礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年3月5日
 
「十字架を担ぐ」
マルコの福音書連講(82)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書15章16-32節
 
 
[中心聖句]
 
 21  そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
 22  そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。
(マルコの福音書15章21-22節)

 
はじめに
 
 
昨週は、イエスが裁判の前後に主が受けなさった辱めと苦しみに目を留めました。残酷な場面でしたが、そこに現れる人間の底意地の悪さ、それを贖罪的な意味をもって忍びなさったイエスの姿を学びました。

今日は、主がアントニア塔を出て、ヴィア・ドロロサ(悲しみの道)と呼ばれる狭い街路を通り抜けてゴルゴタへと向かう道すがらのエピソードを学びます。疲れながらも十字架を担ぐイエスを助けさせられたシモンという男の話です。
 
A.イエス、十字架を担がれる
 
1. 死刑囚の決まり(地図@参照)
 
 
20節には、「イエスを十字架につけるために連れ出した。」とあります。ヨハネ19:17を見ますと、「イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。」とあります。イエスは十字架を背負ってアントニア塔をでて、ゴルゴタ(カルバリ)の丘までの道のりを始められました。直線距離にして、五百メートルといった道のりです(地図@参照)。一人の男が、そこに釘付けされた後で垂直に立てられるのが十字架ですから、そんなに軽いはずはありません。4.5メートルの縦棒、2メートル横棒を別々に運び、刑場で組み合わせるわけです。囚人が担ぐのは、横棒だけであったと言われていますが、それでも40ないしは50キロの重さはあったと思われます。ローマの兵士達は十字架に架ける前に、その十字架を囚人に担わせるという無慈悲で、しかも恥に満ちた扱いをしたのです。
 
2.疲労困憊のイエス
 
 
主イエスは、30歳前後まで大工さんでしたから、どこかの絵画で描かれているような弱々しい人ではなく、日に焼けた、筋骨逞しい青年であったと思われます。しかし、思い出して下さい。その前の夜は遅くまでゲッセマネの園で祈りに打ち込んでおられました。捕縛されてからは、6つのステージの裁判を夜通し受けなさいました。むち打たれ、殴りつけられ、茨の冠を頭に押し付けられたのです。肉体的にはもう限界以上でした。さらに、木材を背負うには背中の傷が痛すぎました。どうやってこの十字架をエルサレム郊外のゴルゴタまで運べるでしょう。恐らく何度も何度も担いでは倒れ、担いではよろめきなさった事でしょう。
 
B.シモン、十字架を担ぐ
 
 
そこで登場するのがクレネのシモンという人物です。21節に、「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかった」とシモンを紹介します。
 
1.シモンという人物
 
 
1)クレネ人:クレネとは、現在のリビア地方(エジプトの西隣のリビア、ベンガジの近く)です(地図A参照)。リビアはアフリカですから、彼は「アフリカ人」と言うことになります。黒い人ではなかったと思いますが・・・。クレネは、ギリシャから至近距離でしたから、ギリシャ文化の影響を強く受けていました。土地も肥沃で、大きな都会です。ローマ帝国の拡張によって、エジプトとともにその支配下に入ります。商業も盛んでしたから、ユダヤ人も多く住んでおり、そのユダヤ人がエルサレムに詣でるときには、リベルテンという会堂を集合場所としていた事が使徒6:9に記されています。
2)ユダヤ人:シモンという名前からユダヤ人であった事が伺えます。彼の住んでいたのはクレネの都会ではなく、田舎(ギリシャ語でアグロス=野原、つまりクレネ町の近郊)の方だったとマルコはわざわざ注をつけています。時は、ユダヤ人の一番大きな祭である過越でした。このために多くの巡礼者に混じって、エルサレムまではるばるやってきたのでした。

3)アレキサンデルとルポスの父:並行記事の中で、マルコだけは「アレキサンデルとルポスの父」と説明したいます。読者にとってアレキサンデルとルポスという兄弟は、良く知られていたお事を伺わせます。新約聖書をずっと調べますと、ありました。ローマ16:13に「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」とあるではありませんか。シモンの子供のルポスはローマ人への手紙がかかれたAD56年頃(つまり十字架から30年近く経ったころ)、ローマに移っていたこと、そのお母さん(つまりシモンの奥さん)は、あの偉大な使徒であるパウロにとってお母さんに等しいお世話をした人であったことが分かります。このころマルコはパウロの弟子に復帰していましたから、シモンの話は良く聞かされたことでしょう。伝説によると、ルポスは、後にスペインの教会の監督になったそうです。<シモン自身については、使徒11:20に出てくるクレネ人がそれかも知れない、また、使徒13:1のニゲルとよばれるシメオンがそれかも知れないという可能性もありますが、これについては根拠が薄いように思えます>。
 
