礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年3月26日
 
「すべてのものを活かす」
年会合同礼拝 (写真はここをクリック)
 
竿代 照夫牧師
 
エゼキエル47章1-12節
 
[中心聖句]
 
 9  この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。
(エゼキエル47章9節)

 
始めに:第17総会期の課題
 
 
おはようございます。第61次年会の合同礼拝をこのような形で持ち、私達の教会の頭でありなさる主の前に共に跪き、心を一つにして主を賛美し、み言葉に聞くときが与えられたことを感謝しましょう。主にあるはらからが「相睦みて共に居るはいかに麗しく、いかに楽しい」ことでありましょうか。
 
1.主体的な継承
 
 
このたびの年会は、昨月の9日と10日に行われた第17次総会において採択された組織改革によって刷新された組織と、その時に選出された新しい執行部によって出発した教団の第一歩であるという意義深いものであります。この三年を第17総会期とよぶとしますと、この17総会期の運営の大きな課題は、「主体的な意味での継承」と言えると思います。

昨年は教団創立60周年を祝いましたが、60周年記念事業の意義は、教団創立に関わる主の導き、期待、使命を再確認するということでした。さらに、その後の進展に見られる主のみ業を感謝し、評価しつつ、それを次代の私たちがどう継承・発展させていくかを真剣に考えました。それらが、「インマヌエルの60年」「声」「聖宣」などの刊行物に結晶されました。

創立者のスピリット、思想、教えなどを、21世紀の視点からどのように評価し、どのような形で継承発展させるかについては、私達の主体的取り組みが必要です。私が敢えて主体的という言葉を使いましたのは、「継承」が受身的なものではなく、私達一人ひとりが自分のものとして咀嚼し、消化し、しかも21世紀的な文脈の中で、それを創造的に生かす工夫をもって行いたいという意味合いからです。
 
2.活性化
 
 
これと関連して第17総会期のための祈りと願いは、教団・各教会・各個人の「活性化」であります。活性化とは、人間の努力や工夫で何かを活性化させるという意味では全くなくて、聖霊のお働きによって各人、各部門、各教会、教団全体が活かされ、成長するという意味で使っております。

今までも主は力強く、またご自由に働いておられました。それ故に私達が今このような形で存在しています。ただ、ここでキーワードとして敢えて取り上げたのは、消極的には私達の側でそれを止めてしまうような要素を除き、積極的には主のお働きに参画することによって、より一層ご自由に、力強く働き給う様を見せていただきたい、という理由からであります。特に、若い層の人々の間で、主の大きな、そして力強いお働きを見たい、そしてそのために私達がなすべきと示されることには、全力を傾けたいと願います。
 
3.活ける川の幻
 
 
そのような思い巡らしのうちに、鍵となる御言葉として与えられたのは、エゼキエル47:9「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」であります。この川について、アダム・クラークは、「福音の恵みが世に及ぼす影響の大きさを示す絵」であると解説しています。川についての観察の前に、エゼキエルの時代背景を概観したいと思います。
 
 
[ 聖 書 ]
3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。」
12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
(エゼキエル47章3-5,7-12節)

 
A.エゼキエル:希望の預言者
 
1.エゼキエル時代の課題:イスラエルの滅亡と捕囚
 
 
この預言を行ったエゼキエルが生きていた紀元前6世紀には、バビロン帝国がスーパーパワーとして中東世界を支配していました。小国であるユダもご多聞に洩れず、バビロンによって滅ぼされ、捕囚というイスラエル民族にとって未曾有の苦しみを経験しました。
 
2.エゼキエルの預言:審判と希望と
 
 
1)審判の預言:捕囚は何回かに亘ったのですが、その第二回(597年)に、エゼキエルは、多くの国民と共にバビロンに連れて行かれました。3年後、彼はバビロンのユダヤ人入植地で預言を始めました。最初の預言は専ら裁きの預言でした。つまり、バビロンに連れて行かれたという民族的裁きを受けながらも、その意味を深く理解しないで、「神は私達の国とその都エルサレムを守られる」という淡い期待をもっていた同胞に対して、「そんなことはない。神はイスラエルとエルサレムをその罪の故に、徹底的に滅ぼされる。」と語ったのです。それが前半の1章から32章です。

