礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年7月16日
 
「義人は信仰によって生きる」
ローマ書連講(5)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙1章16-20節
 
 
[中心聖句]
 
 17  なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
(ローマ1章17節)

 
はじめに
 
 
1.昨週は、16節の「福音は、・・・信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」というテキストから、神の大いなる力と、それを私達のものとして引き出す信仰に焦点を当ててお話ししました。特に、信仰とは大きな機械装置のスイッチをオンにすること、オンにし続けることとお話ししました。何人かの方から、オンにし続けることが大切と分かったというコメントを頂いて、励まされました。

2.今日は、その救いの内容を別な言い方で再述している17節に焦点を当てます。この節も、ローマ人への手紙のカギとなる言葉の一つです。
 
17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
A.神の義が啓示された
 
1.「なぜなら」:16節の宣言の説明として
 
 
17節は、「なぜなら」から始まります。16節が「福音は信じるすべてのものに救いを与える神の力である」という宣言の理由を説明しようとしているからです。その理由とは、救いの中心である「神の義」(神によって人に与えられる正しさ)は、信仰のみによって与えられるからだ、というのです。それを少し詳しく見てみましょう。
 
2.福音の中心である「義」
 
 
「義」という言葉は、ローマ人への手紙の鍵となる言葉の一つです。

1)旧約時代: 「義」(ツェデク)という言葉そのものの定義から言いますと、(重さや、大きさを測るときに)「規格にかなうこと」という意味です。そこから、「正しい」という倫理的な意味が主流となりました。旧約聖書における「義」とは、神の側から言えば、そのご性質の一部です。特に、律法を維持し、悪に対して罰を与える審判を指しています。同時に、神の契約に従って、その民を艱難から救う行為も指します。人の側からいえば、律法に適った行動、法廷で正しいと認められることを指しています。

2)新約聖書: 新約聖書における義(ディカイオスネー)は、この旧約聖書の概念に加えて、神のきよいご性質が人間との関わりにおいて現れるというダイナミックな概念が表に出てきます。特に、神が人に与え給う義、義ではない人間を義とみなす、という概念を持つようになります。
 
3.神の義
 
 
ここでパウロが「神の」という所有名詞を加えているところに大きな意味があります。

1)神の正義の発現:神の正義が宇宙的な規模で顕れた、つまり、十字架による刑罰と言う形で現れた、とも見られます。人間の罪をただ愛の故に見逃してしまったら、神の正義はどうなるのでしょう。いま、隣の国のミサイル発射という行動について、非難をするかしないかの議論が国連でなされていますが、一般的に言って、正しくない行動について、社会正義に基づいて、それは罰に値するよ、というメッセージを送りませんと、国際的な秩序は保てません。同じように、人の罪に対して神は不快感を怒りという形で表し、それに対するキチンとした処罰をしなければなりませんでした。それが主イエスの十字架だったのです。このように、「神の義」の表れを、18節の「神の怒り」の表れと並行的に見ることもできます。

2)神の義の付与:あるいは、人は自分の力で正しくはなれないから、神の与える義を頂くことになる、という意味でも理解できます。人間は自らの努力で神の標準に適うように自分を合わせることは出来ない、それほど徹底的に罪人なのだ、ただ、神によって与えられる義によってだけ神に受け入れられるものとなる、というのがこのローマ人の手紙の趣旨です。そのことはこの手紙全体で詳しく立証されていくのですが、取り敢えず、その論述の前に、結論的な声明がここで打ち出されている、と見ることもできます。特に、「信仰から出て信仰にいたる」という説明が、この解釈の支えです。双方のニュアンスが:私は双方の意味が含まれているが、どちらかといえば、後者に強調があると思います。

3)ルカ18章の「パリサイ人と取税人」の譬え:人の義と神の義の対比が絵画的にあらわれているのが、ルカ18章の「パリサイ人と収税人」の譬えです。パリサイ人は、自分の義を主張し、自慢し、感謝さえしているのですが、神は彼の祈りを顧みなさいませんでした。一方取税人は、自分の罪深さを自覚していましたから、敢て目を天に向けることもせず、胸を叩きながらただ一言「神よ、罪人なる我を哀れみ給え」とだけ祈りました。主イエスはこの譬えの締めくくりとして、「この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」(ルカ18:14)と語られました。正に、神が与えなさる「義」のあり方を示唆するストーリーではありませんか。
 
B.神の義は信仰によって得られる
 
1.信仰によって与えられる義
 
 
「信仰に始まり信仰に進ませる」とは、文字通りには「信仰から信仰へ」となるのですが、要は、神の義を与えられるのは徹頭徹尾信仰によると言おうとしているのです。これは、自力本願的な考え方を持つ日本人には中々受け入れ難い考えです。しかし、これから全章を費やして詳しく述べるように、私達の救いも、義とせられることも、新しい性質を与えられることも、クリスチャン生涯の始めから終わりまで、頼みとするお方はお一人、キリスト以外にはありません。
 
