この口、私達の行動を通して神の力と神の愛を周りの方に証しすることが、私達の存在目的なのです。

B.変えられた男−−−悪霊から解放されたレギオン

証の生涯を送った聖書の実例として、レギオンという男を紹介します。

レギオンは、悪霊に取り憑かれて絶望的な生活を送っていました。レギオンというのはあだ名でして、ローマの兵制で一大隊の数が6千人であったことから、この男の中に宿っている悪霊の多さを表すために、人々がレギオンと名付けたのです。

「レギオン」は、悪霊に取り付かれると、着物を脱ぎ捨て、大暴れをし、鎖などで押さえられそうになっても引きちぎって暴れ廻りました。夜となく昼となく、墓場を住処としてわめき叫ぶ男の姿、まさに鬼気迫るものがあります。

このレギオンに対して憐れみの心を持たれた主イエスは、天地宇宙を支配する大いなる権能をもって、その多くの悪霊を逐い出し、さらにそれを二千頭の豚に移しなさいます。その豚が崖に向かって突進し、全部ガリラヤ湖に落ちて溺れ死んでしまいます。

そのキリストが今も変わらない力をもって、悪に捕らわれている私達の心を釈放して下さる救い主なのです。

C.献身の申し出

さて、この「レギオン」というあだ名を持っていた男は、

「こんな惨めな私を救って下さって有り難うございました。私はあなたに身も心も捧げます。献身してあなたの弟子になります。」

とイエスに願い出ます。切望した、という表現の方が相応しいと思います。今の言葉で言えば、「神学校に入学して牧師になります」といった願いでしょうか。

やくざだった人がが牧師になった実例を見ていますが、それと似た状況です。本当に率直なまた、自然な反応です。

ただ、その献身の動機の中に、自分が苦しんでいるときはひたすらに自分を押さえつけた人々、猛獣を押さえるように鎖に繋ぎ、足かせをはめて放っておき、しかも「レギオン」という不名誉なあだ名を付けて自分をからかった人々、正気に戻ったときでさえも喜んでくれるのではなく、ただ自分の利益を考え、損害を恐れてイエスの退去を求める人々、こんな理不尽な人々から逃れたいという動機も幾分かは混じっていたかもしれません。

「こんな人々と一緒にいるより、イエスのそばにいてイエスの保護の下にいたい」という単純な願望もあったと思われます。

D.「家で証をしなさい」

主イエスは、「そうか待っていたよ。私の弟子としてしっかり献身の生涯を全うしなさい。」と彼の申し出をお許しにならないで、

マルコ5:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

と言われました。本当に意味深い言葉です。ここから教えられることを幾つかにまとめます。

1)環境から見て自然

主は私達の置かれた状況を良くご存知で、それに相応しい導きをなさるお方です。

主は、ユダヤ人の多い地域では、ご自分がキリストだというニュースによって、政治的なセンセーションを巻き起こすことを避けなさいました。それに引きかえ、この男の住んでいたガダラ地方ではユダヤ人の比率も少なかったものですから、イエスをキリストと公言しても、そんなに大きな問題は起きそうもありませんでした。

2)性格にも合致

主イエスは、この元レギオンさんの性格も見抜かれたのでしょう。

この人は確かに行動的で、弟子グループに入ったならば頭角を現すような可能性はあったかもしれません。

でも、そうした積極的な活動よりも、当たり前の生活を送り、当たり前の人間らしく生きることが、この人のためにも、周りの人のためにも有益と主は御覧になったのでしょう。

3)証の効果

もう一つ上げれば、この人の半生はあまりにも暗く、抜きがたい悪評判に満ちていました。だからこそ、こんな人間を造り変えなさった神の力を証しするのは、彼の親族、隣人、村々でこそ効果的と主は思われたのでしょう。主は、

マルコ5:19b ・・・「あなたの家、あなたの家族のところに帰り・・・

と語られました。

私達の事を良く知らない公共の場で証をするのはそんなに難しくはないかもしれません。でも私達の弱さ、短気なこと、いい加減なこと、意地悪なことをみんな裏も表も知り尽くしている家庭で証を立てるのは容易ではありません。

主は、この男に対して、いきなり外に向かって伝道しないで、家に帰るように諭されたのです。主は私達の様子を皆ご存知のお方です。

私達も同じでありまして、それぞれが置かれた環境、私達が持っている性格、私達がなすべき効果的な証の場所というのは、みんな異なります。私達の主は私達をステレオタイプで扱いなさることはありません。私達一人一人に相応しい証の環境を備え、道筋を示しなさいます。

E.何を証しするか?

クリスチャンの証の要点は、主の力と憐れみです。5章19節にあるとおりです。

マルコ5:19b 「・・・主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

私達は証というと、生い立ちから始まるライフストーリーを長々としゃべること、自分がどんな人間であるかを人々に示すことと勘違いをしてしまうことがあります。この主の証しに対する指示は素晴らしいものです。

1)神の力

自分ではどうしようもなかった性格、行動、自分では救えなかった徹底的な弱さを認めつつ、それを大きな力をもって変えて下さったその主の力を経験し、証ししましょう。

その点で、まだ未熟者ですが」とか、謙りすぎる用語は必要ありません。そんなことは先刻承知なのです。そんな者をも捉えて下さった、変えて下さった神の力を、飾らずに淡々と正直に証ししましょう。また、証し出来るように主を信頼しましょう。

2)神の憐れみ

私達は神に顧みられるような何の価値も取り柄もないものでした。特にレギオンは、鼻つまみ者でした。

私達もそうです。何の取り柄もないものであったばかりか、罪と汚れに満ち、悪臭さえ放っていたものを、きよい神が諸手を広げて受け入れて下さるのが神の憐れみです。「レギオンよ、あなたはそのことを本当に心から感謝し、それを証ししなさい」と主は諭されたのです。

F.レギオンは証しする

レギオンは、議論無しに、素直に主イエスの導きに従いました。その証の場所は自分の家庭、親族はもとより、デカポリス地方全土に及んだのです。

これは後に、福音が宣べ伝えられ、教会が建てられるための種まき的な伝道となったと思われます。

元レギオンは主イエスの言われたとおりの証をしたのですが、言葉遣いがちょっと違います。

主イエスは「主が」なして下さったことを伝えなさい、と言われました。この場合の主は父なる神を指しています。でも元レギオンは「イエスが」なさったことを伝えました。彼には、主とイエスは同一だったのです。

さらに言いますと、イエスの弟子達でさえ長い時間かかって捉えた「イエスの神たる性質」を彼は直感的に捉えていたということになります。

G.私達も考えよう

1)もとの性格は変わってきたか?

私達の元々の性格、その性格が表れた行動や言葉の数々を思い出しましょう。

一つ一つ数えると、顔から火が出るほど恥ずかしい、と私は思います。皆さんはどうでしょうか。次に考えましょう。その性格は変わってきましたでしょうか。

「いや、一つも変わっていない」とすれば、ちょっと問題です。神のみ力によって変えていただくことを祈りましょう。

2)神の力と憐れみを数え、証しよう

もし、変わってきたな、と人からも言われ、自分も感じるようになったら、ひとえに、それは神の恵みと力によるものと感謝しましょう。

そして、機会がある毎に、それを「謙った気持ちで」他の人に分かち合いましょう。それが証であります。

口で言わなくても、変えられた存在そのものが証です。しかし、口で言うことで、より一層証の効果が上がるケースがあります。私達はみんな証人です。お祈りいたします。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of Nakameguro IGM Church

Compiled by K.Otsuka/February 26,2006