礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年7月23日
 
「神の怒りが啓示される」
ローマ書連講(6)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙1章16-25節
 
 
[中心聖句]
 
 18  というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
(ローマ1章18節)

 
はじめに
 
 
昨週は、17節に焦点を当てて、「義人は信仰によって生きる。」という有名な言葉について、ハバククの捉えた信仰、パウロの捉えた信仰義認の大教理、マルチン・ルターがそれを再発見したいきさつについてお話しました。今日は一歩進んで、18節の「神の怒り」についてお話します。
 
A.神の怒りが啓示される(18節)
 
 
18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 
1.バッドニュースがあってグッドニュース
 
 
17節は「神の義が啓示された」と記されていますが、18節は、その「啓示」という思想を引き継いで、「神の怒りが天から啓示されている」と宣言します。神の義が、福音の齎す結果としますと、神の怒りは、福音の前提ということができます。前者をグッドニュース(良い知らせ)としますと、後者はバッドニュース(悪い知らせ)です。良く英語人と会話をしていて、「私はグッドニュースとバッドニュースがあるのだが、どっちを先に聞くか」などと問われます。私はバッドニュースを先に聞いて、それを打ち消すようなグッドニュースを聞くほうを選びます。例えば、「バッドニュースは、車があなたの奥さんにぶつかったことだ」と来ますと、青ざめます。すかさず「グッドニュースはね、その車が子供の乗っている三輪車だったんで、ひっくり返ったのは子供だった。両方とも怪我はなかった。」とこんな感じです。パウロは、福音を提示するときにバッドニュースから始めます。バッドニュースが本当にバッドニュースである故に、グッドニュースがひときわ輝くからなのです。
 
2.神は怒り給う
 
 
人間の怒りとは、自分が傷つけられたことに対する感情的なものが殆どですが、神の怒りとは、正義に基づく怒り、つまり、正しくないことに対応する厳しい審判のことです。3:5には「神の義を明らかにするために下す怒り」という形で表現されています。4:15には「律法が怒りを招く」という言い方で、神の怒りが、憎しみを含む感情的なものではなく、法に基づくもの、神の清いご性質に基づくものであることを示します。その怒りから逃れる道は、「キリストの血によって義と認められること」(5:9)です。その怒りは、「終わりの日」に向かって積み上げられる(2:5)という側面を忘れてはなりません。神の怒りの厳しさを認識するということは、人間の罪深さの前に頭を垂れ、神の前に恐れおののく真摯さを私達に教えるものです。
 
3.怒りは、「不義をもって真理をはばんでいる人々」に関するもの
 
 
「義」という言葉と概念は、昨週お話ししました。「規格にきちんとはまること」という概念から、神に受け入れられる行動や思想や言葉のことを意味します。不義とはその反対の概念です。神に受け入れられない行動や思想や言葉、一言で言えば「罪」です。罪の中核は、己を正しいとし、己の利益だけを求める自己中心です。自己中心というめがねをもって神の与えなさった真理を拒み、自分の考えを貫こうというところに人間の罪の根幹があります。ここでパウロが「不義をもって真理をはばんでいる人々」と言っているのは、パウロが生きていた時代の、ある特別な人々というのではなく、あらゆる時代の、あらゆる地域の人間すべてを指しています。「啓示されている」という言葉が現在進行形であることが、その重い事実をしっかりと示しています。
 
4.怒りは「あらゆる不敬虔と不正に対する」もの
 
 
神は不敬虔と不正に対して怒り給います。人ではなく、悪に対する怒りであることを覚えましょう。さて、不敬虔とは、神を神として畏れ、敬わないこと、不正とは、人間同士が行うあらゆる悪であります。不敬虔については19節―25節に、不正については26−32節に詳しく描写されています。先にバッドニュースとグッドニュースのところでも説明しましたが、神のこの厳しい怒り、清いご性質から来る人間への審判、罪ある近づくことの出来ないほどの厳かなまでの清さが、本当に分かりませんと、神の愛への理解が薄っぺらなものになってしまいます。最近の福音説教で、神がありのままの私を受け入れてくださる、愛してくださるという強調がなされます。それは間違いではありませんが、それだけでは、安っぽい、薄っぺらい福音理解に終わります。この怒りの厳しさを知った上ですと、本当に赦される恵みが評価できるのです。神の怒りは福音の一部なのです。
 
B.神の知識は明らか(19、20節)
 
 
19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。
20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
 
1.一般啓示を通して
 
 
世界中どこを見渡しても、宗教を持たない人々はいません。勿論、私は神など信じない、という「知識人」がいることはいますが、彼らにとっては自分が神であるという違いがあるだけなのです。これは誰かから教えられたのでもなく、人間の本性に宿っている観念です。神学の世界では、これを一般啓示(聖書を通しての特別啓示と区別して)と言います。人間は神の形に造られた、ですから、その本性の中に、神の姿を求める心が宿っているわけです。哲学者のフォイエルバッハは、神の観念は人間の姿の投影である、と言いました。でも、それは逆です。人間が神を作り出したのではなく、神が人間を造られた、しかも、そのお姿のように、だから、人間は癒し難く宗教的なのです。

この神の自己啓示は、自然の観察を通じて、良心を通じて、また人間の歴史を通じで明らかであります。物事を素直に見れば、このすばらしい、秩序と知恵に満ちた世界を造られたお方がある、というのは、当然の結論ではないかと思いますが、いかがでしょうか。パウロが「異邦人」の間で説教したときの言葉を引用します。「(神は)・・・ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」(使徒14:17)これはルステラでの説教の一部です。さらに、アテネにおいては、「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17:26〜28)と語っています。
 
