礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年6月11日
 
「聖霊による一致と交わり」
ペンテコステ後講壇
 
竿代 照夫牧師
 
エペソ4章1-16節
 
 
[中心聖句]
 
 3  「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
(エペソ4:3)

 
はじめに
 
1.「聖霊と私」シリーズの終わり
 
 
ペンテコステの4週間前から「聖霊と私」というテーマで、聖霊がどのように信仰者個人に働きなさるかについての聖書の教えを順序だてて学んできました。「聖霊による生まれ変わり」、「聖霊によるきよめ」、「聖霊の満たし」、「聖霊による宣教」、そして今日は「聖霊による一致と交わり」というテーマで一応このシリーズを締めくくります。
 
2.「一致と交わり」
 
 
今日のテキストは、エペソ4章です。ここに「御霊の一致」という言葉が出てきます。第二コリント13:13と、ピリピ2:1には、「聖霊の交わり」という言葉が出てきます。同じ方向性を指している言葉です。教報6月号には、田中進先生がピリピ2章における「御霊の交わり」について触れておられました。一致というのは、キリスト者同士が一つ心で結ばれている横の関係を示します。交わりという場合には、まずキリスト者個人の御霊との交わりがあって、その結果として、横の交わりが生まれてくる、という二重の関係を示唆いたします。
 
3.「御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
 
 
この勧めは、御霊による一致というものがまず存在している、それをしっかり保ちなさいという意味です。ですから、第一に御霊によって既に与えられている一致について、第二は御霊によってさらに強化されねばならない一致について、この文脈に沿ってお話します。
 
A.既に与えられている一致
 
1.「御霊の交わり」
 
 
およそキリストを信じ、御霊を頂いているクリスチャンは同じ命によって生かされています。ちょうど、同じ両親から生まれた兄弟姉妹が同じようなDNAを分け持っているようなものです。クリスチャン同士でありますと、性別が違い、年齢が違い、文化や人種が言語が違っていても、不思議な共通性で結ばれています。それは同じ聖霊が、一人ひとりの心に宿り、同じ方向性へと導くからであります。

先週は、日本福音同盟という日本の福音派の諸教会を代表する方々と三日間寝起きを共に致しました。初めてお会いする方々でありましても、不思議な連帯感、暖かい交わりが生まれるのを感じました。特別講演会がありまして、普段私達と余り交わりを持っていない教会の指導者がお話くださいましたが、エーっと驚くほどの共通性を感じました。その先生の講演の司会を命じられまして、会衆に向かった形で座っていたのですが、先生の巧まざるユーモアに抱腹絶倒してしまいました。終わってから、ある先生が、後援者の話も面白かったが、竿代先生が楽しそうに笑っている姿のほうがもっと面白かった、とコメントされてしまいました。閑話休題。

それはともかく、クリスチャンにおける御霊の一致とは、各人に与えられている御霊の賜物として、既に存在しています。これは「御霊の交わり」として聖書が述べている恵みの第二の側面です。

第一の側面は、クリスチャン個人個人が御霊との交わりを保ち、その結果として、クリスチャン同士が共通要素で結ばれている、という意味です。交わりはギリシャ語でコイノーニアですが、ある物事を共有するというのが原意です。聖霊が私達の霊を導き、私達の霊が聖霊の品性を持つ、言わば持ち合い会社のようなものです。

私と聖霊がそのような関係であるとき、クリスチャン同士も同じ性質を分け持つのです。これがクリスチャン同士の交わりです。単なる社交ではありません。単なる仲良しグループでもありません。同じ聖霊に満たされたものとしての共通性が、クリスチャンの交わりの絆です。
 
2.共通要素が7つもある
 
 
パウロは「一つ」として数えられるものを、4節以下にこう述べています。

1)からだは一つ:私達はキリストを頭とする共同体=教会に属しています。その教会とは、全世界のクリスチャンを纏めて一体的なものです。それは同じ規格が嵌められて、大量生産的に出来る同一性ではありません。英語での表現はUnityでありまして、Uniformityではありません。逆に、人体の中にある部分々々がみんな違うように、私達はみんな違います。ですから、違いの中の一体性(Unity in Diversity)です。

