礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年5月14日
 
「聖霊による生まれ変わり」
ペンテコステ講壇(1)
 
竿代 照夫牧師
 
ヨハネの福音書3章1-16節
 
 
[中心聖句]
 
 5  「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
(ヨハネの福音書3章5節)

 
はじめに
 
1.聖霊についての学びの必要
 
 
ペンテコステを4週間後に控えています。そこで今年は、ペンテコステまでの4回連続で「聖霊と私」というテーマで、聖霊がどのように信仰者個人に働きなさるかについての聖書の教えを順序だて学びたいと思います。
 
2.今日のテーマ:「聖霊による新生」
 
 
今日は、聖霊の初めのみ業である「新生」、あるいは、生まれ変わり、回心、とも呼ばれる経験について、ヨハネ3章をテキストに学びたいと思います。
 
A.「生まれ変わりなさい」と言われたニコデモ
 
1.やり直しの必要がなさそうなニコデモ
 
 
ここで登場するニコデモという人物は、およそ人生をやり直さねばならない、というメッセージとは無関係に見える人です。その立場や性格を、この記録から拾って見ますと、

1)パリサイ人(1節):厳格に神の律法を守るまじめな人間でした。しかも10節には「イスラエルの教師」と記されていますから、自分がまじめな生活を送るだけではなく、一般民衆のための教師として、律法を教えている人でした。それだけに、尊敬もされていたことでしょう。

2)ユダヤ人の指導者(1節):ユダヤの宗教・政治の最高議会であるサンヒドリン議員70名の一人ですから、大変名誉ある立場の人です。

3)高齢者(4節):「人は、老年になっていて」とありますように、自分自身も齢をとり、まして、お母さんがもう一度子供を生むことなど考えられない状況でした。

4)へりくだった人:2節に記されている彼の言葉「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」は、正に彼が謙遜な人間であったことを物語ります。

これを並べただけでも、ニコデモが人生のやり直しを必要としていないような人間であることが分かります。
 
2.やり直しの必要を迫るキリストの言葉
 
 
1)新生なしには神の国に入れない:驚くことには、このニコデモに向かって、「新しく生まれなさい」、「生まれ変わりなさい」(より正確には「上から(ギリシャ語のアノーセンは多くの場合「上から」と言う意味で使われている)生まれなさい=天的な生まれ方をしなさい」)とキリストは語られました。生まれ変わらなければ、神の国に入れないのだ、とまでその必要を強調されました。

2)神の国とは?:それほど大切な意味を持った「神の国」とは、何でしょうか?聖書が強調している神の国とは、神が抵抗勢力を持たずに支配なさる領域のことです。パウロの言葉によれば、「義と平和と聖霊による喜びの支配する領域」(ローマ14:17)のことです。

3)新生の経験:その神の国に入るためには、生まれつきのままの生き方、考え方の延長ではいけない、「新しく生まれる」、生まれ変わる経験、新しい人間になる、という経験が必要だ、とキリストは語られました。そんな風に人間が180度変わることは可能なのでしょうか、変わってしまって、自分らしさがなくなって淋しくないでしょうか。それはその「生まれ変わり」が何によって特色付けられるかが分かるときに分かります。
 
B.聖霊によって生まれ変わる
 
 
生まれ変わりとは何のことか、どうしてそんなことが起きるのか、同じような疑問をニコデモ自身も持ちました。それに対するキリストのお答えが5〜8節のお言葉です。
 
5-8 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
 
1.水と御霊によって
 
 
5節に水と御霊が並列的に示されています。ウェスレーは水とは、バプテスマに象徴される過去の罪からの赦しときよめ、御霊とは、赦された魂に聖霊によって与えられる新しい性質のことと説明しています。ただ、6,7節には、「御霊によって生まれる」と言う側面のみが述べられていますので、私もそこに焦点を当てて考えます。
 
2.肉によって生まれるのではない
 
 
肉によってとは、人間の生物的な誕生のことです。それは確かにすばらしい、感動的な誕生ではあるが、神の国に入るためには不十分です。生まれつきのままの性質、考え方の延長に神の国は存在しない、それほど、人間本来の性質は罪深く、限界があると言うことを示します。
 
3.御霊は風のように
 
 
御霊によって生まれる、ということは、雲を掴むような不確実な、抽象的な出来事ではなく、風が吹いていることが事実であるように確かなことだと示されます。

1)風は聖霊の象徴:風と霊との共通性は、へブル語が同じであることから来ています。双方ともへブル語では「ルアハ」です。キリストがここで、聖霊を風にたとえなさったのには理由があります。聖霊は自由自在に働きなさいます。その場所も、時も、対象も、その形態も・・・。私達はその詳細を知ることができませんが、その事実は感じられるというのです。

