礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年4月23日
 
「石が既に転がしてあった」
マルコの福音書連講(86)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書15章40節-16章7節
 
 
[中心聖句]
 
 4  目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
(マルコの福音書16章4節)

 
はじめに
 
 
昨週は、イースター・召天者記念礼拝を意義深く、また、祝福の内に守りました。

マルコ福音書の連講に戻りますが、ちょうどおりよく、復活の章に入ります。喜びを持って読み進んで行きたいと思います。
 
A.イエスに付き従った女性たち(1-2節)
 
 
1-2 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
 
1.どんな人々か?
 
 
イエスの十字架の前後に、目立たないけれども大切な役割を果たしたのは、ガリラヤからイエスに付き従ってきた女性たちです。今まで、この人々に焦点を当ててお話したことがありませんでしたので、改めて、一人ひとりに登場していただきましょう。

1)マグダラのマリヤ:イエスに7つの悪霊を逐い出して貰った、としていつでも形容詞のつく女性です。この人がふしだらな女性であった、ということは推測されますが、確かな記述ではありません。どのような過去であったかは別として、ともかく大変落ちぶれた状態から救っていただいた、と言う点では大きな感謝を持ってイエスに仕えたのでしょう。いろいろな女性の名前が入れ替わり登場する中で、このマリヤだけはいつでも筆頭に名前を連ねています。<「レオナルド・ダビンチのコード」とか称する本の中で、マリヤが女性としてイエスを愛していたという前提でのさまざまなストーリーが紹介されていますが、これはまったくの捏造です。エロスとしての愛しか考えることの出来ない人間が、その次元でストーリーを作るとこうなると言う実例です。>

2)ヤコブの母マリヤ:このヤコブは12弟子の一人ですが、ヨハネの兄ではない、「小(若い)ヤコブ」と呼ばれるヤコブのことです。

3)サロメ:これが、ヨハネとヤコブの母です。十字架の直前に、二人の息子を取り立てて貰いたいとイエスに陳情した「ママゴン」のサロメです。この時は、あのようなエピソードはすっかり忘れて、神妙な面持ちでやってきました。サロメは、ヨハネ19:25の記事からイエスの母マリヤの妹であったという推測がなされていますが、これもありうることでしょう。

4)ヨハンナ:ルカの平行記事を見ると、「この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。」(ルカ24:10)と記されており、ヨハンナという女性が、このグループに入っていたことが分かります。ヨハンナはルカ8:13によりますと「自分の財産をもってかれら(弟子たち)に仕えていたヘロデの執事クーザの妻」であったと記されています。経済的にはゆとりのある女性で、弟子グループのスポンサーの一人であったと思われます。

5)この他、十字架の下にいた女性としては、「イエスの母マリヤ、母の姉妹(つまりサロメ)、クロパの妻マリヤ」(ヨハネ19:25)が記されています。さらに、多くの女弟子たちがガリラヤからイエスに付き従っていたと記されています(41)。さらに、ルカ23:27を見ますと、「おおぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った」と記されています。
 
2.女性たちの役割
 
 
1)共に嘆く:十字架の前までは、ヴィア・ドロロサにおいてイエスと共に嘆くことでした。中にはローマ兵の監視の目をかいくぐって水を差し出すもの、額の汗や血を拭う者もいたことでしょう。男たちがみんな恐れて逃げてしまったことを思うと、勇気のあるもの、その名は女性なり、であります。

2)共に立つ:十字架の最中、つまり、6時間の長きに亘って、女性たちは十字架から一定の距離を置きつつも(15:40)、しっかりと眺めていました。あるものは、十字架の真下にきて、会話を交わしました(母マリヤとイエスとの会話)。十字架の苦しみをしっかりと見届けたもの、それも女性でありました。

3)埋葬の手伝い:イエスが息を引き取られた後で、前回学びましたアリマタヤのヨセフが登場し、死体の引取りと埋葬を行うのですが、ここでも大切な手伝いをしたのが女性たちです。15:47には「納められるところをよく見ていた。」とだけ記されていますが、ただボーっと見ていただけではなく、何くれと手伝いをしたことは容易に推測できます。

