礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年3月12日
 
「自分を救えない救い主」
マルコの福音書連講(83)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書15章21-32節
 
 
[中心聖句]
 
 31  「他人は救ったが、自分は救えない。」
(マルコの福音書15章31節)

 
はじめに
 
 
昨週は、主がヴィア・ドロロサ(悲しみの道)と呼ばれる街路を通りってゴルゴタへと向かう道すがらのエピソードを学びました。疲れ切ったイエスを助けて、十字架を担がさせられたシモンという男の話でした。

さて、午前9時頃ゴルゴタに着いた後の物語を進めます。十字架という死刑の方法は、正に苦しみの極致とも言えるのですが、そのみ苦しみに「傷に塩を塗るような」嘲りの言葉がかけられました。「救い主ならば己を救え」この言葉から「己を救い得ない救い主」というタイトルでお話しします。なんとも冴えないタイトルですが、これこそ事の本質を物語るタイトルです。
 
A.イエス、十字架にかかられる
 
1.「麻酔効果」を拒まれたイエス(22-23節)
 
 
十字架が純粋に肉体的にだけ考えても、どんなに残酷な、筆舌に尽し難い苦痛であったかは、想像を超えるものであり、ここで更に説明することを致しません。ただ、その苦痛の極致とも言える十字架に向かう主イエスの態度を、小さなエピソードから学ぶことが出来ます。23節です。「彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。」没薬には神経を麻痺させる効果があり、今日の麻酔剤程の効果は無かったとしても、多少なりとも苦痛を和らげる働きで知られていました。無慈悲なローマ兵達も、「鬼の目にも涙」というような情を少しは持っていたのでしょう。十字架に磔にする大きな釘を手のひらに打ち込む前に、「没薬を混ぜたぶどう酒」を提供したのです。

その時、イエスは、これを嘗めたけれども飲もうとはなさいませんでした。この薬の効果を知らなかったからでは無く、知っておられたからノーサンキュウと仰ったのです。私は朦朧とした意識の中で十字架につくような卑怯な真似はしない、苦しみの杯を正面から飲もう、苦痛に贖いの意味があるならば、醒めた意識を持って正面からそれに立ち向かおうとされました。何と男らしい腹の据わった態度だろうと感服します。
 
2.衣が分けられる(24節)
 
 
このような精神の戦いとは無関係に、ローマ兵達は、イエスの衣を分け合います。被占領民の死刑囚から何かを剥ぎ取ろうなんて、全くさもしいとしか言えない行動ですが、彼等は敢えて禿げ鷹の役を演じます。十字架の周りには、人間の巨悪が渦巻いていますね。マタイは、この出来事は詩篇の予言「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」(詩篇22:18)と見ています。この符合は、弟子達が後になってから、そう言えばそうだった、と気が付いたものと思われます。
 
3.罪状書き:「ユダヤ人の王」(25-26節)
 
 
イエスの頭上には「ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられました。イエスを十字架に掛けた張本人で祭司長・学者達はこれも不満で、「自称・ユダヤ人の王」と書き換えろとピラトに迫りますが、ピラトはこれを無視します。「私の記したことは記したことだ」と。そこにも人間の知恵を乗り越えた神の摂理が働いていました。実際主イエスは「ユダヤ人の王」(メシア的な)だったのですから。
 
B.人々の罵り(29-32節)
 
 
31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけった言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」
 
1.人々とは?
 
 
「道を行く人々」「祭司長たち」「律法学者たち」「イエスといっしょに十字架につけられた者たち」が、ニュアンスこそ少しずつ違いますが、同じ内容の罵声をイエスに浴びせています。他の福音書を全部比べますと、これに、兵士達も加わっています。つまり、イエスに反対する者達の大合唱であったことが分かります。彼らは「頭を振りながら」嘲りました。この動作も実は詩篇22篇に予言されています。「私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。」(詩篇22:7)いかにもしたり顔で、評論家的な態度で主イエスを嘲ったかを示しています。
 
2.その内容は?
 
 
1)「他人は救ったが、自分は救えない。」:他人を一生懸命救おうとしたお節介な人間、肝心の自分の苦しみからは救う力がない、なんと情けない「救い主」かという皮肉が籠められていました。人間は悪口を言うことでは天才です。マスコミが、一旦ある人をターゲットに致しますと、まあ、ここまで言うか、とあきれるような天才的な悪口をそのターゲットに浴びせるものです。その人の一番弱いところをみごとに衝いてくるのです。他人のお節介よりも自分の事をちゃんとしなさい。お節介の事を英語では、他人の靴に自分の足を突っ込むという言い方をします。自分をしっかりやりなさい、というのは励ましではなく、からかいであり、イエスは神の子ではないという、不信仰の現れです。

