礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年8月13日
 
「神の裁きの原則」
ローマ書連講(8)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙2章1-16節
 
 
[中心聖句]
 
 3  あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
(ローマ2章3節)

 
はじめに
 
 
1.前回は、異邦人の間で行われている、ものすごい不道徳と、あからさまな罪のリストを扱いました。「モラルの崩壊」というタイトルを付けましたが、正にこれは、パウロが生きていた1世紀のギリシャ・ローマの世界でありました。そして、21世紀の現代を見てみますと、それよりもひとつも良くなっていないばかりか、もっとひどくなっている状況であることに、愕然とさせられます。

2.さて、第2章に入るとパウロは、神の律法によって教えられ、訓練されているはずのユダヤ人が、実は、異邦人に勝るとも劣らないような大きな罪を犯し、裁きを受けるべき存在なのだと、示します。今日の言葉に置き換えると、どうみても罪人というタイプの罪人も問題ではあるが、真面目が背広を着て歩いているような人も、どっこい問題なのだと言うことなのです。
 
A.裁くものへの裁き(1〜5節)
 
 
1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
2 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
3 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
 
1.焦点はユダヤ人
 
 
「すべて他人をさばく人よ。」というところから第2章が始まります。この章の真ん中あたりを見ますと、これは、まじめ人間を自称しているユダヤ人(特にパリサイ人)を指すものであることが分かります。17節以下には、ユダヤ人が、その特権に甘んじて、傲慢と偽善の罪に陥っていることが弾劾されています。ともかく、はっきり言って、あからさまな罪人とまじめ人間を比べると、まじめ人間の方が救われにくい存在です。主イエスの救いを一番最初に受け入れたのは、罪人といわれていた取税人であり、遊女たちでありました。放蕩息子の話でも、弟のほうは単純にお詫びして救われましたが、兄息子のほうは、自分がまじめ人間であるという自負が引っかかっていて、その分、父の愛を捕らえることが出来ませんでした。
 
2.他人を裁く罪
 
 
この文節に、ユダヤ人の罪がいくつか記されています。

1)詮索好き:「すべて他人をさばく人よ。」とパウロは、詮索好きのまじめ人間は、自分が正しい、自分が標準だという自負がありますから、とかく他人の欠点をあげつらい、批評し、断罪します。人間、内側に目がついている人はいませんから、他人は良く見えるのに自分は見えません。主イエスも、「他人の目の中のゴミは良く見えるのに、自分の目の中の材木は一向に見えない。」とパリサイ人を酷評しています。これは、パリサイ人に限らず、万人共通の弱みです。

2)悪事をこっそり行う:他人を批評するだけならまだしも、批評しながら、自分たちも同じ行いをしている、これは良くありません。21〜23節は、正にその真理を表します。読んでみましょう。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」実は、批評する人とは、本当の意味で、その批評の対象である悪事に惹かれている場合が多いのです。あるCSキャンプで、不品行について、子供たちに繰り返し警告した教師がおりました。その繰り返しが余りにも異常であったので、気になっていましたが、案の定、その教師は実は不品行に陥ってしまったのです。

3)自己義:先回、1章の後半で、人間の悪について21のブラックリストを見ましたが、それに、もう一つ、そしてこれは殆ど誰も言い逃れできない罪のリストを加えねばなりません。それは「自己義」です。他の人はみんな間違っていて、自分だけ正しいと言う間違った確信です。これが、人間社会でぎすぎすした関係を生み、また、神の前で謙ることを妨げている一番大きな問題です。運動会での入場行進を見ていたジョニーのお母さんが叫びました。「まあ、うちのジョニーだけが、ちゃんと行進しているわ。」と。このおかしさが分かりますか。でも、私達はいかに多くの場合、このおかしいことを繰り返しているでしょうか。ある方のローマ書講解に、三人のお坊さんが無言の行をした小話が載っていました。小坊主が「あれ、和尚さんの頭にハエがとまっている。」といいました。中坊主が、「これ、今は無言の行の最中だ。」と注意しました。和尚さんが、「そうだ、黙っているのは私だけじゃ。」と言いました。これもジョニーの母さんと似ています。私達は、自分が正しいと確信すれば持てば持つほど、間違うのです。その眼鏡をもって自分を見、他人を見るから間違うのです。信仰とは、自分が間違っているかもしれない、いや、自分の存在は、神から見れば大きくずれているのだ、という謙虚な自覚から始まります。そして、その謙虚さをいつまでも持ち続けたいものです。
 
3.神の裁きの厳しさ
 
 
1)批評家は例外でない:神の裁きは、他人を批評しながら、その同じ罪を行っているものに対して、下される、ということが宣言されています。これは、だれかれではなく、私に当てられた言葉でもありました。16歳のころ、ある集会に出ていたとき、この言葉が突然私の心に鳴り響いて来ました。それ以後、説教者の言葉は耳に入らず、この言葉と格闘している自分を発見しました。他の人は適当にごまかせても、神の裁きは決して逃れることは出来ない、とこの言葉の前に打ち砕かれたのです。私にとって、「救いの言葉」でした。実は、他人を批評して自分も同じ悪を行っている罪人に限らず、誰でもが裁きを受ける、批評するものは例外ではない、という意味で記されているわけです。

2)神の慈愛と忍耐:その神が、今雷のような裁きをなさらないのは、不義を許容なさるからではなく、その豊かな慈愛と忍耐の故なのです。神の豊かな慈愛と忍耐は、十字架の救いとなって現れました。私達が、自分の義と言う小さな殻に閉じこもらないで、神の豊かな慈愛に身を委ねるとき、救われるのです。

