プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年6月25日

「学んで確信したところに」

竿代 照夫牧師

テモテへの手紙第二 3章14-17節

中心聖句

2Timothy 3:14 

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。

(テモテへの手紙第二 3章14節)


A.はじめに

この半年、クリスチャン生活に関わる実際問題をシリーズで取り上げてきました。その最後が「クリスチャンと学び」というテーマです。今回は、聖書の学びということに焦点をあてます。

B.悪しき時代の到来

私達はいま、ポストモダンと呼ばれる時代に生きています。ポストと呼ぶのはモダンを遥かに超えてしまったという意味です。

ポスト・モダニズムとは、「過去数世紀に渡って西洋思想と社会生活を支え続けて来た諸原理や諸前提に懐疑的な態度を取る広範な文化運動である」といえます。

15世紀のルネッサンスや18世紀の産業革命を経て築かれてきた「近代」と呼ばれる時代は、(科学の発展に基づく)進歩の思想、人間理性への信頼、社会の発展への希望、人間の創造力への信仰をその共通の特色としていました。

言葉を変えれば、人間は過去よりすぐれているし、これからも進歩する、経済的にも社会的にも、今の時代は前よりよい、これからもよくなるという信仰でした。

しかし、その楽観主義は、20世紀後半にかけて挫折を見るようになりました。20世紀に経験した二つの大きな戦争とそれにまつわる様々な争い、産業の発達がもたらす深刻な環境破壊、快適な生活と裏腹の精神的・道徳的な荒廃を通して、科学の発展は本当に人類に幸福をもたらすものだろうかという深刻な疑問が生まれました。

それに対する答えを見いだせないまま、いろいろな思想の潮流が渦巻いているという現象がポスト・モダニズムです。その特徴は、「反権威主義、将来への大きな不安、著しい個人主義、楽しみを生活の中心に据える生き方」です。

C.聖書の預言の成就

そのような今日の時代の到来を、聖書は見事に預言しています。テモテへの手紙第二 3章1-5節を読みます。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、

情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、

裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、

見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。・・・

これは、このまま現代に当てはまります。一言で言えば「自己中心的精神」です。

D.聖書に帰れ

このような自己中心主義、反権威主義の時代の最中にあって、いや、そうであればあるほど、パウロが勧めているのは「神の言葉に帰れ」ということです。

パウロは、弟子であるテモテに対して、時代は悪くなるがと前置きしたうえで、次のように勧めています。テモテへの手紙第二 3章14-17節を読みます。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、

また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

E.なぜ聖書か?神の言葉だから

聖書にあるのは、単なる人間的な知恵ではありません。何千年も前に書かれた古さびた文書というのでもありません。 活ける真の神が、を聖書記者という人々にその息吹(聖霊の感動)を与え、神の御心を伝達された、その記録です。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、・・・

という言葉はとても重みがあります。どの部分は神の言葉で、他の部分はそうではない、という区別はなく、みな神の言葉であるという主張です。

厳密にいえば、ここで聖書と言っているのは旧約聖書のことですが、同じ霊感をパウロは別な場所で主張していますから、広い意味では旧新約聖書全体と取って差し支えないでしょう。

「神の霊感による」とは、セオプニューエイン、直訳では「神に息吹かれた」という意味です。

確かに聖書の著者は人間で、彼の個性や経験や思想が色濃く表れています。でも、彼が筆を執るとき、神の感動が加えられて、そのみこころを表す内容を書くことができた、その意味で聖書は神の言葉です。著者は人間です。でもその背後にあって彼を導いたのは神です。

そんな自己紹介は信じられないという方もあられるでしょう。それはそれで結構です。でもこの聖書の自己紹介の重みはしっかりと受け取っていただきたいのです。

例えば、私が「私は世界一品行方正な人間である」という自己紹介をしたとします。皆さんは、「すごーい、やっぱりねえ」という素直な反応もできます。「いや、彼はどうかしてしまったので信用できない」という用心深い反応も可能です。

でも、半分は正しく、半分は間違いという評価は論理的に不可能です。私が世界一品行方正ではない、と知りながらそうである、と声明を出すことは私が嘘をついていることを表わします。嘘つきは品行方正と反することですから、私の声明は当てにならない、ということになります。つまりこの場合、部分的には正しいという評価はありえません。

聖書について当てはめてみますと、聖書は自分が神の言葉であるという声明をしている訳ですから、皆さんの反応は全肯定か全否定かのどちらかです。

多くの人は「聖書はいいことが沢山書いてあって部分的には役に立つ良い本だが、それを神の言葉として全部信用するなんてとてもできない」と(よく学ばないで)考えています。でも、よく学びますとどちらかに態度を迫られる時が来るものです。

F.聖書の効用

聖書の目的は二つあると思います。まず、私達に「知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせること」です。

聖書は単なる格言集、座右の銘として使われるのではなく、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせるために書かれています。キリストご自身が、

その聖書が、私について証言しているのです。

とヨハネの福音書 5章39節で仰り、またヨハネはヨハネの手紙第一 5章13節で、キリストご自身が

・・・これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなた方によくわからせるためです。

と述べています。

実際、聖書を少し読むと、なんとよいことが沢山書いてあるのか、と感激するでしょう。でももっと読み続けると、自分はとてもそんな理想には及ばない、自分の心の弱さ醜さを思い知らされます。

三浦綾子氏の最初の作品である『氷点』は、主人公が「汝の敵を愛せよ」という聖書の教えをとことん追求し実行しようとするが、それを不可能にする人間の弱さ、原罪にぶつかって苦悩する物語です。このように聖書は人間の罪深さを示すものではありますが、そこで止めてしまってはいけません。

「そんな弱い醜い人間のために十字架にかかって救いの道を開かれた主キリストを信じる信仰によって救われる」という納得を持つまで読み続けていただきたいのです。それこそが聖書の書かれた究極の目的なのです。

聖書のもう一つの目的は、「教えと戒めと矯正と義の訓練とのため」です。

「教え」とは、正しい道が何かを教えること、「戒め」とは、悪しき道に進まないように警戒を与えること、「矯正」とは、実際に悪しき道に歩んでいる人を、正しい道に導き返すこと、「訓練」とは、より深く神を愛し、隣人を愛することが出来るように、私達自身を訓練することです。

念のために申し上げますが、聖書を読みながら、他の人に当てはめて、あの人のああいうところを直してやろうという道具として聖書の言葉を使いなさい、というのではなく、自分が教えられ、戒められ、矯正され、訓練を受けるという謙った態度が肝心です。それがなされるときにのみ、他の人にもあてはめることができるのです。

G.おわりに−−−学んで確信するところ

聖書を学ぶにはいろいろな道があります。

教会で語られる聖書講解を聞くこともその道の一つです。聖書を読む会に出席するのも助けでしょう。

しかし、聖書が本当に身に付く唯一の道は、自分で継続的に読み続けることです。これ以外に王道はありません。自分で神の言葉と取り組み、自分で理解し、納得し、心探られ、実践したものだけが身につきます。

あなたが学んで確信したところに(いつでも)いつづけなさい、とパウロはテモテに言いました。私達への言葉として捉えましょう。お祈りいたします。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/June 25,2006