礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年5月21日
 
「聖霊による潔め」
ペンテコステ講壇(2)
 
竿代 照夫牧師
 
使徒の働き15章7-11節
第一コリント6章18-20節
 
 
[中心聖句]
 
 8,9  「人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように・・・彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」
 19  「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮」
(使徒15:8,9、第一コリント6:19)

 
はじめに
 
ペンテコステに向けての講壇が続いています。前回は、聖霊による生まれ変わりというテーマでニコデモへの主の語りかけを中心に学びました。

今日はもう一歩進んで、聖霊によるきよめについて二つの聖書の場所から二つの真理を学びます。
 
A.聖霊は聖なる霊である(第一コリント6章から)
 
1.聖霊は聖なる霊
 
 
聖霊は、そのお名前の通り、聖なる御性質を持っておられます。それが御霊の御性質の中心です。御霊を表現する色々な形容詞があります。たとえば、「いつくしみ深い霊」(詩篇143:10)、「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊」(イザヤ11:2)、「真理の御霊」(ヨハネ14:17)などです。しかし一番多い、そして一番このお方に相応しい形容詞はHolyです。旧約聖書では3回だけですが、新約聖書では実に93回も聖い霊=聖霊という表現が使われています。少しの汚れを好まない、聖いお方です。
 
2.私達の体は聖霊を宿す神殿
 
 
第一コリント6:19には「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり・・・」と記されています。私の体が神殿!?何というすばらしい、しかし、恐れ多いアイデアでしょうか。これは、「ものの考え方」というような次元の話ではなくて、事実なのです。私達がキリストを主と信じ、告白すると、聖霊は、「それではお邪魔しますよ。」と心に宿り始めなさいます(ガラテヤ3:2)。たとえて言えば、私達のような庶民的な家に、生まれも育ちも高貴な方がお客さんとしておいでくださったようなものです。大変光栄であり、しかし、場合によっては(こういっては失礼かもしれませんが)やや煙ったい存在かもしれません。
 
3.体を聖く保たないことは重大な罪
 
 
コリント6章全体は、不品行(結婚外の性的な関係)への警戒です。1節を見ますと、教会の中にも父の妻を自分の愛人にしている人がいる、という状況が厳しく叱責されています。今日の道徳的観念は、この状況よりももっと悪い、と言わなければなりませんが、2千年前のギリシャ・ローマの世界も大変腐敗していたと見えます。パウロは、不道徳なものが神の国を嗣ぐことは出来ないと二度も繰り返さしていますが、今日でも、この教えが強調されねばなりません。パウロは、この教えを強調するときに、単なる律法的な道徳観からしているのではなく、私達の体が聖い御霊の住み給う聖い宮なのだ、という根本的な理解から行っています。私達は、しみなく傷のない尊い子羊の血によって買い取られたものです(第一ペテロ1:19)。自分の物のようでありながら、自分の物ではない、いわば借り物なのです。借り物ならば、丁寧に扱うのが当然ですね。この事実を忘れるか、あまり大事に考えないことから不品行や不道徳が始まります。なぜクリスチャンは不品行を避けるのでしょうか。まじめに生きたいからですか。家庭の不和を起こしたくないからですか?クリスチャンとしての評判が損なわれないようにするためですか?これらは十分な動機付けではありません。内に住んでおられる聖い御霊に顔を顰めていただかないため、ということなのです。もっといえば、遊び女と寝ることは、彼女と一体となる、つまり、その聖なる宮を、娼婦の館に取り替えてしまう、それは大変申し訳ないことだ、という気持ちからです(15節)。
 
4.「自浄能力」の限界
 
 
さて問題は、私達がどんなに釈迦力になって大掃除をしようにも、私達の力で掃除は及ばないという点にあります。昨週、3、40名の方々がご奉仕下さって、教会内外がとてもきれいになりました。本当に感謝なことです。でも、どうしても、カーペットの特殊なしみとか、壁の汚れとかは専門家に頼まないとできない、という分野があります。私達の心も同じです。自浄能力できれいになる部分と、どうしても出来ない分野とがあります。むしろ出来ない部分の方が大きいというべきでしょう。しかし、感謝すべきことに、聖霊は、ご自身が聖いお方であるだけではなく、聖める力をもち、その業をなし給うお方です。
 
B.聖霊はきよめる霊である(使徒15章)
 
 
8 人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
 
これは、ペテロが紀元48年のエルサレム教会会議で報告しているところです。ペテロは、35年頃、コルネリオというローマの軍人を主に導きました。これは第二のペンテコステとも呼ばれる画期的な出来事でした。ペテロは、コルネリオの出来事(第二のペンテコステ)と、紀元30年のペンテコステの出来事とを比べて、その共通した要素は、聖霊が心を聖めてくださったことだと述べています(下記「ペテロ発言の背景」参照)。
 
【ペテロ発言の背景】
[1]ペンテコステ(紀元30年=キリスト復活から50日目、祈り待ち望む弟子たちに聖霊が注がれた)
[2]コルネリオの回心(紀元35年頃、真実に神を畏れ、祈っていた異邦人にペテロが聖言を語っていた時に聖霊が降った=第二のペンテコステとも呼ばれる(11:15-16))
[3]エルサレム会議(紀元48年、パウロの第一次伝道旅行の後、異邦人が割礼を受けるべきか否かについての意見の相違を解決するための会議)
 
この二つの出来事はそれぞれ特徴のあるものであり、不思議な現象が伴ったわけですが、ペテロはそれらの現象には敢えて触れないで、その核心的な要素は、心の聖めであると見抜きました。

