プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年7月16日

試練を乗り越えるA
「強すぎる相手だが・・・」

竿代 皓子牧師

サムエル記第一 17章32-37節

中心聖句

1Samuel 17:32-37 

ダビデはサウルに言った。 「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」

サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若いときからの戦士だったのだから。」

ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、

 私はその後を追って出て、それを殺し、その口から、羊を救い出します。それが私に襲い掛かる時は、そのひげをつかんで打ち殺してしまいます。

このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。 」

ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」 サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」

(サムエル記第一 17章32-37節)


A.はじめに

今回は、イスラエルの歴史の中で大きな役割を果たすダビデの衝撃的な「ゴリアテ」との戦いから学びます。

ダビデはサウルに続く第二代目の王となる人です。イスラエルの人々は神による神政政治から王による支配の君主制の中で、敵であるペリシテ人との戦いの中におりました。この時の王は第一代のサウルです。サウルは度重なる失敗によって神に見捨てられており、ペリシテ人とのこの戦いでも、巨人ゴリアテの出現によって、窮地に立たされておりました。これは今から約3000年も前に起こったことです。

本来ならばゴリアテの挑戦に答えて、一騎打ちに出て戦うのはイスラエル軍の中で一番背が高く一番強いサウル王自身であったことは周知のことです。しかし、彼はそう出来ませんでした。この時戦う名乗りを上げたのが、一介の羊飼いで少年ダビデです。

ちなみにこのゴリアテについて説明しますと、身長2.7m、約68.5kgの武具を身につけ、その槍は9kgの穂先があり、柄は機織の糸巻きのようでした。恐ろしく強い兵士で、だれも戦おうとはしなかったといいます。この一騎打ちの挑戦が朝夕二回、40日も続いたとありますから、いかにイスラエル軍の士気が萎えていたか容易に想像出来ます。

その時ダビデがサウルに言った言葉が32節です。ここで、こんなに勇気あることを言った少年ダビデについて見てみます。

彼はユダのベツレヘム出身。エッサイの息子たち8人兄弟の末っ子で、「羊の番」をさせられておりました。この仕事はその家の一番大切でない息子か召使に課せられた卑しい仕事です。ダビデのエッサイ家における待遇が良く分かります。

前回のメッセージで語られていたように「最も軽んじられていた息子」だったのです。上に7人も年上のお兄さんたちがいたら本当に大変だったでしょう。そのような中で、彼は毎日家から離れて一番卑しい仕事である羊たちの世話を、一生懸命に命がけでやっていました。それは獅子や熊と戦うということです。

ケニアのマサイ族はライオンと手製の槍とある時は素手で戦います。その強さの故に彼らは大変誇り高い民族として今も近代文明に染まらず、彼ら独自の文化を保っています。そのことからもライオンや熊と戦うことは大変な勇気と知恵と機敏さが必要であることがわかります。

ダビデはそれをだれも見ていないところで、黙々とやっていたのです。そればかりでなく、一人で羊を見ながら、琴の練習を怠らず、歌にも秀でていました。その琴の上手さの故に王の前に出て、彼を慰めることができたということからもおわかりになると思います。

では、なぜダビデはこのような申し出をサウルに言うことができたのでしょうか。及びがたい難題に大胆に挑戦したダビデの秘密を考えます。

B.ダビデがゴリアテに挑戦できたのは?

1)日々自分の責任を忠実に実行していた積み重ねがあったから

なぜ、ゴリアテと戦うという難題にダビデが挑戦できたか、といいますと、まず、日々自分の責任を忠実に実行していた積み重ねがあったからです。

サウル王はダビデに、

「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若いときからの戦士だったのだから。」

と言って止めます。それに対してダビデは、34節と35節で

「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと

私はその後を追って出て、それを殺し、その口から、羊を救い出します。それが私に襲い掛かる時は、そのひげをつかんで打ち殺してしまいます。」

と答えています。なんという強さでしょう。もし、今彼が生きていたらマサイ族の長にいっぺんになってしまうでしょう。

このことから、大きな試練に直面する時、私たちは普段の生活の積み重ねが大切であることを教えられます。

急に起きてくる何か大きな試練や、困難、問題にたいして、私たちは日々の小さな信仰の営みや、物事に対する真実な態度で処することの積み重ねが大きな力となっていることを発見します。

隠れたところで黙々と訓練されていきますと、思わない試練にあったときには、ダビデがサウルに「宣言」した32節のように、

「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」

と言えるようになっているはずです。過去の経験の積み重ねによる裏づけです。反対に、いつも逃げて、いい加減に対処していると、困難にぶつかる時案外もろく崩れてしまう危険性があるのです。

2)神に対する揺るぎのない信仰  

もうひとつ考えられるのは、神に対する揺るぎのない信仰です。

しかしダビデの確信は、羊飼いとしての体験よりもっと確かなものに拠っていた。それは、強い信仰を土台としていた。

と『ウエスレアン聖書注解』に書いてあります。私も同感です。神の陣営を侮ったゴリアテに対してダビデは

・・・あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」

・・・「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」

と36-37節で言います。

神への揺るぎのない信仰こそがダビデの真髄です。神への燃えるような愛と信頼が彼の言葉を通して伝わってきます。このたった一発の石投げでゴリアテをしとめます。圧倒的な勝利です。それがイスラエル軍の勝利の発端となりました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

とヘブル人への手紙11章6節で言われているように、神への信仰こそが乗り越えられないと思うような試練に勝利する秘訣です。

C.おわりに

長年の経験と強さを誇ったゴリアテは、人間的な努力や誇りの象徴です。

一方ダビデは、戦いの経験もなく、若く、紅顔の美少年と書かれているような、数にも入らない存在でした。

しかし、彼には戦う勇気が神への「信仰」によって与えられていました。

その故に、小さなことを陰で忠実に責任を果たしていたからこその確信があったのです。そこに勝利があります。

私たちも彼に倣うものとさせて頂きたいものです。お祈りいたします。


Message by Hiroko Saoshiro,pastor of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/July 16,2006