礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年7月30日
 
「心を一つにする喜び」
プレヤー・フェロシップ・デーを迎えて
 
竿代 照夫牧師
 
詩篇133篇1-3節
 
 
[中心聖句]
 
 1  見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
    
   【文語訳】見よ、はらから相(あい)睦(むつ)みてともにをるは、いかに善(よく)いかに楽しきかな。
(詩篇133篇1節)

 
A.どんな状況で歌われたものか?
 
1.都上りの歌の一つ
 
 
詩篇120篇から134篇の15の歌は、一連の「都上りの歌」と呼ばれています。イスラエルの民が一年に一度(或いは三度)エルサレムに巡礼をしたときに、旅の途中で、また、旅を終えてエルサレムに着いたときに歌った歌です。今日取り上げました133篇は、神の都として選ばれたエルサレムの光栄と、王として選ばれたダビデへの祝福を歌っている132篇と、神殿における義務を果たすのに熱心で勤勉な人々を描いている134篇との間に挟まれていて、神殿における美しい礼拝の様を描いています。
 
2.題辞について
 
 
私達が基礎としているへブル語聖書の題辞には、「ダビデによる」と記されています。ただ、この題辞は霊感された聖書の一部では必ずしもありませんで、後代の付加と言われています。その例証として、旧約聖書のギリシャ語訳(70人訳)などには、この題辞は記されていません。ですから、次にお話しする、この詩の背景についても、ダビデによると考える学者も、そうでないと考える学者と色々な説があります。
 
3.背景に関する諸説
 
 
1)ダビデ即位の時:もし題辞通りダビデの作とすれば、イスラエルのすべての部族が彼を王として油注ぐために集まったときとも考えられます(第二サムエル 5:1-3)。

2)捕囚から帰還した時:バビロン捕囚から帰還して、エルサレムの神殿において祭司やレビ人が奉仕において再結合した喜びを歌ったものとも考えられます。

3)年ごとの都上り:年毎の都詣でにおいて、兄弟たちに再会する喜び、同族であることを確かめる幸いを歌ったものとも考えられます。

4)大家族的な環境:既婚の兄弟たちが一緒に住むというユダヤ的な家庭環境の幸いを歌ったもの、とも考えられます。

私は、作品が出来た時期は特定できませんが、家庭、社会、国のあらゆるレベルにおける一致が推奨されている、そして、実際的には、「都上り」の時に皆に口ずさまれたものと考えます。
 
B.「共に居る」幸い(1節)
 
1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
 
【文語訳】見よ、はらから相(あい)睦(むつ)みてともにをるは、いかに善(よく)いかに楽しきかな。
 
1.「共に居る」と言う意味
 
 
1)場所を一つに:ここで「共に住む」という言葉が出てきます。この「住む」という言葉の元はシューブ(dwell=sit down)でありまして、文字通りには「座りこむ」と言う意味です。でも、実際の用例としては、「在住する」と言う風に、一定の長さで、住処を定めるという意味で使われるケースが殆どです。ですから、巡礼者に当てはめて考えると、あちこちから集まった者たちが、多分エルサレムに出来た仮の宿泊所、または、友達・親戚の家々に、その期間共に住む、という風に考えられますし、大家族に当てはめると、長い間共に住む、という形で考えられます。いずれにせよ、数時間集まって、「やあやあ」と挨拶を交わす交わり以上の親しさが込められています。序ながら、新共同訳は「見よ、兄弟が共に座っている。」と訳しています。

2)調和的に存在している:「一つになって・・・」とは、物理的に合宿して、という以上の意味合いがあります。心の一致、互いの親しさが込められています。文語訳聖書で「相睦みて」と言っているのは(言葉の文字通りの意味からは、やや飛躍していますが)名訳と思います。
 
