礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年3月19日
 
「大祭司なるイエス・キリスト」
聖日礼拝
 
井川 正一郎牧師
 
ヘブル7章22-28節
 
 
[中心聖句]
 
 24  しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
 25  したがって、ご自分に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
(ヘブル7章24-25節)

 
序 論
 
 
カトリックとプロテスタントの違い
 
 
@神父と牧師

神父は「神様の側に立つ代理人的立場」との意味がありますが、牧師は「羊飼い」の意味があります。

A聖餐とミサ

プロテスタントとカトリックの違いの中で特に大きいのが、聖餐の考え方です。プロテスタントは天国に入る条件・救いの条件(維持条件も)はあくまでも信仰です(この信仰とは聖からずば、主を見ること能わずと一致したもの)。これに対して、カトリックは教会という客観的施設で行われる儀式、特に礼典(七つの秘跡)にあずかること、また善行を積み重ねること等も「条件」として加わってきます。七つの秘跡とは、洗礼、堅信礼、聖体受領礼(ミサ)、任職礼、結婚礼、懺悔(告解)、塗油(終油)礼、です。

カトリックの中心的営みはミサです。ミサは、いつもなされるものですが、格別に日曜日の礼拝というのは必ずミサを中心として営まれます。順序も明確に定められています。また典礼文も、歌も、唱える言葉も決められている。礼拝・ミサを司るのは司祭に限定されます。これはカトリックの礼拝・ミサはいわば、神に対する厳粛な思いをもって営まれ、特に人の手、或いは人の言葉等で自由に変化させることは不敬虔なことで、聖なる神の分野を犯さないとの姿勢を示すものといえます。脱線するが、この姿勢は聖書の言葉に対しても表れる。聖書翻訳についてカトリックがプロテスタントのあり方を強烈に批判(それは神の言葉に人間の手を加えることは冒涜との意識)したのは、ここに理由がありました。

プロテスタントの聖餐との違いは、神が信仰者のために備えて下さったものが聖餐、人の罪を怒る神をなだめるために行うのがミサ。聖餐は牧師が通常会衆を向いていますが、ミサは司祭が会衆を背にして神に向かっているものです。プロテスタントにとって聖礼典は洗礼と聖餐だけで、二つともあくまでも「恵みの手段」であり、救いの維持条件ではない。

私たちのプロテスタント教会では聖餐は洗礼と共に、聖礼典の一つで、恩寵の手段の一つ。そして、その執行者は神から立てられた牧師です。カトリックとは違い、会衆を向いて行います。そして、このような聖餐式を行うことのできる理由、根拠は、結論を先に言えば、今も神と人との間にあってとりなしをして下さるお方がおられるからです。主イエス・キリスト。大祭司なるイエス・キリストです。
 
ヘブル書
 
 
ヘブル書とは一言で言えば、大祭司なるイエス・キリストが現在もまた将来も変わらずに人々のためにとりなしをして下さるということ、大祭司なるお方を示す書です。

@ヘブル書の歴史的背景は、1世紀後半のローマ帝国による激しい迫害下、非常な苦難と試練の状況。

Aそのような中で特にユダヤ人信仰者の中に、ユダヤ教に戻る者が起こる=ユダヤ教・律法主義への回帰。 

B信じて救われていたが、真理からの逸脱がみられるようになった。そして多くの者たちの現在野姿は、いわば宗教的漂流状態にあり、確かな停泊地を離れて漂っている状態。潮の流れに押し流されている状態。

その解決のためにヘブル書の著者はまず何よりも、

@ユダヤ教・律法主義に勝るキリスト・福音の優越性の提示
a)「新約のレビ記」といわれる
  (旧約の律法・祭儀、幕屋の新約的意味の提示)
b)「さらに勝る」キリストを示す(13回)

A航海用語を用いながら、航路を着実に保ち続けることの勧告(2:1、3:6、6:19、10:38、11:27、13:9等)

B大祭司キリストの提示(キリストは現在、何をしておられるか)

C信仰者が大祭司(錨)なるキリストに堅く結び付いて、押し流されることのない生き方をするようにとの勧告・警告(…しようではないか=LET US)「宗教的漂流からのがれ、確かな航路を進むように」

福音書はキリストがいかなるお方として、いかにこの地上を過ごされたか、いかなる働きをされたかの過去的事実を述べます。これに対してヘブル書は現在イエス・キリストは何をしておられるかという、現在、今の働きを示すものです。

祭司或いは大祭司の務めとは、神と人との間に立って、人々のためにとりなす務めです。罪の故に神に近付くことのできない人間のために、神と人々の間に立って仲保者・仲介者の役割を果たします。とりなしの務め。聖餐式を行うことのできる理由・根拠も、この大祭司の務めが現在もなされているからです。
 
本 論(大祭司なるお方に焦点を合わせる)
 
 
きょうは、いつもは聖餐とはそもそもいかなる意味があるのかといった、聖餐そのものを直接的に扱いますが、きょうは格別にこの聖餐式ができる理由・根拠となっている大祭司の存在について、その役割・意味に焦点を合わせたいと導かれています。それを理解した上で、その角度から改めて聖餐の意義を学びます。ヘブル7章を中心にして、大祭司イエス・キリストと題して、短く神のメッセージを取次ぎ、そして聖餐式に臨みたいと思っております。

先程言ったように大祭司とは、罪の故に神に近付くことのできない人間のために、神と人々の間に立って仲保者・仲介者の役割を果たします。とりなしの務めです。今もその働きが有効な理由は何でしょうか。3つあります。
 