2.信仰による義人は生きる
 
 
1)ハバククが捉えた真理(ハバクク2:4=不義の時代に信仰によって真実に生きる)

パウロはその宣言を補強するために、預言者ハバククに与えられた神の言葉を引用します。ハバクク書を開きましょう。ハバクク2:4には、「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」と記されています。ハバククとは、紀元前7世紀、バビロンが世界帝国として勢力を伸ばし始めた頃を時代背景としています。イスラエルの悪を懲らしめる道具として神が用いなさったバビロンは、イスラエルよりも悪い人々ではないか、神の正義はどこにあるか、と預言者は深刻な問いかけを行います。これに対して主は、最終的な審判は必ず行われる、正義は必ず立つ、信仰を持ってその神の審判を待ち望みなさい、と言う意味で、この4節が語られるのです。客観的にみて、ハバクク自身が、パウロの言うような「信仰義認」の真理を正確に捉えていたというのは、前後の文脈や、この文章そのものから考えて言い過ぎでしょう。しかし、ハバククは、不義の充満していた時代に信仰によって生きる真実な生き方の大切さを教えられ、実行した、ということは確かです。

2)パウロによる継承と発展:「信仰義認」として

このハバククの真理は、新約聖書では3箇所で引用されています。@第一は勿論このローマ1章です。A第二はガラテヤ書です。3:11には、「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる。』のだからです」ここでの強調は、律法に対比しての信仰です。さて、B第三は(パウロの著作でなかったとしても、その影響を受けた)へブル書です。10:38に「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」と引用されていますが、その前後を見ると、忍耐をもって信仰によって生きるべきことが強調されています。ローマ書が、信仰によって得られる「義」を焦点付け、ガラテヤ書は、その義は信仰のみよって得られるのだ、と「信仰」を強調し、へブル書は、義人は信仰によって「生きつづけるのだ」と「生きること」に強調を置いているのが特色です。興味深い対比です。いずれにしても、その手紙の大切な論点を支えるものとして引用されています。パウロはハバククの見出した真理を、「信仰による義認」という一歩進んだ形で継承し、発展させたのです。

3)マルチン・ルターの経験:罪責感からの解放

15〜16世紀に生きたマルチン・ルターは、神を喜ばせようと修道院に入り、修行を続けましたが、神を喜ばせようとすればするほど、自分の罪深さと弱さを見せ付けられ、大いに悩みます。彼にとっての神は、人の罪を怒り給う義なる神、彼にとっては恐ろしい存在そのものだったのです。その時彼はウィッテンベルク大学の教授の仕事を命じられます。ノイローゼになりかかっていたルターは、自分がいかに教授に相応しくないかという15の理由を挙げて断りますが、彼の魂の導き手であるスタウピッツ院長がどうしてもといってその仕事を押し付けるのです。やむを得ず教授職を引き受けたルターは、ローマ人の手紙の講義を行うのですが、その準備のために大学の高い塔に設けられた研究室に閉じこもり、聖書と真正面から取り組みます。その時の感想を記したものが次の文章です。「私は日夜、ローマ1:17の言葉の意義を思い巡らそうと努めました。遂に、神は私を憐れんで、神の義とは、それによって義人が生きるようになる神の賜物、つまり、信仰のことである、ということを理解し始めました。しかも、この『神の義が福音のうちに現わされる』という文章は受身形であって、憐れみ深い神が信仰によって私達を義としてくださる、ということをも理解しました。それが、『義人は信仰によって生きる』という意味だと理解したのです。この時、私は全く生まれ変わって、パラダイスに入ってしまったように感じました。その瞬間、聖書のすべてのページが私にとって明らかなものとなってきたのです。」と。この1:17の御言葉が、罪責感に悩む一人の魂を解放し、さらに、中世の様々な教えに縛られていた何百万という信仰者たちを解放したのです。

4)私達も信仰によって生きよう

クリスチャン生活の土台は信仰です。それも、こんな偉大な信仰、こんな小さな信仰、厚い信仰、薄い信仰とかいった色々な種類の信仰があって、信仰に進歩しなければ、というプレッシャーのようなものを感じながら、自分の信仰に鞭打ちつつ進む、と言うようなピクチャーを持つ必要はないのです。信仰とは、自らの無力さ、罪深さを徹底的に認めて、神の全能と神の愛と神の備えてくださった救いを単純に受け入れ、この愛の神に寄りかかっている心の姿です。必死に信仰を守ると言う悲壮なものではなく、穏やかな、肩の力を抜いた信頼関係なのです。それを保証するのが福音です。この一週も、委ねきった信頼の心をもって過ごしましょう。

最後にもう1度、1章17節をお読み致します。
 
17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
お祈りを致しましょう。