2)希望の預言:33章から預言の内容ががらりと変わって、希望と慰めに満ちた調子になります。そのきっかけは、エルサレムの最終的な陥落・破壊が586年に起きたからです。これによって同胞は淡い期待を砕かれ、絶望のどん底に突き落とされました。預言者というものは不思議なもので、一般の人々と反対の事を見、語ります。エゼキエルは、「絶望するのではない。神はその民をもう一度回復させなさる。」と預言を始めました。その流れにあるのが40−48章で、そこでは回復された神殿を中心にしたイスラエル全体の祝福が預言されています。
 
3.預言者の見る現実:「死海のように」絶望的
 
 
末の日に復興する筈の神殿の幻のクライマックスが、47章、神殿の敷居から出た水が大きな流れとなって、流域、特に死海の一帯を活かすというビジョンです。エゼキエルは、彼の住んでいた世界を、死海のような命のない、絶望的な状況と見ていたのです。

私達の21世紀は死海よりも絶望的な形相を示しています。私達は戦争のない世界、地球上のあらゆる人々が互いを顧みるような社会を期待して、新しい世紀を踏み出しました。しかし、この5年半私達が見てきたものは、戦争や民族紛争の拡大、環境の絶望的なまでの破壊が進行している、日本の社会もモラルが階段を転げ落ちるように低下していく悲しい現状であります。地の塩、世の光であるべき教会も、全体としてみると元気がありません。インマヌエルの歩みも、右肩上がりが続いた創立期から1980年代ころを境として停滞と後退を見ている現象に私達は目をつぶるわけには行きません。

そんな中で何かの活路を見いだすとすれば、内から湧き出る主の恵み、その恵の現れとしての聖霊の力強いお働きであります。

 
B.不思議な川
 
 
さて、エゼキエルに戻ります。実に不思議な川です。3節から5節までを読みましょう。
 
1.増して行く豊かさ
 
 
3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
 
その水量が不思議なように増して行く姿が何とも印象的です。神殿の敷居にぽたぽたと垂れていたごく少量の水が川となり、その川が一千キュビト(約四百メートル)計る度にその水量を増し、二キロも行かない内にもう歩いては渡れない程の大河となるというものです。具体的に、これが教会の成長の予言なのか、あるいは他の事を意味するのか、聖書注解者はいろいろな示唆をしています。ともかく、これは、神の恵みの業が必ず拡大し、成長するものという真理を示しています。
 
2.生かす力
 
 
7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。」
 
その川はエルサレムの神殿から東の方角へと流れていきます。エルサレムと死海の間の地域は砂漠のような不毛地帯です(地図をご参照ください)。「アラバ」と新改訳聖書で訳されていますが、特定の地名ではなく、一般的に荒野と訳した方が良いと思います(アラブの語源となった言葉で、不毛の場所、荒涼とした場所という意味です)。ともかくそれは海に入ります。海とは、この場合死海のことです。

現在でもそうですが、死海とは文字通り死の海です。その水面の海抜は、マイナス3百メートルと地球上の一番低いおへそのような場所が死海です。話は飛びますが、この辺から紅海、そしてエチオピア、ケニア、マラウィと地球の裂け目と呼ばれる大地溝帯が走っていて、今でも毎年僅かずつ裂け目が拡がっています。さて、地球の裂け目の一番底にある死海は、水が集まるだけで外に流れ出ませんから、塩分が溜まる一方です。当然生物は育たず、正に死の海です。

