礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年5月28日
 
「聖霊に満たされる」
ペンテコステ講壇(3)
 
竿代 照夫牧師
 
エペソ5章15-21節
 
 
[中心聖句]
 
 18,19  「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
(エペソ5:18-19)

 
はじめに
 
聖霊と私というシリーズで、ペンテコステに備えています。一昨週は「聖霊による生まれ変わり」、昨週は「聖霊によるきよめ」、そして今日は、「聖霊に満たされる」ということをエペソ5:18を中心に学びます。
 
A.聖霊の満たしの勧告
 
 
18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
 
1.この勧告の文脈
 
 
聖書の一句の中にいきなり埋没しますと、木を見て森を見ない過ちに陥る可能性がありますので、全体の流れから5:18を捉えたいと思います。

エペソ書は6章からなる手紙で、「キリストの体である教会」を主題としています。前半1〜3章までが教理的部分、後半4〜6章が実践的部分です。特に4〜5章前半は(異教社会から回心して間もない)エペソ教会信者に対して、今までの罪に満ちた生活から足を洗って、清い生活を送りなさいと勧めています。5章後半からは、それが家族関係にと進むのですが、18節はクリスチャンとしての清い歩みへの勧告のいわば締めくくりです。
 
2.「聖霊に満たされる」という表現
 
 
聖霊に満たされる、という言い方は、聖書にしばしば記されています。特にルカの文書(ルカの福音書と使徒の働き)にこの表現は多くみられます。また、旧約聖書にも折々に見られます。それらのすべてを表にしたいところですがかないませんので、代表的なものを取り上げ、その強調点から以下の三つに分類したいと思います。

1)状態としての満たし:バルナバ(使徒11:24「彼(バルナバ)はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。」)こうした表現は、ある人々の性質的なものとして使われています。他には、使徒6:3「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。」とか、同6:5「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ・・・」という使い方です。

2)転機的な満たし:ペンテコステの弟子達(使徒2:4「すると、みなが聖霊に満たされ・・・」)この表現は、画然とした満たしの経験を物語っています。満たされた状態の始まりとでも言えましょうか。他に、サウロが回心経験の直後、アナニヤの按手を受けて聖霊に満たされたこと(使徒9:17)が記録されています。

3)働きのための満たし:ザカリヤ(ルカ1:67「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。」)こうした表現は、ある特別な働きのために聖霊の強力なお助けを頂いてそれを実行する、というものです。他にもペテロがイスラエルの指導者たちの前に立たされたとき「聖霊に満たされて・・・言った」(使徒4:8)という風に記録されています。この言い方は旧約聖書に多く見られます。
上のリストから言いますと、このエペソ5:18は1)に当てはまります。「満たされなさい」というのは現在進行的な意味(=「満たされ続けなさい」)を持っているからです。また、その前の命令が、クリスチャン生活の清き状態を勧めていることからも、この命令が状態的なものであることが分かります。

 
B.聖霊の満たしの内容
 
 
エペソ5:18の語ろうとしていること
 
1.本当の喜びの道vsアルコールに勝る
 
 
酒に酔ってはいけません、という警告に続いて、それと裏返しに聖霊に満たされなさい、という勧めが続いている点を注目しましょう。酒に酔うなという警告は、いわゆる律法主義的な意味でクリスチャンに縛りをかけるために発せられた訳ではありません。むしろ、という言葉は、酒によって満たそうとしている以上の大きな喜びを聖霊は与えてくださる、というところに力点があるのです。どうしてそれが言えるかといいますと、次に続く詩と賛美歌と霊の歌をもって互いに賛美し、互いに励まそうという句が続いているからです。これらは、直接的な命令ではなく、御霊に満たされると、自然な形で賛美が生まれてくるという関係で述べられているのです。文法的な話になりますが、命令形は「満たされなさい」だけで、後は分詞なのです。酒が入らないと歌が歌えない、という人々がいます。ですから、そういう人が教会に来ると驚くのです。なんでこの人々はしらふで歌が歌えるのだろうか、という具合です。そうです。聖霊の満たしは、私達の心に賛美を生み出します。キリスト教は、あれはダメこれもダメという律法で縛られる陰鬱な宗教ではありません。内なる喜びと楽しみ、それは自然に賛美となって現れる、そうした、喜びの宗教です。逆に言えば、聖霊に満たされていないと、肉の欲望が心を満たしてしまいます。しかし、御霊に満たされていますと「決して肉の欲望を満足させる事はない」(ガラテヤ5:16)のです。
 
2.日常的な姿(満たされ続ける)
 
 
先ほども申し上げましたように、「聖霊に満たされ続けなさい」というのが、この命令の趣旨であります。聖霊はガソリンではありません。ある時に満タンにして、暫く走るとガス欠になる。だからガソリンスタンドに寄らなければならない、というイメージでこの聖句を考えてはなりません。私達の教会生活に当てはめますと、何か大きな聖会とか集会で大いに恵まれ、満たされたような気分になって生活を始める、しかし、一ヶ月二ヶ月と経ってイライラが起きたり、落ち込んでみたりして、どうも霊的状態がさえない、そこでどこかの聖会とか大会のようなところで満たしていただこう、こういうサイクルを繰り返していることが教会生活だ、と思っている方はありませんか。かくいう私がそういうタイプのクリスチャンでしたから、その気持ちは良く分かります。しかし、聖霊に満たされ続けるとは、そのような「霊的な高揚」という心の状態を続けるという意味ではありません。聖霊は人格です。満たされるとは、その影響と感化をフルに受けられる状態に自らを置いて、彼を友としていと近くにおいて交わり、また、主として崇めより頼みつつ歩むことです。
 