2)御霊は一つ:これは2節に関連して説明しました。

3)望みも一つ:私達の共通の、そして最大の望みは、主キリストがもう一度来られることです。ワールドカップで優勝することも望みかも知れませんが、それはかなり低いパーセンテージの希望です。でも、主が来られる、これは必ず成就するお約束です。そして、私達のすべての苦労や悩みが解消する大きな、輝かしい望みです。

4)主は一つ:私達が救いの君として仰ぎ、より頼むお方はキリストのみです。

5)信仰は一つ:すべての人は罪を犯し、キリストの贖いによってだけ救われる、という救いの道である信仰は一つです。

6)バプテスマは一つ:その信仰の告白を通して私達がクリスチャンとなる徴としてのバプテスマはみんな共通です。

7)神は一つ:「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの支配者」であり給う神は一つです。

先週、牧会小グループの分かち合いのときに、ノン・クリスチャンとの人間関係も難しいが、クリスチャン同士の人間関係も難しいという話題が出ました。私もその感想に同感する部分がありますが、でも、こう思います。難しいことは難しいが、難しさの質が違うと。今述べた7つの共通要素のどれをとっても、ものすごい共通性です。違いは沢山あることでしょうが、この共通性をまず前提としてドーンと認めて、そこから話が始まるのです。忘れないように致しましょう。
 
B.熱心に保つべき一致
 
1.一致は自動的ではない
 
 
確かに私達一人ひとりがクリスチャンであり、同じ御霊を持っている限り、そこには不思議な一体感というものが自然に生まれるわけなのですが、それはほっておいても自然に強化され、成長するものではなく、「熱心に保つべき」ものなのです。英語の聖書(NIV)では
 
4:3 ”Make every effort to keep the unity of the Spirit”(御霊の一致を保つためのあらゆる努力を払いなさい)
 
と訳されています。「努力を払う」の原語はスプウダゾンテスとは、注意深く、熱心にそれを見つめ、それを促進しなさい、という強い言葉です。逆な言い方をしますと、努力を怠ると壊れてしまうという危険を示しています。残念ながら、教会内で一致が損なわれている例は、コリント教会、ピリピ教会などにも顕著に見られました。

コリント教会では、かつて教会を牧会した指導者たちのキャラクターに倣っての分派が生じて、互いに正当性を争っていました。また、賜物の相違を巡って、どの賜物が優れているかという競争が教会を分けてしまっていました。

ピリピ教会では、二人の女性指導者、ユウオデヤとスントケが対立し、その二人に同調するそれぞれのグループが相対立していました(ピリピ4:2〜3)。良いことのためではありますが、この二人には競争心が働いていたのです。ピリピ教会は、福音のために熱心に活動し、乏しい人々に愛を示し、互いに祈り合う素晴らしい教会でした。こんな素晴らしい教会でも分派という過ちに陥ったとするならば、私達も同じ過ちに陥りやすいのは当然です。

エペソ教会での対立について、エペソ書は明確に述べてはいませんが、異邦人とユダヤ人が混在していた教会でしたから、何らかの対立が顕在化していたようです。その証拠に、パウロは、教会の一体性を繰り返し強調しているのです。

これらはみんな肉(神の要素を取り除いた人間性)に由来するものです。私が言いたいことは、人間は何と群れやすく、互いに喧嘩しやすい動物なのでしょうか。この分派に傾く人間性は現実のものとして直視しなければなりません。
 
2.一致を保つには?
 
 
第2節と3節の前半に、パウロは賢くも一致を保つために私達が取るべき態度を示しています。

1)極限までの謙遜と柔和:適当な謙遜、適当な柔和とパウロは言いませんでした。中途半端な謙遜や柔和、形だけの謙遜や柔和だったら、必要がありません。「限りを尽くし」とは、徹底的な謙遜、徹底的な柔和のことです。クリスチャン同士ではあり得ないことかもしれませんが、時として無視されたり、蔑視されたり、傲慢な態度を取られたりということはあります。しかし、「何を!」というような報復的態度ではなく、人々の嘲りや無視に対しても、それを赦し、受け入れる謙遜と柔らかさを持ちたいものです。勿論、公の正義を貫くためには、時として、断固たる厳しい態度を示さねばならない時もあります。でもその時ですら、私があなた方より高い位置にいる、私の方が物事を良く知っている、弁えているという傲慢な思いではなく、「救われた罪人に過ぎない」という謙りはいつでも根底に持っていたいものです。