8節の声明の中で、大切な要素が3つありますので、それに目を留めたいと思います。
 
1.心を知り給う神
 
 
これはカルディオグノースセース(心知るもの)という一語です。心を知ることを専門になさる神という意味です。特にここでは、コルネリオとその仲間達のことについて言われていますが、彼らの心のなかにあった真実な求めや叫びを知っていてくださる、という意味で語られています。同時に、私達の弱さ、罪の性質とその問題性をすべて知り給う神です。私達が自覚しない潜在意識の奥深く迄知っておられます。どんな時にどんな反応をする人間か、何をしたがり、何を避けたがる人間か、問題を完全に知っておられます。自分で自分をどうすることもできない、それを何とか解決していただきたいという心の叫びをも知っておられる神です。ペテロは、ペンテコステ前の自分たちの心の姿をも重ね合わせて「心知り給う神」といっているのではないかと思います。その時の弟子たちは、臆病であり、競争心に満ち、野心に満ち、互いに反目していました。その様な心をもっては、キリストの世界宣教の務めを果たすことが出来ないということをいやというほど自覚していました。ですからこそ、ペンテコステの前の10日間、心を合わせて、何とか自分たちの心を作り変えてくださいと必死に祈ったのです。今でも、主は私達の心の奥底にある叫び、必要、そしてそれに対して、何とかしてください、という切なる叫びを知っておられるお方です。
 
2.聖霊は、心を聖めなさる
 
 
1)火のように徹底的に:主イエスが水のバプテスマに勝るバプテスマを与える、とヨハネが予言したとき、「聖霊と火によるバプテスマ」という表現を使いました。火は、汚れれを徹底的に聖めるシンボルです。私はケニアでしばしば山火事を見ました。乾期の真っ最中に、何かに弾みで火がつくと、山全体を包んで燃してしまいます。そこにある枯れ木も、生木も、病害虫も、ごみも、何もかも焼き尽くす火というものは本当に恐ろしいものです。聖霊は火として心に臨み、私達の内なる汚れを取り除きなさいます。ここでの「きよめる」という言葉(カサリゾー)は、汚れを除く、との意味であり、この場合は道徳的なきよめを意味しています。私達の中にある、神の愛ときよきにふさわしくない性質、思い、癖、習慣、それを焼き尽くす行為です。マラキ書3:2、3に「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。」と記されています。

2)さらに、これは瞬時的経験として与えられます。聖めるという動詞がアオリスト時制(一回で完成する行為を表す時制)であることに注目して下さい。ある条件が満ちると化学反応が起きるように、私達の悔い改め、切なる求め、明け渡し、信仰という条件が果たされると、聖霊は臨んで下さるのです。勿論、一度満たされればそれでよいというのではなく、その条件を果たしつつ、しかし漸進的な聖化が内になされなければなりません。ペテロは振り返ってこの経験を過去のものとして感謝し、現在のものとして感謝しています。
 
3.信仰によってきよめられる
 
 
ペテロは「信仰によって彼らの心をきよめ・・・」と語りました。他の何の条件も語っていません。単純な明け渡しと信仰によります。それ以外の手段は不必要、無効なのです。割礼に象徴される律法の遵守によって人間はきよめられません。聖められて律法を守るようにはなるけれども。信仰のみが有効なのです。何故なら、キリストが贖いを成し遂げ、聖霊がそれを執行しておられるからです。私達の側では信じて感謝して受け取る以外に何も出来ません。信仰によって神がなしたまうものであれば、それはいつでも可能です。ある程度成長してから、ある程度修養してから、というのでしたら、時間はかかります。でも信仰だけによるのでしたら現在的です。救いを頂くときの信仰は、キリストを救い主と信じ、より頼む信仰でした。それは悔い改めの心の発露としての信仰でした。きよめていただくときの信仰は、キリストが成し遂げてくださった贖いの業が、私の現在的な罪の性質と傾向をきよめるという、徹底的な贖いへの信仰です。罪の本質である自己中心を明け渡す献身を伴った信仰です。でも難しいものではありません。このステップをきちんと踏んだ人、そうでない人とには、クリスチャンと呼ばれる人でも、大いに差があります。きょう皆さんは、そのルビコンを渡った方々ばかりでしょうか。
 
4.この恵みはすべての人に
 
 
この恵がペテロだけでなく、コルネリオだけでもなく、異邦人であるか、ユダヤ人であるかに関係なく、昔も今も、男も女も、すべての人に分け隔てなく与えられていることを感謝したいと思います。
 
終わりに
 
1.心を探っていただこう
 
 
心を知り給う神に、心の隅々までも探っていただきましょう。このために、一人になって静まる営みが必要でしょう。デニス・キンロー師の「キリストの心」の中で、暗闇の中で一人神の前に静まり、自分の心をカバンにたとえて、それをひっくり返して揺さぶって、心の中にあるものを全部曝け出してしまった人の証が出ていました。私達は余りにも忙しく、余りにも自信過剰で、余りにも浅薄に自らを省みる時間なしに生活していないでしょうか。心を知り給う神の前で静まるときを持ちましょう。
 
2.単純なきよめの信仰に立とう
 
 
心を探っていただく営みを何時までも続けますと落ち込みます。しっかりと心を探っていただいたら、キリストの十字架を見上げましょう。キリストの内に、私達の罪の完全な贖いが成就した事実を認めましょう。このキリストに私達のすべての癒し、きよめ、赦し、平和のすべてが宿っている事実を認めましょう。そして、イエス様、あなたの中に私達のすべての知恵と義と赦しときよめが宿っています、と告白しましょう。そしてその信仰のポジションをことあるごとに繰り返し、私達の確信となるまで繰り返しましょう。
 
お祈りを致します。