礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年4月2日
 
「見捨てられた救い主」
マルコの福音書連講(84)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書15章33-39節
 
 
[中心聖句]
 
 34  「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」
    (わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)
(マルコの福音書15章34節)

 
はじめに
 
 
前回は、「己を救い得ない救い主」というタイトルで、敢えて己を救おうとなさらなかった主イエスの雄雄しい姿を学びました。イエスは、贖いの目的を見極めつつ、十字架の苦しみに敢然と立ち向かわれました。

今日は、十字架の終わりにイエスが発しなさった言葉の一つ「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」に目を留めます。
 
A.この言葉の背景
 
1.十字架の七言の第四番目
 
 
十字架の七言ということが良く言われます。それ以外にも言葉を発しなさっただろうと思いますが、福音書に記録されているのは七つです。十字架上のイエスの心を知る窓口のようなものですので、掲げてみます。
 
【十字架に架けられた始めのころ】
T.「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
U.「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
V.「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」「そこに、あなたの母がいます。」

【午後3時ごろ】        
W.「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」
X.「わたしは渇く。」
Y.「完了した。」
Z.「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
 
2.一番苦しいときに
 
 
イエスが十字架に架けられなさったのは、午前9時です。それから6時間の苦闘が続くのですが、肉が裂かれ、傷口が広がっていく耐え難い痛み、体を少しでも動かすときに体中に走る激痛、血を大量に流すことからくる渇き、人々の罵声から来る精神的苦痛が絶頂に達したのが午後3時です。さらに33節を見ますと、12時に全地が暗くなって午後の3時まで続いたとあります。太陽でさえもその顔を隠しました。恰も、神がその御顔を隠してしまわれたように。その3時間の重苦しい沈黙を破ったのが「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」という叫びでした。
 
B.この言葉の意味
 
1.言葉の意味
 
 
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」とは、古代へブル語から派生し、当時のユダヤ人によって使われていたアラム語の文章です。その解説が次の節に記されています。「わが(イ)神(エル)、わが神。どうして(ラマー)わたしを(ニ)お見捨てになった(アーザブから来た完了形)のですか。」聖書のへブル語では、Eli Eli Lamah Azabtaniですが、アラム語的に訛ったものなのでしょう。その発音が余りにも印象的であったのでしょうか、3つの福音書は、アラム語のままを記録しています。
 
2.詩篇22篇の引用
 
 
前回も、イエスに対する辱めに関する表現の多くが詩篇22篇から来ていることをお話しましたが、この言葉も詩篇22篇から、しかもその第1節から来ています。開いてみましょう。
 
1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
 
激しい苦しみと絶望の中から、神に叫び、いや恨みとも思えるような言葉です。この詩の作者であるダビデは、絶望の渕から神に呼ばわります。ただ、この詩篇全体を読みますと、絶望一辺倒ではなく、信頼と希望の響きが絶望と織り成されていることに気づきます。例えば3、4節です。
 
3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
 
6節は再び絶望の繰り返しです。
 
6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。 7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。 8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
 
そう思うと、また、信頼の響きが戻ります。
 
9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
 
最終的には確信と勝利の響きで終わります。24節。
 
24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
 
C.主の思い
 
 
この言葉から、主イエスのみ思いを考えましょう。
 
1.苦しみの深さ
 
 
どんな苦しみに勝って、愛する人から捨てられる以上の苦しみがあるでしょうか。卑近な例かもしれませんが、人間同士の世界でも、失恋によって心臓から血が出るような経験をなさった方は、その感覚がお分かりでしょう。主イエスの場合には、それどころではありません。ヨハネ10:30には、「わたしと父とは一つです。」と宣言されました。父なる神とこれ以上ないほどの親しい交わりを持ち、愛し、愛される関係にあられました。それまで、主イエスは、家族にも誤解をされ、弟子たちに裏切られ、捨てられなさるという悲哀を味わいました。しかし、どんなに人々は見捨てても、父なる神は見捨てなさらない、という一点が主イエスの支えだったのです。

ヨハネ16:32には、「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」こともあろうに、そのみ父が、理由はともあれ、また、一時的にせよ、彼をこの大事なときに捨てなさったのです。
 
2.なぜという苦しみ
 
 
「理由はともあれ」と言いましたが、本当は、理由がありました。私達人類の罪をすべてになったお方として、私達の身代わりに苦しめられ、捨てられなさったのです。主イエスはそれも十分ご承知でありなさった、しかし、それでも「どうして」と問わざるを得なかった、そこに苦しみの深さを見る思いです。

私達も、苦難の理由とか苦難の神学について、頭では分かっていても、なお「どうして」と聞かなければならない、そこに苦しみがあります。信仰が切れてしまうような危険を感じつつ尚、質問してしまう悩みです。ヨブも「なぜ私は母の胎から出たとき死ななかったのか」(3:11)と疑問を投げかけています。エレミヤも、「なぜ私は労苦と苦悩にあうために胎を出たのか」(20:18)と神に問いました。われもまた、「なぜ」という疑問を神に向けたくなるときがあります。」そんな人生の不条理が、全部集まっているのが十字架だったとも言えましょう。
 
3.贖いの苦しみ
 
 
主のみ苦しみは、私達の身代わりの苦しみでした。神の怒りが文字通り彼の上に襲い掛かったのです。イエスは、私達が捨てられる代わりに捨てられ、私達が打たれる代わりに打たれなさいました。イザヤ書53:5には、
 
5 彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 
とあります。また、10節には、「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」とも記されています。文字通り、主は私達のために呪われる者となりました。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)とある通りです。
 
4.信頼の深さ
 
 
このように、神に捨てられなさったのに、主イエスはまだ、「わが神」と呼んでいます。詩篇22篇を読んだときにもお気づきと思いますが、「どうして私をすてなさったのですか」と言いながら、究極的には、神に信頼し、憩っているのです。小さな子供がお母さんに叱られ、罰を受けているのに、「お母さん」といって、そのスカートの中に逃げ込もうとしている姿を思い描いてください。ヨブもそうでした。彼は「神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。」(ヨブ記13:15)と神に向かって行く姿勢を示しています。捨てられても、捨てられても、私が行くところはあなた以外にありません、という信仰者の姿勢を示すものではないでしょうか。

イエスの苦しみは苦しみで終わりませんでした。37節には、「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。」とありますが、その大声は、『完了した』という勝利の叫びだったのです。そのために、人類と神の間を隔てていた神殿の幕が避け、神と人との和解の道が開かれたのです。
 
終わりに
 
1.贖いの恵みを感謝しよう
 
 
愛するお父様に捨てられるまでに、苦しみを受けてくださったイエスに感謝しましょう。彼の打たれた傷によって私達は癒されているのだ、と感謝しましょう。
 
2.主に信頼しよう
 
 
どんなに厳しい状況にあっても、私達が行くところは神ご自身以外ではありません。厳しいから神から逃げてしまう、という逃避的な姿勢や、厳しいお扱いを受けるから神を恨む、という姿勢を取ってはなりません。私達が行くべきところは主なる神だけであります。今週も厳しい人生の旅路を経験するかもしれませんが、主に頼りつつ日ごとの歩みを全うしましょう。
 
お祈りを致します。