2)十字架から降りなさい:「キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。」イエスが自分で自分を救う道は、ここでエイヤッと奇跡を起こして、十字架からパッと飛び降りることだ、それをやってご覧、(出来はしないだろう)というからかいでした。でも彼らは意識していなかったかも知れませんが、それは正にサタンの誘惑でした。サタンは十字架の道に進むイエスを阻もうと、何度も何度も十字架を避けよと誘惑してきました。荒野の誘惑の時も、高い塔から跳び下りてご覧、みんながあっと驚いてあなたを信じるから、と誘惑しました。ペテロに十字架の予告を最初にしたときにも、サタンはペテロの口を通して、そんなことはやめて下さい、と言わせました。十字架にかけられ、肉体的には苦しみの絶頂にあられる主イエスに対して「十字架から降りてこい」という誘惑は強力なパンチでした。この誘惑の悪辣さは、イエスが十字架から降りる力も大義名分も持って居られた点を衝いたことです。イエスはその奇跡の力をご自分に適用なさる事も可能でした。ご自分は何の罪も犯しておられなかったので、さっさと十字架から降りてきても、誰からも文句を言われる筋合いもなかったのです。私達にも、あなたの担いでいる十字架は他の人のそれと比べると重すぎるよ、十字架から降りなさいと、親切にも(?)勧めてくれます。私達の人生には耐え難いほどの大きな十字架を担わさせられるという経験があります。自分の能力を超えた責務を与えられてたじろぐこともあるでしょう。いわれのない非難を浴びて、言い訳や自己弁護をしたい誘惑に駆られることもあるでしょう。一生懸命荷を担っているのに一つも評価されないで、投げ出したくなることもあるでしょう。これらの誘惑はみな「十字架から降りて来い」というサタンの策略であることが多いのです。
3)「われわれは、それを見たら信じるから。」:信じるための条件として言っているのではありません。信じないことに決めていて、その自分を正当化するための口実としてだけ言っているのです。見たら信じる、というのは信仰の原理ではありません。信仰の原理は、見ずして信じることにあるのですから・・・。
 
C.イエスの受け取り方
 
 
主イエスは、この罵声に対して何の返事もなさいませんでした。なぜでしょうか。良くは分かりません。
 
1.頷きをもって
 
 
これも推測でありますが、主は心の中で、それで良いのだ、自分を救おうとしない姿勢こそ本当の救い主の道なんだという頷きをもって人々の嘲りを受けなさったのではないでしょうか。悪い人々が私達に悪口を言うとき、私達はそれこそ神さまからの勲章と受けとめる余裕を持ちたいものです。私の例で恐縮なのですが、ナクルで私はある社会奉仕的なクラブの会長をしたことがあります。ナクルには古狸のような町の顔役が居座っておりまして、彼の気にくわない事をした者ですから、彼は怒って、You were the worst chairman in the history of this club.と色をなして公然と私を非難しました。私は、「ありがとう、あなたに非難していただいて私は光栄に存じます。」と答えました。悪しき人々に非難されることは、実は勲章である場合が多いのです。
 
2.自分を救おうとしない人こそ救い主
 
 
1)イエスの教え:考えて下さい。救い主が自分を救うことを真っ先に考えたら、その途端に、彼は救い主でなくなるのです。船長が、嵐に遭ったときに、乗客や乗員の安全よりも、自分がどうやって生き延びようかとうろたえたら、彼は船長ではなくなるのです。主イエスの教えは、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(マルコ8:35)というものでした。
2)イエスの生き方:そして、イエスの生き様は、正に他人を救って自分を救おうとしない生き方でした。救うことが(物理的に)出来ないのではない、(使命として)出来なかったのです。主イエスは、その生涯の間でも、ご自分の渇きを忘れて、心渇いたサマリヤの女を導かれました。一日の激しい働きの後で、休みたい時に押し寄せてきた病人達をひとりひとり癒しなさいました。

3)イエスの死に方:他人の罪を全部背負う十字架にかかりなさるときに、麻酔効果のぶどう酒を拒否なさったことも、自分を救おうとしなかった姿勢の現れでした。自分を救うことを拒否したからこそ、他人を救うことが出来たのです。それこそが救いのための唯一の道だったのです。
 
終わりに
 
1.己を第一とする生き方を捨てように
 
 
己をすて、おのが十字架を負って従うことがキリスト者の生き方ですが、己を立て、おのが十字架を避けるようにとサタンはいつでも誘惑します。そのサタンの誘惑に、はっきりとノーを宣告しましょう。
 
2.他者の為に生きる自分であり、教会となろう
 
 
ノーを宣告するのは一面ですが、積極的には、他者のために自分は生きているのだ、教会が存在するのは他者のためなんだ、と言うことを自覚して、それにそうような生き方を個人としても、教会としても全うしましょう。具体的な行動で示しましょう。
 
◆◇ ノーリッシュ宣教師の証 ◇◆
 
 
締め括る前に、このテキストで説教するときに、どうしても忘れられないエピソードを紹介させていただきます。1968年の暮れ、私が丸の内の副牧師であった頃です。

インドで宣教師をしておられたノーリッシュというイギリス人が、日本に立ち寄られました。金曜日にBTCで特別講演をなさった後、宿舎である横浜に帰ったときに、その日具合が悪いからと言うことで宿舎に留まられた奥様が帰らぬ人となっているのを発見されたのです。翌々日の聖日は新国際ビルの丸の内教会で説教の予定でした。蔦田二雄先生は、こんな時に説教は出来なさらないだろうと変更を示唆されましたところ、「いや、私は予定通り説教をします。」と仰って説教をなさいました。

マルコ15章との並行記事であるマタイ27章からMyself or Others?(自分のためか、他の人のためか?)との題の説教でした。十字架の主イエスから、Surrendering Grace(明け渡す恵み)、 Serving Grace(仕える恵み)、 Sacrificial Grace(犠牲的な恵み)と三つの恵みを語って下さいました。昨日最愛の奥さんを天に送ったばかりなのに、心の動揺を見せることなく、己を救おうとしない姿勢こそ救い主の徴、と淡々と語られました。私はそこに本当の宣教師魂を見る思いでした。

その日の午後、横浜の外人墓地で埋葬式が行われました。私の日記には「ノーリッシュ師の信仰的態度、地上を仮の宿として天を見上げて歩む聖徒の美しさ、恬淡とした心の在り方、奉仕への責任感、世界人としての心の寛さ・・・すべて学ぶべし。」と記されています。

私達をこのようにさせて下さる神の恵みを信じましょう。お祈りを致します。