礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年6月4日
 
「聖霊による宣教」
ペンテコステ礼拝
 
竿代 照夫牧師
 
使徒の働き1章3-8節、2章1-4節
 
 
[中心聖句]
 
 8  「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
(使徒1:8)

 
はじめに
 
1.ペンテコステの意義
 
 
ペンテコステとはギリシャ語で50番目ということです。イースターから数えて50日目、その朝に、祈り待ち望む弟子たちの上に聖霊が注がれ、弟子達は力ある説教者となり、その説教によって多くの人々が救われて新しい弟子となりました。いわば、教会の誕生日です。
 
2.ペンテコステへの約束
 
 
この出来事の10日前、復活されたキリストは、それまで何回か弟子達にご自分を現しなさいましたが、最後のお別れをして昇天されます。その時に残されたのが、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(1:8)というお約束です。この約束は3つの内容を持っていますので、その一つ一つについて、しっかりと理解して、私達のものとしたいと思います。
 
A.聖霊が臨む
 
1.聖霊が臨む恵みの豊かさ
 
 
聖霊が臨むとは、今までに無かったような程度と深さをもって聖霊が注がれる事です。この同じ出来事について、他の聖書箇所では、色々な表現で語られていますので、先ずそこから見て見ましょう。

1)「力を着せられる」(ルカ24:49)とは、聖霊の力が着物のように被せられる経験を示唆しています。

2)「注がれる」(ヨエル2:28)とは、聖霊が豊かに与えられることを示唆します。

3)「聖霊と火とによるバプテスマ」(マタイ3:11)とは。二種類のバプテスマを指すのではなく、聖霊が火のように汚れを清める働きを示唆しています。

4)「満たされた」(使徒2:4)とは、聖霊の部分的な働きではなく、全面的な盈満を指しています。

これら4つの表現は、すべてペンテコステの出来事を指差しています。つまり、同じ経験の、異なった表現です。まとめていいますと、聖霊が臨むとは、人格としての御霊が、ある条件の下に、もう一つの人格としての弟子達に保留のない程近く、また自由に感化、影響を与える関係になることです。
 
2.聖霊が臨む準備
 
 
1)神の側では:聖霊が臨む準備とは、贖いの成就です。私達人類に、完全な救いという恵みを注ぐために、キリストが十字架にかかり、復活をし、聖霊が注がれるための準備を完了されました。その様子を示す聖書の言葉がヨハネによって記されています。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:39)言い換えれば、イエスが十字架にかかり、復活し、昇天されるという「栄光を受けなさった」後で、その準備が完了した後に聖霊が注がれることを示しています。水道工事に譬えますと、ダムが作られ、配管工事が完了したようなものです。

2)人間の側では:このように、神の側での準備は完了したのですが、人間の側の準備も必要です。水道の譬えで言いますと、家庭の蛇口をあけることです。どんなに水道工事が立派に完了していたとしても、各家庭の蛇口をひねらない限り、水は与えられません。それと同じように、私達の側で心を開いて、恵みを求めるという態度を表しませんと、恵みは注がれません。弟子たちのケースで言いますと、10日間の切なる祈りがありました。その祈りの中で、互いの罪の告白があったことでしょう。完全な明け渡しがなされたことでしょう。そして、最終的には、神の力と恵みを100%信じる信仰に立ったことでしょう。キリストが成し遂げてくださった全き救いに対する全き信仰が神の業を私達に注ぐ最大の準備なのです。「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)
 
B.力を受ける
 
1.清きの力
 
 
弟子達が与えられたのは、第一に清きの力でした(使徒15:9)。先々週お話しましたように、ペンテコステ経験の核心は心の潔めでした。心が清くされていませんと、どんな立派な奉仕をしても、全部自分の手柄になってしまいます。私達クリスチャンの生活と奉仕において、一番大切なのは、その動機がきよめられるという事です。神の栄光を現すこと、神への愛の表れとしての奉仕であること、これが基本中の基本です。
 