2)人間創造における霊の注入:そもそも、人間の創造において、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)人間を人間たらしめるもの、それは神の霊の注入です。聖霊が注がれることによって、神と共通の性質を持ち、それによって、神と交わり、神を喜ぶことが出来るのです。例えて言いますと、神が私達に与えてくださった携帯電話のようなもので、それによって、目には見えなくても、神とお話が出来るようになります。

3)罪の故に聖霊が退去される:エペソ2:1には、「あなた方は罪と咎によって死んだものであり」と記されています。人間の罪が、いわば絶縁体となって神との交流を妨げてしまったのです。これは人間にとって致命的な打撃です。フィラメントの切れた電球のようなものです。形は電球ですが、光がありません。人間の形を維持していますが、神の力と恵を欠いてしまいました。清さが失われ、愛が自己中心に置き換えられてしまいました。

4)聖霊が与えられることが回復の一歩:霊によって生まれる、という表現を言い換えると、「聖霊が与えられること」です。生まれつき持っていなかった、神への愛、神への畏れ、神への信頼の心が注がれることです。この経験がありませんと、たとえ洗礼を受けていても、教会生活が長くても、通じ合うことが出来ません。逆に、この経験が確かですと、意見の相違はあっても、通じ合うことが出来ます。
 
C.聖霊のお働きへの協力
 
1.感じる鋭敏さを持つこと
 
 
聖霊は、私達の心に働いていてくださいます。ちょうど、風がいつでも吹いているようにです。強い時もあり、弱いときもあり、南から吹くときもあり、北から吹くときもあります。でも吹いていることは確かで、それを感じることは出来ます。ジョン・ウェスレーは、未信者の中にも働いている聖霊の働きを「先行的恵み」と名づけました。大自然の中に抱かれて、ああ神様っていらっしゃるんだなと感じるときとか、大きな危険から守られて、神様が守っていてくださるんだなと感じるときとか、身内の方が亡くなって、永遠のことを思い巡らすときとか、それらは、みな聖霊の働きです。そうした感覚を、ひと時のものと片付けないで、大切に考え、私への神の語り掛けと感じる心の柔らかさ、鋭敏さを持つ必要があります。
 
2.信じること
 
 
さらに進んで、キリストの福音がはっきりと示されたとき、そうだ、キリストの十字架は私のためだった、この方を救い主として信じようと単純率直に信じ、告白することが、聖霊を頂く一番大切なステップです。聖霊による生まれ変わりなんて、どうして起こりうるか、というニコデモの質問に答えて、キリストは「自分はすべての人間の罪の呪いを一身に背負って十字架にかかる。その十字架にかかったキリストを救い主として信じたものは、神の命と人間の命を結ぶ妨げとなっている罪を赦されて、聖霊を与えられ、永遠の命を持つようになる。」(14‐15節の意訳)と語られました。パウロもまた、ガラテヤのクリスチャンに対して、「あなたがたが御霊を受けたのは、・・・信仰をもって聞いたから」(ガラテヤ3:2)と語っています。
 
3.ニコデモは信じたか?
 
 
この物語は、結論を出さずに終わっています。しかし、ヨハネ7:50,51を見ますと、ニコデモが、他の国会議員がよく確かめもせずにイエスを悪人と決め付けることに抗議しているところから、既に信者になっている姿を見ます。さらに、同19:39には、アリマタヤのヨセフと共に、勇気を出して、イエスの葬りを申し出ている姿を見ます。ニコデモは、社会的なプレッシャーを強く感じながらも、イエスへの信仰をしっかりと告白し、イエスに従う道を全うしたのです。
 
終わりに
 
 御霊の言える如くせよ
 
 
今日は「御霊の言える如くせよ」という賛美をもって礼拝を閉じたいと思います。心を静かにして、今日、この朝、聖霊があなたにささやいておられる声に耳を傾けましょう。それがどんなに小さなことでも大きなことでも、捨てなければならない罪に対する対処であっても、和解しなければならない友との和解であっても、そして一番大切な主キリストへの信仰の告白であったとしても、主はあなたにそれをすべく囁いておられませんか。それは聖霊が風のようにあなたの心に吹いている働きかけなのです。それに従順に従い、それに対して信仰の祈りをもって応答しましょう。
 
お祈りを致します。