礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年4月16日
 
「復活の先駆け」
復活節・召天者記念礼拝
 
竿代 照夫牧師
 
Tコリント15章3-7,17−24節
 
 
[中心聖句]
 
 20  今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
(第一コリント15章20節)

 
はじめに
 
 
今日は、世界的にはキリストの復活を祝うイースターであり、この教会においては召天者を記念する礼拝です。イースターの日は、月の満ち欠けによって年毎に変わりますし、この教会の召天者記念礼拝は4月の第3日曜日と定めてありますので、両者が重なる年は珍しいのですが、それが今年に当たります。

そこで今日は、キリストの復活と、キリスト者たちの復活とを結び付けている第一コリント15章の記事をテキストにして、「復活の先駆け」というテーマでお話します。
 
A.キリストは死を打ち破った
 
1.復活はキリスト教の中心
 
 
3-5節には、キリスト教信仰の骨子が記されています。
 
3-5 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
 
キリストの十字架の死とその後の埋葬は、私達の罪の身代わりとしてのそれであることが示されます。そして、その救いが完成した証拠が、キリストの復活である、と記しています。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」(ローマ4:25)のであります。ですから、「山上の垂訓などキリストの教えは大切だが、キリストの復活などというおとぎ話のような話は止めてくれ」というような考えは、キリスト教を骨抜きにしてしまう考えです。

復活を説かないキリスト教はキリスト教ではありません。丁度天ぷらが一つも入っていない丼を天丼というのと同じ様な矛盾です。それほど、キリストの復活は、キリスト教信仰の中心なのです。序ながら、キリスト教会が日曜日に礼拝を守っているのは、実は復活記念日として祝っているのです。イースターは、その大きな記念日ですが、毎週の日曜日は、いわばミニ記念日なのです。
 
2.復活は事実
 
 
パウロはこの手紙をAD55年頃、つまり十字架の出来事の25年後に書いています。5-7節の中で、
 
5-7 キリストはケパ(ペテロの別名)に現われ、それから十二弟子に現われ、五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
 
と記し、これをおとぎ話というならば、今でも反論できますよ、と自信に満ちて書いています。さらに、キリストの実弟であり、キリストが生きておられるときは信じなかったヤコブに現われたことを付け加えています。

キリストの復活というのは、キリストの精神が復活した言う意味ではありません。まして、死後何年も経ってから、弟子たちがキリストを神格化しようとしてでっち上げたストーリーではありません。かれは文字通り死から甦り、別々なグループの人々に、別々な場所と時間に、数多くご自分を表しなさり、その復活の事実を示されました。もちろん現代の私達に、復活の現象を科学的に説明せよと言われても、私達は出来ません。正直に言って、そのプロセスは分かりません。しかし、これだけは言えます。キリストと同時代の大人たちが、まじめに、文字通りキリストは生き返ったと証言し、彼らはその証言に命を賭けたこと、その証言は(後になって作られたものではなく)同時代的な文書として残っている、ということを。
 
B.キリストの復活は、私達の復活の先駆け
 
1.初穂としての復活
 
 
20節を見てください。
 
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
 
この「初穂」とは、大麦などの初収穫を表しています。イスラエルでは、春の先駆けとして、5月ごろ大麦の刈り入れが行われていましたが、その最初の収穫が「初穂の祝」として祭司によってまず神に捧げられました。それまでは、誰も大麦を味わってはならない、という決まりがあったのです(レビ記23:10-11、14)。ですから、「初穂」というのは、これから多くの収穫が期待できる、それを味わうことが出来る、という期待の象徴でした。

キリストの復活が初穂であるという意味は、それに続く私達の復活の先駆けであり、期待を膨らませるものである、ということだったのです。一回道筋を付けると後の人は楽です。コロンブスがアメリカ大陸を発見したことで、ヨーロッパからアメリカに行く道が開かれました。キリストは本当に甦りました。それは後に続く私達の復活の先駆けであり、期待を膨らませるものでした。
 
2.クリスチャンの復活
 
 
キリストに属している者は、死によって一時眠りますが、いつまでもではありません。キリストが再び世に来られるとき、神のラッパが響きます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている信仰者たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中でキリストと会うのです(23節)。このような希望を持っているのですから、キリスト者は明るい気持ちでいられます。キリスト教の葬式に出ると明るいと言われるのは根拠があります。虚勢をはっているのでは無く、確かな望みに基づいているからなのです。
 
3.その復活とはどの様に起きるのか
 
 
それを示すのが、植物の例え(36-38節)です。死があって生があるのです。
 
36-38 あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
 
種は一度死んで、解体し、新しい命を生みだします。信仰者の死と復活の関係もそのようであって、今私達がそこで生活している肉体とやがての日に持つ復活体には、質的な相違はあっても連続性はあるのです。今の体は一度解体して、新しい命に生まれ変わる。死は次の生への新しい出発なのです。その体というのは、今私達が持っている顔や体の特徴を持ちながらも、質的には異なる、という物で、パウロはこれを縷々と説明していますが、今日は触れません。行ってみれば分かることですから。
 
C.復活の希望をもって現世を生きる
 
1.死の恐れから解放されて
 
 
この復活の希望を持っていますから、信仰者にとって死は恐ろしいものではなくなります。確かに、死の齎す痛みや死を迎えるときの悲しさはありますが、死はその刺は除かれています。死の齎す恐怖、絶望、別離の淋しさ、は除かれているのです。「最後の敵である死も滅ぼされます。」
 
2.先に召天した人々と共生する
 
 
最終的な復活を共に待ち望む、という点では、先に召天した人々と、今生き残っている私達とは同じ命を生きていることになります。同じ望みに生きています。同じ喜びを共有しています。同じように成長していることでしょう。

日野原重明先生が、草分け的なホスピスを神奈川県に作られたころのエピソードを紹介しておられます。そこに、牧師のお嬢さんで、看護婦さんが入院されました。かなり末期の乳がんでした。そこで、残り少ない人生を、ご主人と二人の男の子とそしてご自分のために精一杯生きました。最後の日記の中に、「私が元気で幸せでニコニコしていられるのは、本当に神様のおかげだと思う。信仰などないと思っていたが(彼女は久しく教会生活から遠ざかっていたと反省しながら、こう告白する)信仰がちゃんと心の底辺にあり、しっかり根付いていた。病も恐れない、死も怖くない、すべてのことに感謝することができる。」と書き残しました。

さらに病が進んで死が迫ってきたころ、葬儀のときに読んでほしいというメッセージを残しました。「私がこの短い人生のなかで、神様を忘れて、自分の道をいこうとしているときがありました。でも神様は、いつ、どんなときでも私を見つめ、見守ってくださり、こんな私の罪もすべて赦してくださいました。小さい子供を二人残すことは、やはり悔やまれてなりませんが、私の思いは彼らに届いていると思います。子どもたちは母親がいなくても、神様の守りの中で、強く優しく育つと信じ、心配しておりません。・・・最後に、神様の下に帰ることが出来ることを喜んでいます。だから、どうぞ寂しがらないでください。私はいつまでも家族や皆様とともに生きています。」

この告白は、今日私達が覚えている召天者みなさんの告白でもありましょう。かれらは今も神様と共に生きています。私達が神様と共に生きるとき、彼らと共に生きることになります。
 
終わりに
 
 
私達の初穂となってくださったキリストの故に、大きな希望を抱いて、一人ひとりがその人生の道筋を生き続けたいと思います。
 
お祈りを致します。