しかし、エゼキエルの幻の不思議さは、その死の海にフレッシュな水が流れ込み、その流域に生命をもたらすと言うところにあります。川の両岸の木々は青々と繁り、月々実を実らせます。その川の中には多くの種類の魚が生息し、多くの漁師がその生計を立てる程でした。エンゲディとは、死海の西岸の荒れ地です。ダビデが昔、その周辺の洞穴に身を隠した場所でもあります。そこが、漁業の盛んな場所になると言うのです。エン・エグライムというのは、多分死海の北岸であろうと思われますが、良くは分かりません。

それは別としても、「この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」というのは、何とも象徴的ではないでしょうか。聖霊を与えられたキリスト者達が、行くところ何処でも人々を活かし、癒し、実を実らせる、という祝福の器となることが約束されています。素晴らしいことではありませんか。

主を信じる者が存在し、活躍する所どこでも、他の人を薙ぎ倒してしまうのではなく、他の人を活かし、癒し、実を実らせるエンカレッジャーとしての役割を果たさせて頂きたいものです。神のみ業とはこの様な形で拡がっていくものでしょう。植物好きな人のことを英語でグリーンサム(緑の親指)と言います。その人が触ると、植木でも何でも活き活きしてくるのです。下手な人が触ると、生きるものまで死んでしまいます。私達は家庭にあって、職場にあって、社会にあって、教会にあってグリーンサムでありたいものですね。
 
3.結実をもたらす力
 
 
12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
 
この水は、周りのものを活かすだけではなく、豊かな実を結ばせます。この言葉は詩篇1篇を思い出させます。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇 1:3)この結実は時々ではなく、継続的です。努力の結果絞り出すような結実ではなく、ごく自然な形で、迸る命が次の命を再生産していくようなダイナミックなものです。私達は魂の救いを祈り、求めています。それも、鉢巻きを締めて、竹槍をもって必死の形相で戦う伝道と言うよりも、私達の豊かさが溢れ出て、次の命を生み出していくような再生産的な伝道の結実です。私達が命の水に溢れるとき、主は、そのみ業を顕わして下さることでしょう

 
C.その力の秘訣
 
 
エゼキエルはその様な不思議な川の秘訣を短い言葉で言い表しています。「その水が聖所から流れ出ているからである。」と。
 
1.聖所からの水
 
 
聖所とは文字どおり聖なる場所です。どんなに素晴しく見える働きがなされたとしても、その奉仕者達の心が清められておりませんと、その運動は曲がってしまいます。残念ながら、教会史はこうした宗教運動の実例を多く示しています。ジョン・ウェスレーから始まったメソジスト運動が、その運動の結果として勤勉に働く人々を生み出し、その結果として貧しい人々が豊かになり、さらにその結果としてその富が世俗化を齎してしまった、というのがその一つです。

聖所とは神に犠牲が捧げられ、民がそれを通して神に近づき、神が民に会って下さる場所です。キリストの贖いがその中心です。贖いが中心であるということは、私達人間が神の前に徹底的に無力であり、罪深い存在であり、滅ぶべき存在であることを認めること、そして、キリストの中に完全な赦し、きよめがあり、導きがあり、供給があり、励ましがあるという事実を100%認めつつ日々を歩むことです。毎日のデボーションの中心は、自らを贖われたものと確認することから始まるのです。初代総理の書かれた「朝毎に主の前に」のなかで、朝の祈りの焦点は、「どこまでも、贖罪の事実に立脚した魂の営みでなければなりません。」と語っておられるところが、この本の鍵であると思います。
 
2.聖霊に満たされること
 
 
エゼキエルが見た幻は、単なる理想や願望の絵なのでしょうか。そうではありません。主イエスは、この幻は聖霊の満たしによって現実化するのだと仰いました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。)」(ヨハネ7:37−39)と。

「聖書が言っているとおりに」という聖書とは、エゼキエルの預言をも含んでいます。主イエスはここで、聖霊の満たしが鍵だと仰っておられます。キリストが上げられなかったので聖霊が誰にも与えられていなかったというのは、キリストの贖いがなされる前でしたから、その自由な力を発揮して頂くような意味においては注がれていなかったという意味です。

