礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年4月30日
 
「ガリラヤで会おう」
マルコの福音書連講(87終講)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書16章1-8節
 
 
[中心聖句]
 
 7  『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』
(マルコの福音書16章7節)

 
はじめに
 
 
昨週は、「転び去った石」が象徴する復活の勝利について学びました。

今日で、87回に亘るマルコ福音書連講を終わります。えっと仰る方もあるでしょう。20節まであるのにどうして?という尤もな疑問です。今日はそこからお話します。
 
A.マルコ福音書の付加部分(9-20節)
 
1.コピーから聖書の原典を回復する
 
 
新改訳聖書第二版の注を見てください。「異本 9-20節を欠くものがある。」と記されていますね。異本というのは、マルコ福音書が最初に書かれた原典に一番近いと思われる写本ではない「異本」という意味です。

ここで、聖書がもともと書かれた原本(原典)とコピーとの関係を簡単に説明します。マルコ福音書が書かれた(多分AD60年頃の)原典は、失われてしまいました。それではどうして私達が原典に近いものを再現できるのでしょうか。それは、原典から筆写したコピー(子供のコピー)、あるいはそのコピー(孫コピー)が沢山存在しているからです。コピーを取る時には細心の注意を払って、間違いの無いように、文章を落としてしまわないように、変な付加をしないようにコピーが作られていきました。それでも人間ですから、間違いは起きます。でも複数のコピーが取られて、その孫・ひ孫のコピーと増えていくときに、それをグループ分けして系統を作り、原典はこうであったに違いない、という推測は可能です。さらに、元のギリシャ語からシリア語とか他の言語に翻訳されたものも残っていますので、その翻訳聖書が「原典はこうであった」という推測をする研究の助けとなります。こういう学びを専門の用語では「本文批評」と言います。
 
2.付加部分は「付加されたもの」
 
 
こうした緻密な学びの結果、マルコ16:9-20は、原典にはなく、後代に付加されたものであるということが、定説となりました。この付加部分で使われている文章の言い回しが、それまでとは際立って異なることからも、付加である可能性が濃厚です。ですから、9-20節の注には「異本 9-20節を欠くものがある。」と書くよりも、「多くの写本は8節で終わっているが、異本には9-20節を含むものがある。」という風に書くべきなのです。
 
3.なぜ付加なのか?
 
 
それでは、この部分はなぜ、誰によって付加されたと考えたらよいのでしょうか。それはあくまで推測の域を出ませんが、16:8が何となく突然終わっていることから、他の福音書との調和を考えた記事を持って終わらせようと考えた写本記者の配慮からと思われます。ですから、この部分はそれぞれ、9-11節がヨハネ20:1-18と、12-14節がルカ24:13-43と、また15-18節がマタイ28:16-20と、さらに19-20節が使徒1:9と平行しています。私達としては、それぞれの福音書を読めば良いと言う事で、今回の連講の対象からは外します。
 
B.天使のメッセージ
 
1.墓に近づいた女性たち(1-4節)
 
 
@マグダラのマリヤ、Aヤコブの母マリヤ、Bサロメの三人がマルコに記されており、ルカはこれに加えてCヨハンナを記していますが、ともかくこれら女性たちが香料を携えてお墓に行った所、入り口の大石が転び去ったのを見て、喜び、驚いたところまでお話しました。今日はその続きです。
 
2.天使(5節)
 
 
5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
 
墓の中に入った女性たちは、そこに「真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっている」のを見ました。マタイはこの青年のことを、「主の使い」と呼んでいます(マタイ28:2)。さらに「その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。」と詳しく描写しています。さらにルカは、「まばゆいばかりの衣を着たふたりの人」(ルカ24:3)と、人数が二人であったことを示唆しています。普通の人間のような形をした、しかし、輝くような顔、輝くような白い衣を着た(実際は)天使、それも二人がいたのでしょう。マルコは、スポークスマンであった一人だけを紹介しています。彼(ら)は墓の入り口の小さな広間(墓の図を参照、そのBと記されたところ)にすわっていました。女性たちが驚いたのは当然です。
 
3.メッセージ(6-7節)
 
 
6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
 
天使のメッセージは次の4つの要点から成り立っています。

1)イエスは甦えられた:彼女たちは、主イエスが繰り返し、死んでから三日目に甦ることを予告しておられたにも拘わらず、それを忘れて、あるいは信じないで、「墓の中のイエス」を捜していました。それは間違いだよ、イエスはご自分が予告されたように、死から甦ったんだ、ということを明確に宣言しました。

2)墓を探すな:天使は、イエスが納められた棚を見せて、納得させました。ヨハネの福音書では、そこにはイエスを包んでいた亜麻布と頭巾がきちんと畳んであったとまで記されています。こんな細かい記事ですが、私は感心させられます。最近は、布団かベッドを出て、そのまま片付けずに飛び出したりする躾のなっていない子供たちが増えていますが、飛ぶ鳥は跡を濁さない人間イエスのありようを教えられます。この墓にはおられない、という天使の言葉には、偉いけれども死んでしまったお方の思い出に生きようとする女性たちに対して、「お墓には何の希望も救いも与えられないよ」というメッセージがこめられているように思います。