2.シモン、十字架を担がされる
 
 
1)ヴィア・ドロロサを通る(絵図B参照):祭の間は唯でさえ混み合っていたエルサレムの町で、更に大きな人だかりがしていたのがこのヴィア・ドロロサでした(絵図B参照)。何が起きたのか、恐らく野次馬根性以上ではなかったと思いますが、シモンは、その人だかりの中心に向かって人をかき分けかき分け進みました。そこには、ローマ兵にむち打たれながら十字架を担いでいる三人の男がおりました。特にその真ん中の男が疲れ切っていて、何度もよろめき、何度も倒れては起きあがって、必死に十字架を担いでおりました。「どこの誰かは分からんが、ふんとに、可哀相なお人じゃ。」などと呟きながら、じっと眺めている内に、誰かにぐいっと肩を掴まれました。
2)「行役」義務:シモンの肩を掴んだのはローマ兵士です。ラテン語でしゃべったのか、ギリシャ語でしゃべったのかは分かりませんが、ともかく何をすべきかは分かりました。この男を助けろ、という命令です。当時、ローマ兵士は、被占領地の人々を誰でも掴まえて、荷物を担がせる権利を持っていました。主の山上の垂訓の中に「誰かが一ミリオン(1500メートル)の行役を強いるならば、共に二ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)という教えの背景は、この行役義務のことです。この義務は逆らえませんでしたから、無理矢理に、という言葉が入っているのです。

3)なぜシモン?:彼が「いなかから出てきた」という言葉に鍵がありそうです。都会で生活している人々には、十字架といっても珍しいことではなく、出来れば関わらないようにと遠巻きで見物していたことでしょう。シモンは、純粋に驚きと同情の心で、群衆の最前線に立っていたのでしょう。掴まりやすい雰囲気があったのでしょうね。
 
C.シモンの考えたこと
 
 
ここからは、かなり想像が入ります。でも、後の記録を見ますと、それほど飛躍したものでないことを信じます。
 
1. 不平:なぜこの私が?
 
 
シモンは降って湧いたような災難にびっくりしました。えっ、うっそーと言う気持ちでしょう。でもローマ兵には逆らえません。旅の荷物は友達か誰かに任せて、よいしょと担ぎました。意外と重い、でも頑張って担ぎました。やたらに重くて、ごつごつしていて、肩にのめり込む様な辛さを感じたことでしょう。しかし、屈強な若者であるシモンは、そのままぐいぐいと進みました。最初は何も分からず、ただ、エラいことになったという不平の気持ちだけだったと思います。それに恥ずかしさも加わってきたでしょう。みんなが私に注目している、しかも罪人の仲間と誤解している人々も大勢いたでしょう。本当は俺の十字架ではない、他人の十字架を担いでやっているのだと説明したかったでしょう。でもポスターを書いて背中に貼り付けることもできず、ただ我慢の連続だったことでしょう。
 
2.観察:この人は誰か?
 
 
シモンはここで考え始めたのです。自分が身代わりに担いで上げている相手の男イエスとは一体誰なのか、と。まず、その容貌から見て、十字架にかかるような重罪犯人とは思えない、罪人にしては余りに静かで、純粋に見える不思議な人だ、自己憐びんもなく、虐める人々を呪う言葉もなく、却って自分を慰める人々を慰める言葉を与える余裕もある不思議な人だ、周りの人々がユダヤ人の王様とからかっているが、きちがいとも思えない、などと自問自答しながら進んでいきました。そのうちに周りの群衆は二色である事が分かりました。一方の群衆は、惨めで力なき救い主として、彼を罵っていました。他方の群衆は、本当の救い主と信じて、同情の叫びを挙げていました。どっちが本当だろう?後者が正しいのではないか?イエスの心臓の鼓動を聞きつつ、彼はそんな考えを持ち始めました。そしてゴルゴタに到着しました。
 
3.結論:「実に神の子」(15:39参照)
 
 
十字架そのものの物語は次の機会に譲りますが、シモンが、ゴルゴタで行役を終えて釈放された途端に、はい、さようならと宿舎に行ってしまったとは思えません。行きずりではあったが、この不思議な男の最後までをじっと見つめていたと考えるのは自然でしょう。そして、イエスを十字架につけた直接の担当者であったローマ兵士の隊長(百人隊長)が、「実にこの人は神の子であった。」(15:39)と叫んだと同じような感想を持ったに違いありません。それ以後、キリストに従うものとして、福音をクレネに持ち帰り、妻と二人の男の子を信仰に導き、家族を挙げて素晴らしい証の生涯を送りました。
 
終わりに
 
 
マルコ8:34 それから、イエスは群集を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
 
1.「課せられた十字架」を受け取ろう
 
 
私達の人生の中に、こんな肉体的なハンディをどうして負わねばならないのかとか、こんな家庭環境にどうして生まれたのだろうとか、こんな嫌な仕事がどうして与えられたのだろうとか、こんな困難な立場にどうして立たされるのだろうとか、いわば、課せられた十字架があります。本来主イエスが「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)と仰ったときは、自発的に担ぐ十字架の事を指しているのですが、人生には、課せられた十字架というものもあります。クレネのシモンが、最初は不平不満をもっていたものの、十字架を担ぐことによってイエスと近づき、イエスを知り、イエスを信じるようになったと同じように、私達に課せられた十字架には意味があります。み恵みより重い十字架はない、と讃美しました。課せられた十字架を感謝しましょう。
 
2.十字架を担ぎながらイエスを仰ぎ見よう
 
 
シモンは、十字架を担ぐことで、イエスの心臓の鼓動を近く聞きました。私達も苦しみを担うことによってイエスの心が理解できます。十字架を担うことによって大きな恵を蒙るのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」(ヘブル13:12、13)私達が喜んで十字架を担ぐ決意をすると、主イエスが、片棒を担いで下さる、それどころか私達自身を担いで下さいます。
 
お祈りを致します。