4)香料と香油を塗ろうとする:この女性たちは、安息日をきちんと守り、何もせずに休みました。何かはしたいという気持ちをもってはいたのですが、その心を抑えて、休みを取ったのでしょう。その休みが終わった土曜日の夕方、香料を買ったのです(16:1)。ただ、それから香料を塗ることは暗すぎて不可能でしたから、明け方まで待つことにしました。そこで、2節の記事につながります。週の初めの日、つまり、日曜日の朝早く女たちは墓に出かけました。

もしこのような女性たちがいなかったら、という仮定を立ててみましょう。十字架と復活と言うキリスト教にとって最も大切な出来事に関して、それらを間近に見た目撃証人を欠いてしまったことになります。12弟子もいたことはいたのですが、付かず離れずと言った状況でしたから、詳しい証言を彼らから得ることは難しかったことでしょう。教会の業は、何時の時代でも真実な女性たちによって支えられてきたことを(私も男性でありますので、少し悔しいですけれど)正直に認めねばなりません。
 
B.転び去った石(3-5節)
 
 
3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
 
1.彼女たちの心配
 
 
1)石が大きいから:墓には出かけたものの、彼女たちには大きな心配がありました。「だれが、あの入り口の石をころがしてくれるでしょう。」イスラエルの(図面)は、岩の傾斜面の一部を平らにし、そこから横穴を掘ったものであり、その横穴に順次死体を置いて行くというタイプのものでした(図面A)。平らにされた入り口と穴との間には丸い形の石を置き、出入りの度にレールを転がしました。その石は泥棒とか野獣の侵入を防ぐためのものでした。入り口は約一メートル位の高さで、そこを潜り抜けるように入ると、小さな広間があり(図面B)、そこに臨時に死体を置き、処理をして奥の棚(図面C,D)から置いていくという仕組になっていました。「だれが、あの入り口の石をころがしてくれるでしょう。」というのは、物理的困難が第一に意識した発言でした。特に、この石は「非常に大きかった」のです。アリマタヤのヨセフがお金持ちであったから余計なのでしょうが、普通は1メートルから1.5メートルの直径をもった円形の石ですが、特大とすれば、1.8メートルくらいはあったのでしょうか。自分たちの細腕ではとても無理だ、という困難を示していました。

2)石に封印がされていたから:さらに、もっと難しい、法律的な、実際的な困難が待ち構えていました。このヨセフの墓石には、弟子達による死体運搬を防ぐ為に封印まで押されていました。封印と言うのは、蝋を溶かし、やわらかいうちに指輪のようなものを押し付けて、勝手な開封を禁ずるというものでした。その上にピラトから送られた番兵が墓を警護するといったありさまでした。どうやってこの番兵の許可を得て石を動かすことが出来るのでしょうか。こうしたもろもろの困難の象徴が大きな丸い石だったのです。

3)心配は妥当か?:しかし、ここで考えましょう。彼女たちの心配は本当に正当な心配だったことでしょうか。私の答えは否です。彼女たちの心配は、いわば枝葉の心配です。彼女たちは、どうして「三日後には甦る」と繰り返しおっしゃった主イエスの言葉を思い出さなかったのでしょうか。どうやって主イエスは甦りなさるのだろう、その時の姿はどんなであろうと心配しなかったのでしょうか。こんな批評をするのは彼女たちには酷でしょうか。いいえ。私達も同様で、非本質的なことにいかに目を向けて心配してしまうことが多いことを反省させられます。

賢介君という私の幼友達がおりました。ある日、彼が国道で倒れたときに、走ってきたトラックの下に入ってしまったのです。周りの大人は一瞬血の気が引く思いで賢ちゃんを見つめました。走り去ったトラックの後で、賢ちゃんが現れました。賢ちゃんは大泣きに泣いています。きっと大きな怪我をしたんだろうと取り囲んだ大人たちが聞いたのは、「下駄がない!」と叫んでいる泣き声でした。心配すべきは、怪我があったかなかったかです。でも賢介君の心配は失った下駄だったのです。