3)イエスは先にガリラヤに行かれる:彼女たちが滞在していたエルサレムからガリラヤまでは3日がかりの旅が必要でした。復活の主のお体は、「どこでもドア」のように、いつでもどこでも現れることが可能な、自由なお体(霊的な体)でしたから、てくてく歩く弟子たちよりは、一足先にガリラヤに行って待つことは可能でした。

4)ガリラヤでの再会は信仰の回復のため:なぜガリラヤに固執されたのでしょうか。ガリラヤは、いうまでもなく、イエスの地上生涯でのホーム・グラウンドだったからでした。ガリラヤでの再会は既にご自身が予言されていました。マルコ14:27、28で主イエスは、弟子たちの離散を予告し、その続きとして「甦った後でガリラヤで会おう」と励まされました。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」織田信長が、朝倉義景と戦っているときに浅井長政に襲われ、散り散りに逃げ帰るのですが、拠点である岐阜城に集結して体勢を立て直そうとしたのに例えることができましょう。表面的にはエルサレムで一敗地にまみれる、しかし、ホームグラウンドのガリラヤで体勢を立て直そう、と言うわけです。主が再会の場所として選ばれたのは、権謀術数が渦巻くエルサレム、敵意と嫉妬に満ちていて、イエスを十字架につけたエルサレム、腐敗した形式宗教が支配している澱んだエルサレムではなくて、明るい太陽と緑の山々、鳥が囀り、花が咲き乱れるガリラヤ、主イエスの福音の言葉と力ある恵みの業で満たされていたガリラヤ、純朴な信仰者に満ちているガリラヤ、そこで復活の主と信仰者たちが再会を果たし、新たな信仰運動の進発を語り合おう、というのが、ガリラヤでの再会の目的でした。つまり、ガリラヤとはキリストとの出会いの象徴でありました。そこは弟子たちにとって信仰回復の場所でした。「弟子たちとペテロに告げなさい」という言葉の中に、イエスを裏切ってしまったペテロに対しても、ガリラヤで信仰を回復できるよ、という希望を与えなさいました。ガリラヤは、信仰の回復だけではなく、そこから始まる新しい宗教運動の始まりの場所でした。実際に宣教の大命令が与えられたのはガリラヤで大群衆の中でイエスが現れたときでしたから。
 
C.女性たちの驚きと困惑
 
 
8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 
1.女性たちの恐怖(8節)
 
 
私にはこの節が簡単に理解できません。この天使のメッセージを聞いたら、嬉しくなるはずですが、「そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とありますように、喜びの爆発とはなりませんでした。まだ、復活の事実が信じられなかったからです。福音書記者の正直さは、復活の信じ難さをありのまま表明している点に現れています。そうです。復活とは本当に信じがたい出来事だったのです。復活の出来事に出会った弟子たちが、待ってましたとばかりに主イエスを迎えたのではなく、信じられない、戸惑った、恐れた、と正直に描いている、しかし、最終的には信じるようになったと記している点です。それはガリラヤに行くまで、お預けとなった信仰体験のことでした。
 
2.マルコ福音書の唐突な終わり:先の希望を示唆
 
 
始めに申し上げましたように、マルコは、この女性たちの恐れ戦きをもって、突然その筆を止めました。本としては、とても唐突な終わり方です。でも考えてみると、それがマルコらしい終わり方とも言えます。マルコは一貫して、すばらしいキリストの心と、それに相応しくない弟子たちの姿を対照的に描いています。その角度から見る、復活の出来事に出会ったときでさえも恐れおののいている女性たちの記事で福音書が終わっているのは、それほど奇抜ではありません。

この記事が終わってからの足取りを「付加部分」(付加部分は単に節の数だけを記載)と他の福音書とで辿りながら、連講の終わりにしたいと思います。

1)女たちの証言と(男)弟子たちの不信仰(9-11節)
2)復活の午後と夜、主が弟子たちに現れる(12-14節)
3)一週間後、再びエルサレムで再会される(ヨハネ20:26-31)
4)ガリラヤ湖での再会(ヨハネ21章)
5)500人の弟子とガリラヤで再会、宣教の大命令(15-18節、マタイ28:16-20、第一コリント15:6)
6)復活の40日後、エルサレム郊外で昇天(19-20節、使徒1:3-12)

このリストでもお分かりのように、ガリラヤでの再会が復活の主との出会いのクライマックスでありました。女性たちは男の弟子たちと共にガリラヤに戻り、復活の主と喜びに満ちた再会を果たし、そこから新しい段階の信仰生活に入ります。
 
終わりに
 
 主との出会い(ガリラヤ経験)を経験し、待ち望もう
 
 
私達は、主イエスの再臨と言う、先の希望を持ちながら、日々の信仰生活を歩んでいます。それが私達の出会いの場所「ガリラヤ」です。そのガリラヤを目指して、いろいろな苦痛、恐れ、困惑を乗り越えて進みましょう。さらに、その「ガリラヤ経験」を小さな形で頂いているのが私達の聖日の礼拝です。今日ここでお会いしたキリストと共にこの世の戦いを戦い抜きましょう。その戦いの最中にも、次の聖日の「ガリラヤ経験」を待ち望みつつ進みましょう。
 
お祈りを致します。