礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年8月6日
 
「モラルが崩壊した世界」
ローマ書連講(7)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙1章24-32節
 
 
[中心聖句]
 
 24  それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
(ローマ1章24節)

 
はじめに
 
 
1.先日、ニュースの中で、高速道路のETCゲートを(お金を払わないで)強行突破する車の数が、一年で94万件という驚くべき数字になっていることが報じられ、その時に「モラルが崩壊しつつある」という批評が加えられていました。正に、今日の時代、子供を橋の上から投げ捨てて殺したり、家に火を付けて親を殺したり、その他、信じられないような犯罪が次々と報道されています。一言で言えば、「モラルの崩壊」です。この現象とその理由を、2千年も前からピタッと言い当てているのが聖書です。驚くべきことです。

2.その理由とは、神を認めず、敬わない人間を放任なさった結果である、とローマ書は言っているのです。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され・・・ました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」(24、25節)。前回は、1:18(「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」)から、「神の怒り」について、特に、神を神として畏れ、敬わない不敬虔に対する怒りについてお話ししました。今日は、不正に対する怒りについて、24〜32節からお話しします。
 
A.「汚れ」に引き渡される(24〜27節)
 
1.神を畏れない人間:存在の源である神を無視する罪の深さ
 
 
24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。
26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
 
24節と26節に「引き渡す」という言葉が出てきます。24節の「汚れに引き渡す」というその理由は、21〜23節および25節前半に記されています。26節の「恥ずべき情欲に引き渡す」という理由は25節に記されています。「引き渡す」と言う言葉がサンドイッチのようになっていて、理由が二度繰り返されているのですが、その理由を要約しますと、神に対して相応しい尊敬と感謝をあらわさないこと、偶像礼拝に走ったことです。

私達は、「神を信じるとか信じないとかは、極めて個人的なことで、どちらかと言えば個人の趣味に属する」位の位置づけしかされていないような社会に住んでいます。しかし、これは個人の趣味に属するような、どうでもよい問題ではありません。私達の存在の源、私達の幸福と生きがいの源である神をどう捉えるかと言う生命的な課題なのです。生命の大切な要素である水から離れたら、生命がすぐ死を向かえるように、神を離れた人、その人の住む世界には、腐敗と死が訪れます。
 
2.汚れた情欲(倒錯した性関係)が結果する
 
 
夏の暑い時期に、停電などがありますと、冷蔵庫のものがみんな腐ってしまいます。電気の働きで食料品を低い温度に保ち、腐敗を防いでいるからです。電源が切れると、とたんにばい菌が活躍して、食べ物が腐ってしまいます。丁度それと同じように、私達人間が、尊厳を保ち、清く、まっすぐに生きられるのは、私達を造り、愛し、導いておられる神と繋がっているときだけなのです。その関係が切れてしまうと、道徳的な腐敗が始まります。

24節の「汚れ」とは、「その心の欲望のままに」動くこと、その表れは「互いにそのからだをはずかしめる」ことです。昔ポルノと呼ばれていた「恥ずかしい」映像・絵画・小説が、今は堂々とお茶の間に入ってきています。フリーセックスは、最も自然のままの振る舞いとして賞賛されています。先日、ジャパン・クリスチャンエイティブ・ミッションの製作した啓蒙ビデオを見ました。アメリカの女医さんが深刻な課題として報告していましたが、今若い人々の4分の1余りは性感染症にかかっているということです。エイズにかかっている若者の数はどんどん増えています。「互いにその体を辱める」ことが当たり前のように行われています。

誤解をしないで頂きたいのですが、聖書は男女の交わりそのものを「隠すべきもの」「いやらしいもの」と言っているのではありません。その反対です。神は人を男と女を造り、それらを美しいものと評されました。結婚という形で、麗しい男女の精神的・肉体的な結びつきを神は祝福なさいます。しかし、神を離れ、神を計算に入れない人生を送りますと、セックスに対する考えが驚くようにひっくり返ってきます。麗しい人格的な交わりの表れとしてのセックスは、互いの尊敬と愛とによって祝福されたものとなります。しかし、自己中心のセックスは、自己の欲求の満足、相手に対する辱めに終わってしまいます。神の宮である体が、きよくない動物的な欲望の道具として辱められてしまいます。これが悲しい現状です。

パウロの時代は、21世紀の今日と負けず劣らずの道徳的腐敗の満ち満ちた時代でした。ローマの諺に「男は着物を取り替える位の気軽さで女を替える」というものがあります。ローマ帝国は、他の原因もさることながら、その道徳的腐敗によって滅びた、と言われています。ですから、24節の「心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」とは、パウロの時代の、ギリシャ・ローマ世界の徹底した腐敗振りを描いているのです。神は見ていないのだから、私達は何をしても構わない、という考え方になってしまうのです。主人であるポテパルの妻から執拗に誘惑されたヨセフが、それに対してはっきりとノーが言えたのは、「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(創世記 39:9)という観念を持っていたからです。神は正しいお方、私達を見ているお方、私達の行動を裁きなさるお方、という信仰をもっていたからです。恐ろしいほどまでに性的な不道徳が広がっている21世紀の今日、その不道徳を正すのは、真の神に立ち返ること以外には不可能です。
 
3.同性間の不自然な関係(ソドミー)に進む
 
 
さて、異性の間の不道徳は、それだけで止まらず、同性間の異常な関係へと進みます。肉体の喜びだけを求めるセックスというものは、ある程度進むと、もっと強い刺激を求めて、同性同士のセックスに進むのです。同性愛のことを英語ではソドミーと呼びます。これは、その余りにも不道徳・退廃的行動の故に、神は天から硫黄と火をもって裁きを下されたあのソドムとゴモラで行われていた恐るべき習慣だったところから名づけられたものです。(創世記19:5)。