2)寛容の実践:寛容とは、広い心の事です。自分と意見の違う人、物事の感じ方の違う人、趣味の違う人、物事の進め方のペースや方向の違う人、はっきり言って馬の合わない人を切り捨てないで受け入れる態度のことです。きよめられた人でも、何となく好きになれない人を持つということはありうるでしょうか。私はあると思います。人間みんな違うテイストを持っていますからね。蓼食う虫も好き好きというではありませんか。でも、違うから遠ざけるのではなく、批判するのではなく、まして、排除するのではなく、違ったタイプの人からも多くを学ぶことが出来、彼らをうけいれることから自分も大きく成長できるのだという積極的な思考をしたいものです。牧会小グループが作られようとしていますが、なるべく自分と違うタイプの人々と交わり、分かち合うことで、この「寛容」の精神を育てていただきたいと思います。

3)アガペーの愛に基づく忍耐:いやな人、自分にとって嬉しい存在ではない人、嬉しくない言葉や行いをなす人に対して愛を持って互いに忍び合うのだ、とパウロは言います。忍ぶとは我慢することよりも、もっと積極的です。お互いのいやな点を認め合いつつ、そこにキリストの愛を当てはめるのです。人間的な好き嫌いではなく、キリストがご自分を捨ててくださったその愛を与えていただいて、その愛を持っていやに見える人に接するのです。愛の反対は自己中心です。神の愛は自己中心を砕き、乗り越えるものです。その愛をもって互いを忍びあうのです。破壊的な言動、空気、動機が支配しないこと。愛が支配しているだろうか。醜い競争心、嫉妬、誤解、噂話、批判(その根本は自己中心)が教会の成長を妨げていないだろうか。それと反対が愛である。

4)平和を愛する心:キリストにあって与えられた平安の心を共通の絆とするということは、平和の王様であるキリストを共通の主と信じ、その平和を愛する心をもってお互いを扱うということです。
 
3.一致をさらに強めるには?
 
 
16節は、より一層の一致と協力を勧めています。
 
16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
 
「あらゆる結び目」とは「供給の為の間接」(アフェー エピホレーゲオー)ということです。「しっかりと組み合わされ」とは、「一旦ばらばらにした人体を再結合させる移植手術のように」(スンハルモログウメノス=joint together, fit or frame together=)ということです。「結び合わされる」とは「共に結び付けられる連帯」(スムビバイゾメノス=bring together=)」を指しています。つまり、信徒は連帯してこそ霊的な命を保ちうるという相互の生命的関係を表わしているのです。横なりのメンバー同士の繋がりは、社交的といったものではなくて、霊的な結び付き、相互に励まし、祈り合う関係が大切なのです。心を開いて話し合う、関心を持ち、祈り合う、こうした助け合いの必要を忘れてはなりません。C・メラーが著した「魂への配慮の歴史」の8巻25頁に、ジョン・ウェスレーが組織した「小グループが造るキリスト者社会」においてこそキリスト者らしい同士意識とキリスト者としての義務感が組織的に養われた、と記されていることは、注目に値します。ウェスレーの言葉によると、「これらの人びとは、共に祈りをするために、ひとつに結ばれました。戒めの言葉を受け止め、互いの愛に目を注ぎ、互いに助け合うためです。自分たちの救いを全うするためです。」(同書31〜32頁)
 
終わりに
 
 
聖霊による一致を育てる第一の学校が、この教会です。その一つ心を実感する場の一つとして、牧会小グループがあります。その中で、謙遜、寛容、忍耐、平和を実際に学びつつ一つ心となることを体験します。それは決して排他的な一致ではなくて、この教会全体を包み込む一体の始まりであり、更に、他の地域教会をも包み込む、広がり行く一致です。この一致を保ち、広げ、深めて行こうではありませんか。
 
お祈りを致します。