プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年4月23日

「最高の信仰告白」

竿代 照夫牧師

ヨハネの福音書 20章24-29節

中心聖句

John 20:24-29 

ヨハネ20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。

27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

(ヨハネの福音書 20章24-29節)


A.イエスを愛する弟子

前回のプレイズ・ワーシップでは復活節を祝いました。今回は、その復活一週間後の出来事から、トマスと言う人物の信仰に焦点を当ててお話します。

トマスは、疑い深い人間の代表として有名です。しかし、彼は、ある人々が考えるような、ひねくれた性格を持った人物だったのではありません。この20章に出てくるトマスだけを見ますとまさにそうなのですが、それ以前のトマスの行状を見ると、全然違った側面を見ます。ちょっと変わっていて、面白い質問をイエス様に投げかける存在でした。ヨハネの福音書11章16節を見ますと、

そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

とあります。これは、他の弟子たちもおやっと思う、やや奇抜な発言です。イエスが、「ラザロは死んだ、しかし、彼の眠りを覚ますために彼の家に行く」と発言したことへのトマスの反応です。

トマスは主であるイエスの危険を嗅ぎ取って、主が死になさるのなら、私達も一緒に死のうと、ちょっとオーバーなリアクションをしたわけです。ここに彼の勇気と、主への献身的傾倒を見ます。

B.イエスの話の真剣な聞き手−−−十字架と死によるショック

ヨハネの福音書14章5-6節も同じように、トマスの真剣な性格を示しています。

トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

トマスの真剣な質問がなかったならば、有名な「道、真理、命」というイエスの言葉は生まれなかったことでしょう。学校でもそうですが、先生は食い下がって質問するような生徒が大好きです。

復活の夜、弟子たちがユダヤ人たちの迫害の手を恐れて、一箇所に集まっていたところにトマスは不在でした。

何をしに出かけたのでしょうか。危険を承知で出かけるからには、よほどの事情があったのでしょう。はっきりとは分かりませんが、トマスは、

「何てことだ、愛するイエス様が十字架にかかってしまうなんて」

とショックを受け、その状態が続いていたものと考えられます。

そして、三日目に、女の弟子達が甦ったイエス様にあったという報告を聞きます。トマスは

「だから女は困る、簡単に夢とか幻を信じてしまうんだから」

とますますわからなくなって、友だちから離れてひとり散歩に出かけました。信じたいけれど信じられない、心の中の戦いを感じていました。

C.十弟子達の喜びとトマスの疑い

イースターの夜、イエス様は十人の弟子にご自身を顕しなさいました。ヨハネの福音書20章19-21節をお読みします。

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」

21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」」

散歩から帰ったトマスは、興奮しきった友だちの歓迎を受けます。

「トマス、こんな大事なときにどこへ行ってたんだ?・・・あのね、イエス様があらわれたんだよ!」

半分、ほんとだったらうれしいな、と思いながら、つい反対の言葉が口から出てしまいました。

20:25 ・・・「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」

それを口に出した後で、しまったと思いました。私達も思わず不信仰の言葉を吐いた後で、自分で自分を責めてしまうことがありますね。

愛する主に関して、手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、私の手をその脇に入れなければというのは、いかにも過激です。おぞましいほどの実証主義、それを超えて失礼千万な言い草です。

しかも、決して信じない、と否定的なところに力を入れて言ってしまったトマスは、自分でも言い過ぎたな、と反省したことでしょう。

彼は一週間、自分の言葉に悩み続けたことと思います。他の十人のように単純に信じられたらうれしいな、という気持ち、私は確信を得るまでは疑ってやるぞという頑固な気持ち、それらが交錯して悶々とした日々であったと思われます。

D.主イエスの顕現−−−トマスの献身

ちょうど復活後一週間目、日曜日の夜、主は再び十一弟子に現れなさいました。他の誰でもなく、トマスに向かってこういわれました。

ヨハネ20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

トマスにとって、イエス様を否定し、しかも過激な発言が、実はイエス様に聞かれていたという思いが圧倒的でした。トマスにはこれで十分でした。

では、「触らせていただきます」のようなことばはまったくでず、主の溢れるような愛と恵みに圧倒されて、信仰告白をします。

ヨハネ20:28 トマスは答えてイエスに行った。「私の主。私の神。」

トマスは、主イエスはただの偉い人ではない、神ご自身であるとわかったのです。

ユダヤ人であるトマスが、人である方を神と崇めて礼拝するということは異常です。

このような信仰の高みは、疑いの深みから生まれました。徹底的に反発をし、疑い、迷った末に、他の誰でも到達できなかったような信仰の高みに到達したのです。

この告白は、ヨハネが20章に亘って福音書を書き続けてきた物語のクライマックスであり、この本の著作目的でもありました。

「イエス様、あなたは私の主、私の神です。」

と叫んでその場所で平伏したトマスは、

「そうだ、このお方に一生涯を捧げよう、宣教師になろう」

と決心しました。しかし、ある伝説によりますと、

「どこへでも行きます。ただインドだけは嫌です。」

と言ったそうです。そのトマスは、他の弟子が考えもしなかった長い道のりを超えてインドに行きました。そこでキリストを宣べ伝え、教会を建て、最後は(多分マドラスで)殉教の死を遂げます。しかし、彼の建てた教会は、マートマ教会として、今でもケララ地方に根強く残っています。

E.おわりに

私達にも、大なり小なり、トマス的な性格があります。もちろん、すべての人がトマスのように疑い深く、慎重であるわけではなく、単純に信じることができる人もいます。

どちらにせよ、今回申し上げたいのは、トマスのように、自分の心に正直であることです。わかることはわかる、わからないものはわからない、はっきりと自分を持つこと、そして、その心の姿をイエス様にぶつけることです。

疑問や質問を真摯に、真剣に持ち出し、解決をキリストに求める態度を持つときに、キリストは真正面から受け止めてくださいます。

私達のすべては、イエスを目に見えるお方として経験してはいません。でも、見ないでも信じる、そうすると、甦りのイエス様が、心に宿ってくださるのです。お祈りします。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/April 23,2006