今や、男性同士、女性同士の性的な関係、そしてそれを制度化する「結婚関係」は、悲しむべきことに、自由の象徴、当然の人権とまで叫ばれています。ある教会では、同性愛者にも教職の資格を与えるべきであるという議論まで起きています。これに反対する人々は、頑なで、保守的で、律法主義であるとまでレッテルを貼られています。私達は聖書に基づいて、これは神の創造の目的と方向と全く異なるもの、人間としての本当の幸福に逆行するものと、声を大にして言わねばなりません。

「こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けている」とは、当時その結果として起きていたさまざまな病を指すようですが、現代でも、異性間の感染症に勝って同性間の性交渉の結果としての感染症は深刻です。

念のために申し上げますが、エイズ始めこうした感染症の人々を、神の裁きを受けたとして、私達までもがレッテルを貼ったり、差別することは厳に戒めなければなりません。明らかに自分の不道徳の結果として感染症にかかった人々が、他の罪と同様に、真実な悔い改めをもって、主の赦しと憐れみを乞う態度を持つことは必要です。そうではなくて、輸血その他の理由で誤ってエイズにかかった人もあるでしょう。どちらのケースにせよ、周りのものは、裁きの心ではなく、寛容の心を持って受け入れ、これらの人々の回復を助けるべきであります。
 
B.「良くない思い」に引き渡される(28〜32節)
 
 
28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
32 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
 
1.引き渡される理由:神を知ろうとしない態度
 
 
「よくない思い」に引き渡される理由は、「汚れ」に引き渡される理由と似ています。28節に、「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので」というのがその理由です。人の倫理の基準である神を知ろうとしない態度は、無責任な行動を生みます。神はご自分を明らかな形で啓示しておられます。人間は、その支配を嫌って,敢えてその知識すら拒んだのです。神は、「そうか、それならば残念だが、自分でやってごらん」と突き放されました。これは、積極的に罪に追いやったのではなく、神なき人生の暗さ、苦しさを本当に自覚させるための放任でありました。
 
2.21のブラックリスト:「よくない思い」(「承認されない思い」)
 
 
そのリストは21に及びます。これを一々説明する必要はありません。ただ、私達自身に対するチェックリストとして一つ一つ立ち止まって考えましょう。そうだ私にはこの弱さがある、というものに○を、ものすごく当てはまるものに◎を付けて読んでみましょう。その内、どれが一番私にグサッと当てはまるものはどれでしょう。それに☆を付けてみましょう。

[01] 不義(ポルネイア=ポルノの元となった言葉):結婚外のすべての性交渉
[02] 悪:他の人々、特に自分より豊かな人への害意
[03] むさぼり:もっと物を持ちたいという現状不満足の心
[04] 悪意に満ちた者:ねじまがった心、特に復讐心
[05] ねたみ:他人の優れた能力や富や地位に対する羨み
[06] 殺意:妬みが高じて、どんなことをしてでも人の命を奪うぞという殺意
[07] 争い:不協和音を齎す議論、真理を求める討論ではなく、言葉尻を捉えて行う「議論のための議論」
[08] 欺き:偽りという餌をもって他人を陥れる行動
[09] 悪だくみとで一杯になった者:腐敗した感情から来る悪しき習慣とマナー
[10] 陰口を言う者:真実であれ偽りであれ、隣人への非難をこめたひそひそ話
[11] そしる者:当事者が居ない場所で行う誹謗中傷
[12] 神を憎む者:神の摂理や愛を侮るもの
[13] 人を人と思わぬ者:自分の支配下にある人々を蔑む行為、言葉、態度
[14] 高ぶる者:自分の学びや知識を高いものと考え、他を馬鹿にする態度
[15] 大言壮語する者:実体のない自分の知恵や知識を誇り、吹聴すること
[16] 悪事をたくらむ者:破壊的な習慣を発明すること
[17] 親に逆らう者:説明不要
[18] わきまえのない者: 霊的な事柄を理解しない、しようとしない心
[19] 約束を破る者:神が証人であり給うことを忘れて、約束を平気で破る行為
[20] 情け知らずの者:親子や友人間の自然の愛情をあえて無視する行動と態度
[21] 慈愛のない者:助けるべき相手を無視する冷たい心

これは、パウロがただ言葉を羅列したのではなく、彼が生まれ育ったタルソの町で現実に行われていた悪行の描写と思われます。私達の時代と殆ど変わらないことが、悲しい現実です。
 
3.不正の結果:死罪に当たる
 
 
次に、32節「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」という言葉の重みを考えましょう。21のリストのどれに○◎☆を付けたかは分かりませんが、そのうちの一つでも当てはまるならば、それは「死罪に当たる」のです。(どれも合格だったという人には「おめでとうございます」と申し上げます。でも、もしかしたら、その人は、偽善という最大の罪を犯しているかもしれません。)

さらに、悪いことは、自分が犯している罪を肯定するために、他人の罪も肯定して、みんなで赤信号を渡ろうとする思いです。これはいけません。
 
終わりに
 
1.私達の罪深さを本当に自覚しよう
 
 
神は、意地悪で私達にこのチェックリストを下さったのでしょうか。そうではありません。神なしで生きていく人生がどんなに恐ろしく、罪深く、苦しいものかを自覚させるために、このリストを備えなさったと思います。そのリストを通して、本当に、わが身の罪深さを自覚しましょう。
 
2.十字架を仰ごう
 
 
どうにもならない、罪深い者の罪を一身に背負って、救いと聖潔を完成してくださったのが、十字架の主イエスです。その血潮を仰ぎ、すべての罪が赦され、きよめられたと言う信仰に立ちましょう。その血潮を仰ぎ続けながら一週間を過ごしましょう。 
 
お祈りを致します。