現実のクリスチャン生活において、聖霊を頂いていても、(つまりキリストを心に受け入れていても)満たされていない状態というものはあり得ることを示唆します。コリントのクリスチャンについてパウロは、御霊を抱いた信仰者ではあるけれどもそれと反する「肉的な心」が残っていて霊的な働きを妨げている、と指摘しています。一方に置いては聖霊による新しい性質を持ち、それに従って歩もうとしながら、他方に置いて自己中心的なスピリットが働いて、聖霊の自由なみ業を妨げてしまうのです。

自己中心主義は明け渡さねばなりません。信仰生活を送りながら、利己主義、御利益主義に陥る危険性はいくらでもあります。教会生活の中でも、自分の名誉、地位が大切と固執する気持ちが働く余地があります。聖霊はそんな自己中心をどんなに憂いなさることでしょうか。どうかその自己中心を、キリストと共にしっかりと十字架につけて頂きたいのです。

メーベル・フランシス宣教師は、日本に来て暫く後に、あることで根も葉もない噂を立てられ、大きな試みを受けました。弁解したい気持ちとの戦いの中で、自我を十字架につけることを示されました。しかし、肝心の死ぬ方法がわかりません。「死ぬ方法を教えてください」と切なる思いで叫びました。そのとき、自我が頭をもたげたなら、一切これに弁解せず、すぐさま主に持っていくこと、告白することを教えられ、実行しました。彼女は全き自由を与えられ、その後も、その態度を持続し続けたと証しています。自我の死、そこに聖霊の自由な働きの始まりがあります。
 
3.内側からの泉
 
 
主イエスは、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と、私達の内から溢れ出る恵みを約束しておられます。外から供給されるのではありません。私達の喜び、幸福感と言うものは、外側の刺激、喜びに左右されるものであってはなりません。スポーツのイベントとか、音楽のイベントとか、肉体を満足させるような喜びはそれ自体悪い事ではないのですが、それに私達の幸福が寄り掛かってしまうと言うのは健全では在りません。WBCで日本が優勝したことはすばらしいことです。私も思わずやったーと叫んでしまいました。でも、そのような喜びは2日くらいしか続きません。主イエスは私達の喜びと満足の秘密として心に住み給う生きた水であります。私は趣味とか芸術とかスポーツと言った外側的な楽しみを持ってはいけない等と堅いことを言うつもりはありません。むしろ逆で、大いに人生をエンジョイしたら良いと思います。

キリスト教は真面目なだけで陰鬱な宗教だというのは、全くの間違いです。主イエスはカナの結婚式では心から楽しんだお方だったと言うことを忘れてはいけません。ただその様な楽しみにのめり込んだり、それを主イエスにおける真の幸福の代用品に据えたら、それは大きな間違いです。「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(詩篇 36:7−9)とある通りです。

聖霊の満たしは、酒が私達に与える以上の陽気さ、活力を私達に注入します。ですから、詩とさんびと霊の歌が湧いてくる人生がもたらされます。陰鬱なキリスト教でなく、自由で活気に満ちた教会生活を見たいものです。

 
おわりに
 
1.御霊の満たしを求めよう
 
 
この日、新たな意味で聖霊に満たして頂き、そのご自由なお働きをこの身を通して期待しようではありませんか。自分ではなく、御霊の恵が溢れ、溢れ出るようなみ業を見ようではありませんか。自己中心の塊が、聖霊の自由なお働きを妨げてはいないでしょうか。それを単純にささげ、十字架につけて、聖霊に自由に心を支配していただく関係を築きましょう。
 
2.私達自身がこの川となろう
 
 
すべてが枯れきった社会、ギスギスした人間関係によって傷ついてしまっている社会、どうかするとそれが教会の中にまで入り込んでいる現状です。それを嘆くのではなく、批判するのでもなく、私自身が恵みの器となって活ける水を注ぎ出しましょう。そこにこそ、教団と教会の活性化の鍵があります。
 
お祈りを致します。