この女性たちの最大の関心事は、どうやって愛する主イエスのなきがらに香料を塗るか、それも大きなトラブルなしに出来るか、と言うことだったのです。それは主イエスに対する愛と深い献身から来た気持ちであることには間違いありませんが、何かが欠けていました。それは、本当のキリストへの信仰ではありませんでした。生きておられるイエスへの信仰ではなく、過去のイエスの面影を求めていたのです。イエスの思い出に生きようとしていたのです。しかし、神は、この女性たちに、思ってもいなかった喜ばしい知らせを与えました。その第一歩が、転び去った大石です。
 
2.目を上げることがかぎ
 
 
1)問題は解決済みなのに:さて、この女性たちは、石はどうしよう、どうしようと心配で、下を向いてぼそぼそ話しながら墓に向かって歩いていったのです。4節の目を上げて、という表現は、それまで下を向いていた事を表わします。問題は実際には解決されているのに、されていないと思って悩んでいたのです。私達の抱えている問題の多くは、こうなったらどうしよう、という仮定の困難の故の悩みです(実際ではなく)。日本の諺にも案ずるよりも生むは易し、とあります。実際ぶつかってみると粉々に砕けてしまうような問題が、下を向いているために、如何に大きく思えることでしょうか。想像と言うお化けに苦しむ人は多いのです。私達は既に解決済みである問題について悩んでいることはないでしょうか。実際はどうかといいますと、十字架によって「事は終った。」救いは完成したのです。マタイを見ると、石を転がしたのは天使であったと記されています。その結果地震が起きました。悪の力の勝利の象徴である石は見事に転び去りました。主イエスは死の力を破って甦られたのです。神の勝利の方法は、多くの場合逆転的です。柔道の巴投げのように、負けたように見えるが、究極的には勝利するのです。旧約のヨセフの生涯はその典型です。ヨセフはその兄弟達に妬まれ、エジプトに奴隷として売られました。しかしそのことが、ヨセフをエジプトの総理大臣にするきっかけとなったのです。だからヨセフは言いました、「あなたがたは私に悪を計ったが、神はそれを良いことへの計らいとなさった。」と。サタンとその勢力は悪意からイエスを十字架に付けました。しかし神はその十字架を人類の救い道に変えられたのです。

2)目を上げることが大切:話を女性たちに戻します。墓に近づいて、ふっと目を上げると、何と!石はすでに転び去っていたのです。おお、私達はいかにしばしば、転び去った石のことを心配していることでしょう。何が問題なのですか?下を向いていることが問題なのです。目を上げることが、もう問題解決なのです。人生、そう簡単には行かないよ、と仰る方もありそうですね。実際、そう簡単ではありません。でも、下を向いていることが解決につながらないことは確かです。上を向きましょう。アブラハムは目を天に向けたときに、その子孫が空の星のようになるという確信を得ました。イサクを捧げるのをとどめられた後、目を上げたら、子羊を見ました。イザヤは、目を高く天に上げて、誰がこれを創造したかを考えよ、と言いました(イザヤ40:26)。見上げるとは信仰の象徴です。下を見ず、上を見ましょう。上を向いて歩く動物をanthrooposと言います。上を向いて、神の可能性に目を留めましょう。「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:19〜21)というパウロの祈りを私達の祈りとしましょう。
 
C.復活のメッセージ(6-8節)
 
 
6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
7 聖ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 
ここで復活のメッセージを伝えた青年(天使)が登場します。これについては次回詳しく扱いたいと思います。
 
終わりに
 
 復活の主に目を向けよう
 
 
イースターは、神が死の力を打ち破った勝利の記念日です。人生に、死ほど強く、恐ろしいものはありません。これを打ち破られた主が私達と共に居られるならば、どんな課題でも恐れる必要はりません。目を上げて、復活の主を見つめましょう。明るい信仰を持って進みましょう。
 
お祈りを致します。