2.証の力
 
 
弟子達は大胆な証人になりました。彼らが大胆になったというよりも、聖霊に押し出され、彼に導かれ彼の語らしめなさるように語ったと言うほうが正確です。2:4には、「御霊が話させて下さるとおりに」とありますし、また、マタイ10:20にも「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話させるあなたがたの父の御霊だからです。」と記されています。つまり、さあ、聖霊に満たされたぞ、頑張らなくっちゃ、ではないのです。リポビタンDを飲んで頑張るようなものではないのです。聖霊に従って歩んでいる時に、最もふさわしい人物と機会を主が備えて下さる、そして語るべき内容も言葉も備えられるのです。

聖霊は人格であり、そのお方と間近く歩む歩みの中で、かれに押し出されて語ることが証なのです。力とは、聖霊と独立した力ではなく、聖霊の持つ力であり、それが彼の内住の故に私達に付与されるのです。ローマ15:19でパウロは、「また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」と語っていますし、第一コリント2:4「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。」と語っています。
 
C.証人となる
 
1.甦りのキリストを証する
 
 
一般的に言って、証言するとは、その人が見たこと、経験したことをそのまま語ることです。それは非常に個人的なものです。自分が経験し、目撃した事実に基づき、しかもその証言の為には命を賭けるという真剣さが含まれます(ギリシャ語の「証言する」と「殉教する」とは同じ言葉です)。特にこの場合は、キリストの証人となるという意味です。キリストの復活の事実を証することが弟子達に託された務めでした。1:22においてペテロは、「すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」と、その務めを自覚しています。2:32においても、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」と明確に証しています。

21世紀に生きる私達にとって、キリストを証するとは何を意味するのでしょう。それは、活きておられるキリストが私達の心の内に住んでいてくださることを証しするのです。キリストが私達の救い主となってくださったこと、そのお方が聖霊によって私達の心のなかに宿り、私達と物語り、私達を導き、慰め、助けて下さっていること、その影響で私達の人格がキリストに近いものとして変えられつつあることが、証なのです。第二コリント2:15に私達は「キリストのかおり」と語られています。私が香っているぞ、というように香水をつけて香るのではありません。自分で気がつかない形で、私の昔を知っている誰かが、どうしてxxさんはこうなったの、と気づくような証なのです。その時、へりくだって、それは私の修業のおかげではなく、内におられるキリストのおかげですというのが証です。
 
2.エルサレムから地の果てまで
 
 
1:8には、証の範囲に関して、4つの地域を挙げています。とても示唆に富んでいます。

1)エルサレム:それは、私達の居住地域のことです。外にいって大胆に証するのも幸いですが、今いる場所での証を大切にしたいものです。

2)ユダヤ全国:これは同族への証です。私達に置き換えますと、日本全体への証です。今週はJEA総会が開かれ、その中で、教会全体が協力して日本全体を視野に入れた宣教戦略をどう構築したらよいかを考えます。一つ一つの教会がその周りに伝道すると同時に、違った地域の教会と連携して、日本の福音化に力を注ぎたいものです。

3)サマリヤ:これは隣の部族のことです。人種や文化が異なる人々に福音を伝えるためには、心の壁を克服することが課題でした。特にユダヤ人にとってサマリヤ人は近くて遠い人々でした。いろいろなわだかまり、敵対心をお互いに引きずってきた過去がありました。その思いを超えて、福音を伝え、一つの心になるというのは、大きな挑戦でありました。私達にも、似たような文化的・民族的障壁を互いに感じる近隣諸国があります。キリストの福音によって民族的偏見を乗り越えられるかが問われています。

4)地の果て:これは世界宣教のことです。キリストは、「少しだけ周りに」などと遠慮がちにおっしゃらず、地の果てまで行きなさい、と命じられました。弟子達は、この命令をまっすぐに受け取って、文字通り彼らが考えられうる「地の果て」を目指しました。パウロは、西の果てのスペインを(ローマ15:16〜20、28)、トマスは、東の果てのインドを目指しました。この群れの中に、宣教師として召されていると感じる方がおられますか。主の導かれる所へはどこへでも、という献身をもって自らを差し出しましょう。
 
終わりに
 
 
今日、主はあなたに何を語られましたか。聖霊の満たしを祈り求め、力を与えられ、キリストの証人とさせていただきましょう。
 
お祈りを致します。