2.示された神のご性質
 
 
パウロはここで神の自己啓示の内容を、「目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性」と言う風に説明します。神学的な言い方にまとめると、神の霊的性質、神の永遠性、神の全能、神の神たる栄光、と言うことが出来ます。
 
C.神を崇めない罪(21〜23節)
 
 
21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
 
1.人間の反逆
 
 
人間の問題は、神知識の不足ではありません。パウロは、「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった」と、人間が意図的に神に反逆した罪を指摘しています。罪は無知から来るのではなく、人間の意志を用いての反逆から来ています。アダムの罪は、神を否定すると言うよりも、自分が神よりも賢くなろうとしたところにありました。神に対して相応しい畏敬と感謝をささげないことが罪の始まりです。私達が当たり前と思ってしまう太陽の光、空気の存在、雨の恵み、これらを造られた創造主に感謝を抱くのは当然のことです。しかし、自分を神とする自己中心は、感謝の心を奪ってしまいます。あるクリスチャンの奥さんが、ことごとに神に感謝しているのを見て、未信者であるご主人が、「神様ばっかりに感謝するな。するなら私に感謝しろ。」と言いました。正に本当の感謝の意味を知らない人の発言です。尤も、この方は、その晩年に主を受け入れ、洗礼を受けましたが・・・。
 
2.偶像への傾斜
 
 
さて、21節は、感謝を知らない心、虚しい思い、無知で暗い心、と三つを並列していますが、実際には、これは事柄の順序を示すものでしょう。愛と感謝をもって神と交わるその関係を断ち切ると、その暗さを補うものとして、人間が勝手に考え出した「神」としての虚しい偶像を生みます。神の光に背を向けますから、心が暗くなります。

偶像とは、ここに記されているように、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えた」ところから始まります。つまり、真の神ではないものを神として、あるいは、神の代替物として崇めることです。ここでは、「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもの」と例示されています。当時行われていた、ギリシャ神話における人間の神格化、ローマ皇帝の神格化、鳥といえば、エジプトの国家宗教の象徴、獣や這うものと言えば、バビロンの蛇崇拝がそれとして知られていました。現代の私達にとって、こうした目に見える偶像はそれほど大きな問題ではありませんが、沢山の偶像がどっこい生きています。偶像など信じない、と言う方もありましょうが、英語に置き換えるとピンと来るのではないでしょうか。つまり、アイドルのことです。今アイドルと言えば、テレビなどで出てくるかわいらしい女の子ですが、あれは一種の偶像なのです。神の替わりに礼拝の対象とし、心のよりどころとしているものは、お金であり、快楽であれ、偶像であります。

他の人、ものを偶像として崇めない、と言う人も居ますが、そんな人の多くは、自分自身を神としてより頼んでいるのではありますまいか。ピリピ3:18、19に、「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」と記されていますが、正に現代人の精神を言い当てているような言葉です。
 
D.罪への審判(24〜25節)
 
 
24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。
 
1.「引き渡す」処置
 
 
この人間の罪に対する神の審判の方法は、22節にある「引き渡す」という動詞です。これは、26節、28節にも繰り返されています。平たい言葉で言えば「そんなに勝手に振舞いたいのなら、やってご覧」と突き放される経験です。これは、鞭打たれるよりも厳しい処置です。むしろ、天から雷が鳴ったり、火と硫黄が降ってきたりするほうが分かりやすいと思いますが、放任されるほうが実はつらいのです。私が小学校の6年生の時に、昼休みに野球をしていたのですが、休み時間が終わっても何となく続けてしまい、受け持ちの女の先生が、私達に向かって帰るようにと女子の生徒を遣わしたのですが、無視して続けました。先生が雷のように叱ってくれるものと思っていましたら、先生も無視なさったのです。互いの意地が突っ張りあって、妙な関係になりました。私達は意地で野球を続けましたが、ちっとも楽しくありませんでした。先生に捨てられたような寂しい気持ちで面白くもない野球を続けたその経験を思い出します。神は、自主独立を叫んで勝手にその道を進んでいく私達人類を、悲しい思いで、早くその過ちに気づいて帰ってくるように待っておられます。神の放任は、どうにでもなれ、という放任ではなく、「勝手な道を行きたいなら、言ってご覧、どこで気がついて戻ってくるか待っているよ。」という大きな御心から出た「放任」なのです。
 
2.引き渡された結果:道徳的腐敗(26〜32節→次回)
 
 
3.挿入的賛美:造り主の栄光に対して
 
 
25b 造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
 
さて、パウロは、突然ここで、神への賛美を行います。人々の審判の故ではなく、造り主の栄光の故の賛美です。人間の側では、造り主を無視したり、軽視したりしている、しかし、そのことによって造り主の栄光と価値が下がってしまうことはない、変わり給わない神は常に賛美と礼拝の対象であり給う、そこにパウロは目を向けて、賛美をささげるのです。
 
終わりに:神の怒りの中に希望を見出そう
 
 
神が怒ってくださる、と言うのは、未だ望みがある証拠です。人間同士でも、本当に見捨てたならば、怒る元気もなくなります。神が怒っておられるのは、私達に対して愛を示し、期待を持ち、何とかしようと方策を講じておられるからです。この神の厳しさとその背後にある愛を信じましょう。頼りましょう。悔い改める点があるならば、きちんと悔い改めましょう。ローマ11:22をご一緒に読んで、終わります。
 
11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
 
お祈りを致します。