(1)永遠に存在する、変わらない大祭司の故(23節)
 
 
23 また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、・・
 
旧約の大祭司と比較されています。旧約の大祭司は、いつかは死ぬとの現実が待っています。死ということがあるためにその務めをいつまでも果たすことができません。しかし、キリストは神の御子として、人として永遠に存在されるお方です。それ故に変わることなく大祭司の務めを果たすことができなさるのです。
 
(2)完全な御業をなされた大祭司の故(27節)
 
 
27 ほかの大祭司とは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というおは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
 
旧約の大祭司は人間であり、自分自身のためにも他の人々のためにも毎年、繰返していけにえをささげ、とりなしをせねばなりません。しかし、大祭司キリストは27節にある通りです。大祭司キリストは、神であり人である御自身の犠牲の献げものにより、人を代表して父なる神に近づき人を弁護し、仲保者となられました。大祭司キリストは御自身の犠牲により、人間の罪を負い、自らを犠牲の供え物として神に献げ、罪の贖いを完成されました。何度も繰返す必要がないのです。「ただ一度」だけで、それは完全なものであり、永遠に有効なものとされました。だからこそ、25節にあるように、御自身によって神に近付く人々を完全に救うことがおできになるのです。

完全とは、キリストの苦難と犠牲によって「栄光ある終局」に至るとの意味です。もう終わり、まさに完成した。残す所のない終局・完成したとの意味です。救うことができるのです。その救いに不完全さはありません。繰返したり、追加削除訂正する必要が毛頭ない完全・完璧。26節=罪から全く離れている人間が罪の贖いとして、その罪を担って下さったからこそ、人の救いの道が開かれました。そして、そのお方が今や天にあって、きよきお方として存在し、大祭司としてとりなして下さっているのです(=必要不可欠なお方)。
 
(3)現在(今)も生きて働く大祭司の故(25節)
 
 
25 したがって、ご自分に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
 
聖餐の営みが可能なのは、このお方が今も生きて働いておられるからです。このような今も大祭司としてとりなして下さるお方がおられる故に、聖餐式も有効なものとして執行できるのです。

大祭司なるお方はこの聖餐の意義がどのようなものであるかを示されます。少し、聖餐の意義をお話ししますが、一言で言えばキリストの十字架の御業・贖いの御業を覚えるもの。その十字架の御業によって、過去的には罪がゆるされた、救われたとの事実を覚えること。現在的には、それに対する感謝と、その感謝に基づく信仰と献身を刷新すること。将来的には来るべき主のおいでを待ち望む希望、確信が与えられること。この過去的、現在的、将来的な3つの面における意義を持ちます。

言い換えれば、@霊的経験の確認と、信仰の刷新・献身、そしてきょう特に申し上げたいことは、聖餐は更に、Aキリストに似た者としての成長、ひいてはそれは神と顔と顔を合わせる経験に導くとのの意義もあります。

私たちが正しくパンとぶどう液を受け取るならば、それはただ私たちの体を養う地上のパンとぶどう液ではなく、私たちのたましいのための天的食物。キリストの生命と聖さに満ちたこの食物は、私たちをキリストと同じ性質を与えて下さるもの。すなわち、私たち人間をキリストに似た者への変貌を可能とするものです。大祭司なるお方はこの聖餐の意義がどのようなものであるかを示されました。そのみわざを通して、神にはばかることなく近付く道を開かれたのです。救いのきっかけとなり、救いを完成させるものとして下さったのです。キリストに似た者への変貌、そしてそれは究極的には神と顔と顔を合わせる経験、神と一つとなる経験に導くものなのです。

聖餐式とはそのような栄光ある意味が含まれている。今申し上げた神と顔と顔を合わせる経験、換言すると、神を見ることの体験は、非常に個人的事柄であると同時に、共同の体験でもあります。非常に個人的なものであると同時に、それは「みなと一緒に」に体験するものです。共同的意味を持っています。

大祭司なるイエス・キリスト。このお方が今も生きて働き、とりなして下さっている故に、私たちは生かされ、そしてこの聖餐式にもあずかることができます。@永遠に存在し、変わらない大祭司、A完全な御業をなされた大祭司、B現在(今)も生きて働く大祭司の故です。御自身の犠牲により、一度だけのささげものによって完全な御業がなされました。永遠までも変わらないものとして、今も有効なのです。
 
締めくくり
 
 
(1)自分の信仰を吟味しよう!
 
 
何よりもまず心の点検の必要性を知らされます。
 
(2)大祭司的人生を過ごそう!
 
 
大祭司なるお方をきょう特に学んだことには、それなりの意味があります。私たちの人生を大祭司的人生としたいものです。先週、主牧のメッセージの締めくくりは「他者のために生きる教会となろう。自分中心の、自分の満足だけの教会ではなく、他の人のために生きる我ら、教会となろうではないか。」でありました。

同じ趣旨です。大祭司とは神と人との間に立ち、とりなす務めです。他者のためにとりなす務めです。人生ということばを分解すると、4つの意味が生じると言った人がいます。

@人として生まれる(運命)
A人として生きる(使命、責任)
B人を生かす(相互扶助・結合、活力・生命力)
C人を生む(繁栄、育成・教育、継続)

大祭司的人生とは、人を生かし、人を生み出す働きです。聖餐式にあずかるとは、自分自身と、それだけでなく、人を生かす、人を生み出す大祭司としての役割をも頷くことであります。大祭司なるイエス・キリストは、今もとりなしして下さり、我ら一人一人を、そして我ら全体を生かし、生み出して下さるのです。
 
ご一緒にお祈り致しましょう。