3.受身として(しかし、条件はある)
 
 
この命令は受身形です。Be filled with the Spirit.という意味です。自分で努力して満ちさせなさい、という命令ではありません。自分で満たすというのは、先ほどのガソリンの例を使いますと、ポンプを押しながらガソリンを入れるガソリンスタンドのようなものです。ケニアでは、電気が通っていない辺鄙な場所で手押しポンプが活躍しているところがありまして、この例は実際の体験に基づいた話です。聖霊の満たしについてだけではなく、生まれ変わりについても、きよめについても、これは全く神の業であります。自分で満たすわけではありません。

それでは人間の側で全くなすべきことはないのでしょうか。私達の側の態度いかんに拘わらず、自然に神が私達の心を満たしなさるのでしょうか。そうではありません。満たすのは神ご自身ですが、それを頂く私達の準備なり、態度はあります。端的に言えば、それは明け渡しです。聖霊は人格的存在であります。私達がキリストを主と受け入れるとき、私達の心に入り、住み給います。私達の心をイエスに例えますならば、お客さんとして客間に入って頂く事です。確かにお客さんとしてでも入っていただくことは嬉しいことです。私達のあり方をすっかり変えるほどの活力と喜びを与えてくださいます。しかし、私達が大事な部分について、ここは自分が支配する、自分が決定する、誰にも譲らない、という部分を持っている限り、お客さんはそこには入れません。聖霊はジェントルなお方です。私達の自由意志を曲げてまで心を占領なさるお方ではありません。私達が「どうぞ」というまで、じっとお待ちの方です。ですからこそ、私達の側で、「聖霊なる神よ、どうぞ私の心を治めてください。あなたが命令することは喜んで何でも従います。あなたが行けと仰るところには、喜んで行きます。あなたが止めなさいということは、私の主義に合わなくても止めます。」という白紙委任をすることが大切です。
アボット博士の定義によれば、聖霊のみたしとは「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給うこと」です。別の言い方をすれば、一個の人格が他のお方の人格に道を譲るという経験であり、人間の人格性が神の人格性に浸透される経験、もはや自分ではなくキリストが生きると言う経験なのです。これをするためには、私達が神を全く信頼しなければなりません。白紙委任したが最後、身ぐるみ剥いで取られてしまうかも知れない、という危惧を持ったならば、怖くてこんなことは出来ません。でも、私が人生をコントロールするよりも遥かに安全で、遥かに善に満ちたまうお方が神様だという信頼感がありますと、これが出来ます。もっというと、聖霊は私達の自由意志を曲げて、ぐいぐいとご自分の道を押し付けるお方ではなく、私達の個性、願い、楽しみを十分尊重なさるお方です。でも、きわどい所でノーと仰ることもあります。その時は、自分の個性、願い、楽しみを主張しないで、淡々と従えば良いのです。お分かりでしょうか。私達はこのような意味での明け渡しをしましたか。それを続けていますか。
 
4.すべてのクリスチャンの特権
 
 
特権とは言いましたが、この5:18は命令です。クリスチャンが本当にクリスチャンらしく生きるための、言わば当然の水準です。聖霊の満たしは、特殊な人々の特殊な状況での満たしではありません。すべてのクリスチャンのための、当たり前の水準です。これは全てのクリスチャンへの命令です。エペソ書はエペソにいたクリスチャンだけではなく、全てのクリスチャンに当てて書かれた手紙です。しかも、特別な人々ではなく、普通のクリスチャンに当てられたものです。「かれらはみな、聖霊にみたされた。」と記されているように、初代教会は皆聖霊に満たされていたのです。ウェスレーは、これこそが教会の当たり前の姿だと説教しています。使徒6章を見ても、御霊と知恵とに満ちた人々を選べ、との要請に対して、苦もなく7人が選ばれました。この水準は現代教会のものでなければなりません。聖霊に満たされた学校教師、警察官、ビジネスマン、サラリーマン・ウーマン、学生、主婦、高校生、中学生が、今ほど求められている時代は他にないのではないでしょうか。
 
C.聖霊の満たしの結果
 
1.聖霊による歩み
 
 
ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるような「ことはありません。
 
聖霊の満たしを頂きつつ歩むことを、ガラテヤ5:16では御霊によって歩む、という表現で表しています。日常生活の隅々に至るまで、聖霊の導きと教えに従って歩むのです。私達の行動の小さな選択において、「今これをやらなければならない」と示されていながら、「後で」と後回しにしてしまうことはありませんか。この習慣は止めなければと示されながら、「これくらいは」と押し通してしまうことはありませんか。こういうしぐさは、御霊を憂えさせる、とか御霊を消す、ということなのです。どうか、御霊の小さな声に敏感であってください。あの時に放ったあの言葉は人を傷つけてしまった、謝らなければと感じたら、柔らかい心で謝りましょう。
 
2.聖霊の実を結ぶ
 
 
ガラテヤ5:22-23 しかし御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和,自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
 
私達がこの柔らかい服従の心をもって歩み続けるとき、ガラテヤ5:22,23にあるすばらしい品性の実を結ぶことが出来ます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和,自制」、これこそクリスチャン生活の最も崇高なゴールではないでしょうか。
 
終わりに
 
 
「満たされ続ける」為には、「満たされる」はじめ(スタートライン)があります。その始めを経験されましたか。難しいことではありません。全く自分を明け渡して、どんな興奮があってもなくても、満たしを信じて歩み始めましょう。
 
お祈りを致します。