礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年7月9日
 
「福音には力がある」
ローマ書連講(4)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙1章13-17節
 
 
[中心聖句]
 
 16  私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
(ローマ1章16節)

 
はじめに
 
 
1.昨週は、「あなたがたと私との互いの信仰によって、共に励ましを受けたい」と言う言葉からお話ししました。ここから、パウロの謙りの精神、他を尊敬する精神、心を開く正直さを見ました。

2.昨週は簡潔に触れましたが、今日は、パウロのローマ訪問にかける熱い思いを述べている13節から始めます。
 
A.ローマ訪問の願い(13〜15節)
 
 
13 兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。
14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
 
1.願いが妨げられている<しかし、後で実現>
 
 
パウロは実際、ローマ行きを自分の伝道計画の中に組み入れようと試みました。しかし、色々な実際上の理由からその計画が実現しませんでした。この手紙を書いた56年の時点では、パウロは現在留まっているギリシャ地方から東へ進路を取り、一旦募金額を届けにエルサレムに戻る積りでした。そして、その後すぐに、ローマに行くというのがこの手紙に記されているパウロの旅行計画でした。しかし、その計画は大きく変更させられました。実際何が起きたかと言いますと、彼はパレスチナで投獄され、2年後には囚人としてローマに護送されるのです。神のご計画とは不思議なものですね。
 
2.「福音を伝える」負債感
 
 
パウロは、自分はすべての人々に負債があると言っています。それは、福音を伝えるという責任のことです。この間は、ケーキの譬えでこの責任感についてお話しました。「皆さんでどうぞ」ということづてをもって私がケーキを頂いたら、そのケーキが悪くならないうちに「皆さん」に配る責任が私にあるのと似ている、と言う説明です。ある注解者は、これをエゼキエル3章の見張り人との比較で説明します。この見張り人は、イスラエルの悪に対して警告をしなさいという務めを与えられます。警告をしたのに人々が言うことを聞かないで滅びたら、それは人々の責任である、しかし、警告を怠ったために人々が滅びたら、それは警告をしなかった見張り人の責任である、というくだりです。パウロは、自分が世界の民の見張り人として任命されたと言う使命感を持っていました。

全世界の民を強調するために、「ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」と、考えられうるカテゴリーを挙げています。ギリシヤ人は当時の文明世界の人々の代名詞です。そのギリシヤ人は他の人々を「バラバラバラバラ」と訳の分からぬ言葉をしゃべる人として、「バルバロス」と呼んでいました。文明人も、そうでない人も、つまりすべての人、知識階級もそうでない人も、つまりすべての人、それがパウロの重荷でありました。すべての人が同じ方法で救われるという福音が本当に分かりますと、人種差別の心が消えていきます。

ところで、「ローマにいるあなた方に福音を伝える」という表現は何を意味するのでしょうか。この手紙の受け取り手であるクリスチャンたちを意識しているのでしょうか。彼らはクリスチャンではあるが、福音を十分に把握していないので、福音のすべての要素を伝えたい、という意味もありましょう。もう一つは、ローマにいるノンクリスチャンの大衆に福音を伝えたいという願いも示していましょう。
 
B.福音の力の宣言(16〜17節)
 
 
16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
1.福音を誇る
 
 
「福音を恥とは思いません」という言い方の中に、福音が、その余りの単純さの故に知識階級からは馬鹿にされていた、という雰囲気を見ます。実際、パウロがギリシヤの首都アテネで伝道したときに、この囀るものはなにをいうか、と哲学者たちに馬鹿にされたという記録があります。

しかしパウロは、そのような、恥ずかしさを持ちながらも、私はそれを誇りにすら思う、と敢て開き直っています。同じ言い方は(同じ時期に書かれた手紙である)第一コリント1章にも現れています。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(23、24節)神の力の大きさの故に、十字架の愚かさを敢て前面に出したのです。同じ章で、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(18節)とも言っています。

