プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年5月21日

「地域で輝く」

竿代 皓子牧師

マタイの福音書 5章13-16節

中心聖句

Matthew 5:13-16 

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。

また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

(マタイの福音書 5章13-16節)


A.はじめに

今日は「地域に輝く」(クリスチャンと地域社会)という題が与えられております。地域社会とは、改めて辞書によると「一定の地域の中で成り立っている生活共同体」とありました。私たちが住まいとしている場所が地域であり、そこで生活をしている人々の関わりあいが見えてきます。

ご近所付き合いからいつも行きつけの八百屋さん、手紙を届けてくれる郵便屋さん、宅配の方、かかりつけのお医者さん達、広がると区役所や図書館、果ては新聞と共に配達される広報で知らせてくれる都庁や警察署、などでしょうか。もっと広げれば日本国とまで行きますが、やはり身近な共同体と考えたらよいのでしょう。

一市民として当然の義務を果たすことは、平和で静かな生活の前提となることですが、なかなか難しいことも多いようです。たとえば、ご近所でごみを出すマナーの悪い人が一人でもいますと困ります。また、これから咲こうとする薔薇の蕾を切りとっていく人がいて情けないですね。

さて、前置きはこれまでとして、クリスチャンは地域社会とどのように関わって行ったら良いかを考えていきます。そのために、まずクリスチャンと社会の関係を見てみます。

B.クリスチャンと社会との関係

1) クリスチャンはこの地域共同体の中に生きていますが、同時に神を信じることによって神の支配する領域(神の国)に属し、その原則に従って生きてもいます。キリストは

ヨハネ15:19 もしあなた方がこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。

と言っておられます。クリスチャンは社会の規律を守って生活しますが、この世の生き方ではなく、キリストの教えに従った生き方を優先します。ローマ人への手紙1章6節にも

あなた方も、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。

とも表現されています。この世にあって「神の国」を実現し、拡大しようとしているのがクリスチャンです。

2)聖書はクリスチャンの信仰前の実情を、エペソ人への手紙1、2章でこう書いています。

2:1 あなたがたは自分の罪過と罪とのなかに死んでいたものであって、・・・

2:2 ・・・それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

2:3 ・・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い・・・

と言っています。この様な実情を持った人々が、キリストを信じ受け入れることによって変えられ、

エペソ1:11 この方(キリスト)にあって御国(神の国)を受け継ぐ者ともなりました。

C.クリスチャンが社会との関わりで期待されていること

1)まず「地の塩」であるようにとのキリストのご命令です。

前掲のみ言葉はキリストによって語られた有名な山上の垂訓の一部です。キリストの時代の塩は岩塩で、水に漬かって塩分が抜けてしまったものは、使い物にならなくなり、道に捨てられ、舗装のために使われ、ただただ人々に踏みつけられるだけになってしまうのです。

これは「クリスチャンといっても何の役に立たない、神を信じていることの証しが立っていない」ことを意味しているようです。

「塩味の利いている」とは、人びとを心地よく慰めに導くものでありましょう。クリスチャンの持つ倫理観や品性を言っているように思います。真実で、嘘をつかず、意地悪をされても、怒らないで、赦し、忍耐強く、柔和な態度を取れるような人です。心広く、明るく希望にみちている人が近くにいると、何と大きな慰めでしょうか。

また、聖書の示す倫理観を生きることによって、社会の不正を正すことになりましょう。

2)次に、「世界の光」であるようにとのご命令です。

光は暗いところで力を発揮します。暗さとは何でしょうか。社会の闇、心の闇、暗黒世界、などなど色々の闇が考えられます。今の時代の闇の深さはだれでもが感じています。この闇を照らすことが出来るのが、クリスチャンであるとキリストは言っています。

光は何であるかを知っているクリスチャンは、光を高く掲げる責任があるのです。山の上の町は隠れることは出来ません。ランプやろうそくは決して低いところには置かないものです。

光を隠すクリスチャンは矛盾しています。口で「私はキリストを信じています。」と言わなくても、自然と人々は分かってくるものです。クリスチャンの心の輝きです。それに伴ったやさしい行為や、親切な言葉、愛のこもった眼差し、悲しみのときの力強い励ましなどなどです。

「あの人の持っている『平安』を私もほしい」と言って教会に導かれた人もありました。もっと大きく広い社会におけるボランティア奉仕などにも尽力しているクリスチャンも多いことでしょう。現代の奇跡とも考えられるカルカッタのマザー・テレサの良い行いなど、その典型でしょう。何と大きな光だったことでしょう。

D.クリスチャンの品性、よい行いの秘訣

1)クリスチャンとは、自分の中には善を行う力のないことを自覚している人々です。

ローマ7:18 私は、私のうち、すなわち、わたしの肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

との使途パウロの告白を、私たちも実感しています。

2)しかし、その弱さをそっくりそのままキリストの前に告白する時に、キリストの霊が私たちを覆い、心の王座に君臨されるのです。

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

とあります。

私ではなく、私の内にいらっしゃるキリストが力の源となって、キリストの品性、キリストの思いを、よい行いを実行させてくださるのです。

ガラテヤ2:20 キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、・・・神の御子を信じる信仰によっているのです。

とある通りです。

D.おわりに

「地の塩」、「世界の光」は私のうちに生きていてくださるキリスト御自身のことです。

私たちは心のうちに御臨在下さるキリストを妨げないで、社会の人々に私たちを通して表していくことが求められているのです。それによって私たちを取り囲む地域社会の人々が天の父なる神様を崇めるようになるのです。


Message by Hiroko Saoshiro,pastor of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/May 21,2006