2.その幸い
 
 
新改訳では「なんというしあわせ、なんという楽しさ」となっています。英訳ではhow good and how pleasant、新共同訳は「何という恵み、何という喜び。」となっています。しかも、「見よ」という感動的な言葉から始まっています。兄弟関係にあるものたち、同信の友、同族、そして世界の友、どのレベルであれ、一致をもち、平和的に住むことは、良きこと(有益なこと)、楽しきこと(喜びを与えること)です。反対に、家庭の中の不一致、社会における反目、教会における党派心、世界における民族闘争は、すべてのものの父であり給う神の御心をどんなに痛めることでしょうか。また、そこに住んでいる私達の心を引き裂いてしまうものでしょうか。どの時代の、どんな社会でも、平和と一致こそ理想とされるべきものです。

巡礼者たちの状況を考えて見ましょう。彼らが感じる一体感は、礼拝に集う道筋において既に経験され、神の宮での礼拝においてクライマックスに達するのです。彼らが一つの口、一つの心をもって神を讃え、互いに仕えるという形で愛を表すとき、その喜びは倍増します。この喜びがあるからこそ、イスラエルの民は、あらゆる犠牲を払って年毎にはるばるエルサレムまで旅をしてきたのです。これは義務感からは出来ません。
 
C.共に居る幸いの譬え(2,3節)
 
2 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
3 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
 
1.アロンへの油注ぎ
 
 
これは、アロンへの任職の油注ぎをイメージしています。出エジプト30:22-30 にその方式が記されています。拾い読みをして見ます。「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『あなたは、最上の香料を取れ。液体の没薬五百シェケル、かおりの強い肉桂をその半分―250シェケル―、におい菖蒲250シェケル、桂枝を聖所のシェケルで500シェケル、オリーブ油1ヒン。あなたはこれらをもって聖なるそそぎの油を、調合法にしたがって、混ぜ合わせの香油を作る。これが聖なるそそぎの油となる。この油を次のものにそそぐ。会見の天幕、あかしの箱、・・・あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。』」

そして、実際の油注ぎの記事はレビ記8:1-12 にあります。「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『アロンと彼とともにいるその子らを連れ、・・・また全会衆を会見の天幕の入口の所に集めよ。』そこで、モーセは主が命じられたとおりにした。・・・それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。 そして、モーセはアロンに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポデを着けさせた。すなわち、エポデを帯で締め、あや織りのエポデをその上に着けさせた。次に、モーセは彼に胸当てを着けさせ、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖別の記章をつけさせた。・・・ついで、モーセは・・・そそぎの油をアロンの頭にそそぎ、油をそそいでアロンを聖別した。」

何とも厳粛な、しかし喜びに満ちた儀式です。この儀式は、神の恵みと力の象徴である油が祭司アロンに豊かに注がれ、その装束全体もその油で潤った様子を示しています。この詩篇133:2 は、1節の真理の例話として用いられています。つまり、聖霊が、霊的な一致をもって集まっている兄弟たちを祝福するその恵みを示しています。詳しく言いますと、アロンの頭に豊かに注がれた油が、彼の前進に流れ下り、衣のすそまで油に満たされるように、共同体という体のトップに注がれる聖霊の恵みが、共同体の全員にまで及んでいく絵なのです。もし共同体が一致していなければ、トップに注がれた恵みは、途中で止められてしまうことでしょう。教会という共同体が真の一致を見るときに、主の恵みは豊かに注がれます。
 
2.ヘルモンの露の譬え
 
 
霊的な一致のすばらしさを譬える第二の比喩としてヘルモンの露が用いられます。ヘルモン山脈は、シオンの山からは遥か離れた北方にあるのですが、そこに降った露が、回りまわって、ヨルダン川のはるか下流にあるシオンの山々を潤すように、この譬えは神の恵みが広がっていくものであることを示します。双方が共通の雲から齎されることは考えられません。この譬えの主眼は、注がれる神の恵みの新鮮さを示すものではないかと思われます。(創世記 27:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。)山に露が降りると、山すそ全体を潤します。しかし、山がでこぼこだったり、亀裂があれば、その露はすそにまで及びません。同じように、心が一致している共同体は、神の恵みを豊かに受けるのです。地において二人のものが心を合わせるとき、天におられる父はその祈りを聞き給う、という真理を思い出します。
 