青年会時代、日曜夕刻の路傍伝道に出かけるときに準備祈祷会が持たれましたが、この言葉はその祈祷会で何度も引用されました。太鼓を叩いて、ラッパを吹いて、「ただ信ぜよ」を歌って人々に訴える、これほどカッコ悪い伝道はありませんでした。でもそのカッコ悪さを敢て選んで、福音を伝えるとき、人々の心に届くものです。松山の須藤先生は、私達が青年会時代、市川で路傍伝道を行っていたときの実であられます。勿論、21世紀には、それに相応しい方法はありうるでしょうが、太鼓を叩いたあのスピリットは忘れてならないと自らに語っています。

正に、イエス・キリストとその十字架は世の知恵から見れば、愚か、単純、非理性的でさえあります。しかし、これは神の力が表われる唯一の道である。彼を信じるものが罪赦され、生活が改変され、生きる望みと力を与えられるのです。
 
2.福音は、万人のもの
 
 
喜ばしい知らせは、パウロにとって、すべての人々に及ぶものでした。「ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって」とありますが、本当に良いものは、誰の目にも良いものなのです。この人には効くが、この人には効かないというような薬は、本当の薬ではありません。西洋人には有効だが、東洋人にはどうも、というような福音は、本当の福音ではありません。パウロが信じていたのは、そして、聖書全体が私達に示しているのは、福音とは、誰に対しても有効な神の救いなのだ、と言う点にあります。

パウロがここで「ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも」と言ったのには、訳があります。ユダヤ人を始めとして、とはユダヤ人から始まったという歴史的な順序を示しています。彼らは神に選ばれた民であり、彼らを通して律法が与えられ、彼らに救いの預言が与えられ、彼らの中から救い主が生まれ、彼らの間に最初の教会が誕生したからです。福音の始まりにおいて、圧倒的といえるほどユダヤ的な要素があります。これは歴史的な背景として認めねばなりません。

しかし、福音のユダヤ的な背景を認めつつではありますが、パウロは、福音が広がっていく広がりは全世界的なものであることを、ここで高らかに宣言いたします。「ギリシア人にも・・・すべて」という句がそれです。日本人はどうなのか、などと混ぜ返さないでください。パウロは「ギリシア人」という言い方で、ユダヤ人でない人々を皆含めているのです。これは、第一コリント1:24に、「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシア人であっても」と記されていることからも明らかです。

私達は、グローバルなものの考え方をする時代に生きていますから、ある真理が正しいならば、それは普遍的に通用する、という考え方を至極当然なものとして受け止めています。万有引力の法則は日本では働くが、アメリカでは働かない、とは考えません。しかし、そういう考えが一般的ではなかった第一世紀の世界で、福音が普遍的だ、としっかり捉え、それを伝えたパウロの先見性は驚くべきものです。これは、パウロ個人の見解ではなく、パウロに霊感を与えなさった主の啓示の故です。
 
3.福音は、救いを齎す神の力である
 
 
どの点で、普遍的なのでしょうか。信じるすべてのものに救いを齎す神の力だという点です。救いとは、文字通りには「釈放」という意味です。死の恐怖から、罪の力の隷属から、将来に対する不安から、現在の思い煩いからの釈放です。それは、私達が主イエスを救い主として受け入れたその瞬間の出来事も指しますが、それだけに限られません。神が与えなさる恵みのすべてを意味します。その意味では、私達はある日、ある時に救われた、とも言えるし、今も日々救われていると言えるし、将来その救いが完成されるのを待ち望んでいるとも言えます。

その救いを齎すのは、神の力です。人間が努力や修業で自分を変える道ではなく、反対に、人間は全く無力だが、神がその力を現してくださるのです。神の力によって絶望から希望へ、暗闇から光に、ガリガリの自己中心主義から神中心の生き方へ、罪の泥沼から聖潔の王道にという変化を齎す救いが与えられるのです。ここで使われている力はdyunamisで、ダイナマイトの語源となった言葉です。ノーベルがダイナマイトを発明した時、その余りの力に圧倒されて、デュナミスから、ダイナマイトと名付けたといわれています。神の力が、動きそうにもない、私達の性格、弱さ、過去の罪を吹き飛ばすような力を持っているのです。

