プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年7月9日

試練を乗り越える@
「無視された末子」-あれは今、羊の番をしています-

渡辺 寛伝道師

サムエル記第一 16章11-13節

中心聖句

1Samuel 16:11-13 

サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」

エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」

サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

(サムエル記第一 16章11-13節)


A.はじめに−少年ダビデ

今回から暫くの間、このプレイズ・ワーシップでお話するダビデは、イスラエルの2代目の王様に選ばれた人物で、神を愛し神に信頼を置いた人物。その現れとして詩篇に神への讃美の詩を多く残した人物であることを申し上げることができます。

しかし少年時代は、羊の番をする平凡なエッサイ家の末っ子でした。父からも「あれは今、羊の番をしています。」といわれてしまうほどの存在でしかない、目立たない少年時代でした。いけにえを献げる大切な時にも兄弟の中に数えられていない、呼ばれない存在でした。

「羊の番」というと、なんとなく私たちは良いイメージも持ちますが、その仕事は辛く、大きな家では、雇人か、末の子供の仕事でした。

自分の息子を「あれ」呼ばわりするとは、何という扱いでしょう。

童話の「シンデレラ」を思い出してしまいます。意地悪姉さん達にこき使われる末娘のシンデレラ。姉さん達は、外見にばかり気を使い、家の事は全く関わらない。シンデレラは、身なりはボロボロで、一日中家の掃除洗濯とヘトヘトになるまで働かされていました。

かと思うと聖書に出てくるヨセフの様に、親が年を取ってから生んだ子供は異常なほど可愛がられる場合があります。人間の愛情とは、いかに偏っているかが分かります。

少年時代のダビデは兄弟の数に含まれない、ある意味「無視された末っ子」でした。または、「忘れられた末っ子」でした。

B.無視(相手にされない)人生

少年時代だけではなく、ダビデの人生は「無視(相手にされない)」試練を経験する人生でした。

いけにえを献げる時に呼ばれなかったダビデ(16章11節)。ペリシテ人との戦いにおいて、サウル王に「あなたはまだ若い」からと出陣を反対されたダビデ(17章33節)。ゴリアテに蔑まれ相手にされなかったダビデ(17章42節)。ナバルに「いったい何者だ」とあしらわれたダビデ(25節10節)等、このサムエル記第一でも何箇所かダビデが「無視」される姿が描かれています。

子供社会には「おみそ」という言葉があります。年齢が小さいからという理由で、鬼ごっこの鬼などが免除されるルールです。一見優しい配慮だなと思いますが、考えようによっては「無視」に近いのです。

一緒に遊んでいるように見えて、実は「どうせあの子を捕まえても鬼にはならないのだから、捕まえてもしょうがない」と、輪の中にはいても相手にしていないのと同じ状態になるのです。そう悟ったとき、子供なりに悲しい思いをしたことがありました。

年が若いからという理由で相手にされないことがあります。また、一度貼られたレッテルによって、「あの人は、ああいう人だから」と決めつけられて、それが理由で悲しい思いをすることがあります。「役立たず!」と罵られることがあります。

私たちの人生においても、様々な理由で無視されたり、忘れられたりという侮辱を受けたりして、悲しい思い、憤りを感じてしまうことがあります。

C.人の評価と神の評価

神様に遣わされたサムエルは、エッサイが「あれは今、羊の番をしています。」と言ったとき、「もう一人は末っ子か・・・わかった。急いでいるから連れて来なくても良い。」とは言わなかった。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」と、末っ子のダビデのことも、自分の目で見るまで待ちました。

人の評価と神様の評価には大きな違いがあるのです。

ダビデが経験したように、人は、人を無視したりその存在を忘れてしまうことがあります。

その反対に、神様は、誰一人無視することなく、忘れ去られる人はいないのです。偏見やレッテルを貼られて見られることは決してないのです。

なぜなら、人間には、限界があります。人どうしが互いを本当に知ることはできません。

まずは目に見える範囲で、その外見で判断します。多少つき合えば、それなりに性格や、考えが分かりますが、全てではありません。限られた情報の中で評価を下します。だから、結果として、無視や忘れることが起きるのです。

しかし、神様は外見だけではなく、むしろ心の中から人を見抜きます。最もその人を正しく評価できる、心を見ておられるのです。偏った愛ではなく、真の愛で、全ての人を平等に扱ってくださるのです。

D.神様に委ねる

Tサムエル16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

サムエルも、ダビデに会う前には、長男の容姿を見て、彼が選ばれた者と思っていました。初代王様のサウルの時も外見で判断し、その結果民を苦しめる結果につながりました。

本当にその人を正しく理解すること、評価することができるのは、全知全能の神様ご自身だけです。この神様にすべてをお委ねすること。その絶対的な力に服従し、信頼することが重要です。それは、大きな忍耐が必要となってまいります。

E.イエス・キリストも

新約聖書 マルコの福音書 6章2−3節をお読みします。

「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。

この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」

イエス様も、同じような試練に合いました。郷里に戻られたイエス様は、安息日に教えられました。しかし、町の者達は、イエス様を救い主として見ることができず、ただの人、大工の息子としか理解することができませんでした。そして「この人は大工ではありませんか。」と侮辱したのでした。

イエス様は、4節にあるように、そのことで腹を立てるのではなく、淡々と、

「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」

と言って次の町へと行かれました。私たちもイエス様の歩まれた道を、信仰を持って歩まなければなりません。

F.ダビデの評価から

私たちは、神様のような全能の力を持っておりません。間違いだらけ、欠けだらけの人間であることを日々自覚します。 その中で、私たちは、時としてダビデの様に、無視されたり、忘れ去られたり、侮辱と感じたり憤りを覚えます。

また反面、エッサイの様に他の人を不十分な情報と関係において、評価を下し、無視したり、忘れてしまい、いらぬレッテルを貼ってしまうこともあります。十分気をつけなければなりません。

大切なことは、まずいつでも、自分の心を神様が見ておられるという自覚を持つことです。

そして、神様の前に恥じない心でいることです。「フリ」をするのではなく自分の心を偽らず、私たちは主にあって成長の途中であることを認め、隠さず主に扱っていただきましょう。

私たちは誰一人として神様の前で無視される者はありません。それどころか神様は、私たちを見つけ出し私たちの心をご覧になり、必要な力を注いでくださるのです。

Tサムエル16:13 ・・・主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。

それは、神様を全く信じて従うための力です。そして、いわれのない無視や心ない仕打ちに傷ついた心を励まし、助けてくださる力です。また、逆に人を傷つけてしまった時に素直にそれを認め、神様に対して、人に対して心からの悔い改めをする勇気です。

これからの日々の生活においても、私たちの心を神様に知っていただきましょう。イエス様の歩まれた道を進みましょう。

主の祝福をお祈りいたします。       


Message by Hiroshi Watanabe,preacher of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/July 9,2006