3.永遠の命の祝福
 
 
「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

神の民の一致と交わり、そこに神は祝福を注ぎなさいます。しかも、永遠の命による祝福です。
 
D.私達の教会生活に当てはめると
 
1.共に集まるのが教会
 
 
共に集まるという喜びは、兄弟を愛し合うために召されているキリスト者達によって、教会と言う形で引き継がれました。クリスチャンは、それぞれ孤立した存在ではなく、共に集まる教会として存在します。教会(エクレーシア)という言葉の意味は、呼び出され、集まってきたもの、という意味でした。そして、その喜びは、兄弟愛の実践という形で増大していきました。使徒2:44-47 には、「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」と兄弟愛を実践したその喜びが記されています。
 
2.キリストの祈り
 
 
兄弟同士が本当に一つとなることは、主キリストの最後の祈りでありました。ヨハネ17:20-23 を読みましょう。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。・・・またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。」キリストは、その直弟子たちのためだけではなく、後から弟子になるであろう人々(つまり私達)のために祈られました。それは父なる神と子なる神が一体であるのと同じくらい強い絆で私達クリスチャンが結び合うことなのだ、と。この祈りはキリストの最後の、そして最高の祈りであり、今もそのために祈っておられることをおぼえたいと思います。
 
3.一致を保つために努力が必要
 
 
新約聖書の時代の教会について、もう一つ付け加えます。教会の一致とか兄弟愛の実践というものは、何の努力もなく続いたものではなく、色々な分派的な働きによって損なわれ、壊されるという危険を絶えず持っていました。コリント教会やピリピ教会がその実例です。

1)最大限の謙遜と柔和:だからこそ、パウロは「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2,3)と勧めているのです。この反対は自己中心と傲慢と偏狭な心です。これは教会の歴史を見ると、何時の時代でも忍び寄ってくる大敵です。主イエスの心=己を無にして、徹底的に謙られた心を、私達の心とさせていただきましょう。

2)互いに祈り、互いのために祈る:さらにヤコブは互いに祈り、互いのために祈る、特に罪の告白を含めた真実な、心を開いた交わりの大切さを述べています(ヤコブ5:16)。互いに祈るとき、きれいごとでは済まされなくなります。そこに罪の告白が伴い、弱さを認め合う正直さが伴います。私達が「牧会小グループ」を形成しましたのは、この兄弟愛の実践と、祈りあうことによって生まれる霊的な絆の強化を目的としているからです。この形での交わりに加わるかどうかは別として、新約聖書が教えている、真の祈りと交わりを私達のものと致しましょう。
 
終わりに
 
1.PFデーの交わりを楽しもう
 
 
今日は、グループに分かれた祈りと交わりを実践します。可能な方は、ぜひお加わりください。体が参加するだけではなく、本当に心を開いた交わりを形成しようではありませんか。
 
2.「聖なる口吻」・日本版を
 
 
色々なご都合で、午後の集いに出られない方々もあれらると思います。今日実践したいのは、互いの挨拶です。聖書では、くりかえし「聖なる口づけ」(holy kiss)をもって互いに挨拶を交わしなさい、と勧めています。例えばローマ16:16 には「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。」と記されていますし、同じような勧めが第一コリント16:20、第二コリント13:12、第一テサロニケ5:26、第一ペテロ5:14 にあります。口づけでは、恥ずかしくてできない、とおっしゃる方がありましょう。その通りです。日本では、あまりはやらない習慣だからです。でも、日本には日本なりの挨拶の仕方がありますね。お辞儀をして、如何ですか、と安否を問うことは極めて自然です。それを今日帰る前に10人くらいとトライしてみませんか。知っている人は勿論ですが、知らない人が居たら、自己紹介も兼ねてやって見ましょう。恥ずかしくて嫌だという人に強制はしませんが、でも楽しいものですよ。頌栄・祝祷が終わって、このチャペルを出る前に、実行してみましょう。
 
お祈りを致します。