パウロの主張を単なる理論ではなく、実体験に基づいた確信でありました。誰にでも及ぶ救い、誰をも変革する力を、それまでの三回に亘る伝道旅行で経験しました。ピリピでは、占いの霊に取り付かれた女性がその霊から釈放され、まともな人生を歩むようになりました。同じ場所で、自殺に追い込まれた牢屋の番人が、キリストを信じただけで家族もろとも喜びに満ちた生涯に変えられました。エペソにおいても、偶像造りの職人が商売に支障を来たすほど、クリスチャンの数が増えました。この実体験に基づいてパウロは、福音とは神の力だと確信をもって言いえたのです。

同じ福音は、この小さきものの家族全体も変えてくださいました。5年間も結核を患い、家庭は破産というどん底に追いやられて、生きる望みを失い、自殺の場所を求めていた青年を作り変えて下さいました。その結果として、一族百人に余る者たちが、福音の恵みを感謝しつつ生きています。

でも、救いについて一番すばらしい部分は、過去の出来事であったというよりも、現在的なものいであるという点です。救いに与ったクリスチャンでも、日々様々な問題に取り囲まれ、悩み、苦しみます。その只中で日々主のみ助けを頂いて輝くことが出来る、これが救いの大切な部分です。
 
4.福音は、信仰というスイッチを通して注がれる
 
 
「信仰」は、ローマ人への手紙のカギとなる言葉です。「救いは、行いによらず信仰による」これは福音の大真理です。救いの基礎を人間の修行や努力や悟りに置くのは、福音ではありません。それらは、私達をより大きな失望へと導くだけです。救いの基礎を神の力に置きますと、信仰による救いと言う真理が生まれます。信仰とは、それ自体に何か大きな価値があるものではなく、もっと受身的なものです。神の力、恵みが示されたのですが、神のイニシアチブを受け入れることなのです。ある神学者は「信仰とは、より頼みつつ行う服従である」と言いました。正にその通りです。

信仰は、神の力を私達に注ぐ道筋に回路を変えるスイッチのようなものです。数年前、シアトルのセーフコ・フィールドを見学しました。イチローの所属するマリナーズのホームグラウンドです。試合のない日でしたので、案内人があちこちを案内してくれました。そのとき、大きなドームの屋根を開閉するテストをしていました。広い野球場の屋根をスイッチ一つでゴーっと開き、そして、閉じるのです。ものすごい見ものでした。みなさん、その屋根のスイッチがその力の秘訣でしょうか。違います。力は巨大なモーターにあります。でも、そのモーターの力を引き出す大切なチャンネルがスイッチです。私達の人生を変える力、暗き人生から光の人生に変える力、罪に負けてしまう弱さから清き道を歩ませる力、落胆や絶望から希望溢れる人生に変える力、孤独や虚しさから交わりの楽しさに変える力、そのすべての力を握っておられるのは神ご自身です。ただ、その偉大な神の力も、私達の同意なしには働くことが出来ません。信仰とは、自分の内には何の力もありませんから、神様、あなただけを信頼し、あなたの力により頼みます、よろしくお願いします、という心の態度のことです。今日、私達はその心のスイッチをonにしているでしょうか。未だでしたら、onのボタンを押しましょう。onにはしたけれども、中途半端な接触不良になっていましたら、はっきりとonに致しましょう。

教会裏のガレージは、車ごと上下に動かすエレベーター式になっています。安全の為でもありましょうが、スイッチはonにしたらずっと動き続ける仕組みではなく、スイッチを押し続けねばならない仕組みになっています。面倒と思うこともありますが、これが私達の信仰生活にも当てはまるでしょう。ある日ある時イエス様を救い主と信じた、それで終わりではないのです。信仰と言うスイッチを押し続けるのです。すると、神の力が私達に継続的に働きます。今日の、現在的な信仰を確認しましょう。
 
お祈りを致します。