3)神の忍耐を軽んじる罪の重さ:しかし、そこまで現された神の慈愛と忍耐を軽んじることは、より大きな裁きを受ける結果となります。「神の怒りを積み上げる」とは、神の慈愛と忍耐を頂いているのに、そのありがたさを理解しないで、罪を積み重ねることを意味しています。積み上げるとは、英訳ではtreasureなのですが、会計的な用語で、負債が発生するその時点では記録するだけで、最終的なつけは後からやってくるわけです。私達が今目に見える裁きを受けていないということを、神の不作為の証拠と取ってはなりません。ヨナは、神の裁きを逃れうると思って、舟に乗って遠い国に逃れようとしました。彼は逃れられましたか。いや、神は嵐を送って彼を引き戻されました。神の裁きの厳粛さの前に、頭を垂れましょう。
 
B.神の裁きの原則(6〜11節)
 
 
6 神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
7 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
8 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
9 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、
10 栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。
11 神にはえこひいきなどはないからです。
 
1.個別的:神は個人々々をご覧になる
 
 
神は人を十把一からげには扱いなさいません。私達一人ひとりの個人的な記録簿が備えられています。記録簿というと古めかしいですね。今様にいえばデータベースというべきでしょうか。私達の個人記録が小さなチップスにこめられる時代です。そのコンピュータを作った人間を造られた神が、これ以上の正確さ、精密さを持って私達の個人記録を持ち、継続しておられることは想像に難くありません。私達一人ひとりです。親も一緒では在りません。夫婦でさえも別ファイルです。きちんと個人が見つめられているということの厳粛さを覚えたいと思います。
 
2.事実的:全行為を仔細に吟味し、報いなさる
 
 
「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される」のです。私達の忍耐、善行、求道はしっかりと覚えられています。反対に、党派心、不義もしっかり見守られ、覚えられています。これらの裁きは、何時なされるのでしょうか。部分的には、この世においてもなされます。しかし究極的には、聖書が「最後の審判」として預言しているものが、その機会です。キリスト再臨の後に、すべての反逆的要素が平定され、その後に、地上に生きた人間のすべてが御前に集められ、その行いにしたがって裁かれるのがそれです。黙示録20:11〜13を拾い読みしましょう。「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。・・・また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」実に厳粛な瞬間です。聖書を知っているものは、この最後の審判を絶えず意識しながら、この世を生きたいものと思います。
 
3.公平:立場や背景などについて、えこひいきはなさらない
 
 
神の裁きの基準は、個人個人が何を行ったかという個人責任であり、その人がどんな人種であるか、どういう社会的・宗教的な特権を持っているかいないか、は全く考慮されない、とパウロが言明します。これは、大きな励ましであり、警告でもあります。私達に当てはめると、どの教会のメンバーであるとか、信仰生活が長いとか短いとか、クリスチャンの家庭に生まれたとか生まれなかったとか、そういった背景的なものは一切考慮されない、と言うことなのです。これは全くすっきりしています。
 
C.書かれた律法と、心に書かれた律法と(12〜16節)
 
 
12 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。
14 --律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 --
16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。
 
1.律法を知っているものへの審判
 
 
ゴルフの世界でも、ハンディというものがうまい人、下手な人によって差をつけるように、自分に与えられた知識と光に応じて差がつけられるのは、神の公平さを示すものです。律法を知っているもの、つまり、ユダヤ人は、神のおきてを知っているという基準で裁きがなされます。具体的に言うと、隣人を愛しなさい、という律法を知っているものは、その基準からそれを行っているかどうかが裁かれます。
 
2.律法を知らないものへの審判
 
 
反対に、神の律法と言う書かれた基準を持っていないもの、つまり、異邦人は、彼らの良心に刻まれた律法によって裁かれます。それは、聖書のようなはっきりとした教えではないけれども、不文律として、誰の良心にも与えられている規準です。例えば、両親を敬いなさい、殺してはいけないというようなおきては、聖書を持たない民族でもみんな持っています。その良心にそむく行いは、その良心の光に従って裁かれます。
 
3.隠れたことが裁かれる
 
 
パウロがここで、神の裁きの基準として付け加えている要素に、「隠れたこと」をさばきなさる、と言うものを付け加えていることが興味を引きます。今までは、行いと言う、外側に見える行動が見られ、覚えられ、裁かれると言っていました。この文節の最後に、隠れたところを見て、裁きなさる、という要素を加えたことで、この「神の裁き」の深さが増してきます。私達の動機や思いをすべて探り、記憶に留め、そして裁きなさる神を思うとき、私達は厳粛な思いにさせられます。外側では紳士的に振る舞い、丁寧な言葉で接しながらも、「あいつなんか死んでしまえばいい!」などと心で思っているとしたら、それも全部神は心に留めなさる方です。そして、兄弟を憎むものは、人殺しです(第一ヨハネ3:15)とその価値判断をなさるのが神です。情欲を抱いて女を見るものは、既に姦淫の罪を犯したことだ、とおっしゃるのが主イエスです(マタイ5:28)。

「覆われたもので現わされないものはなく、隠されているもの知られないものはない」(マタイ10:26)です。これは、誰にも知られていない。私さえ口をつぐめば、誰にも分かりはしない、と私達なナイーブにも思ってしまいます。どっこいそうはいきません。モナという女の子が、お姉ちゃんの持っていたぬいぐるみの人形が羨ましくて、そっと自分のものにしてしまいました。そして、地面に穴を掘って、それを隠してしまいました。お姉ちゃんは必死に探しますが、出てきません。モナも、知らないと言い切ります。しかし、大雨が降った数日後、庭の片隅から、あおい芽が出てきました。その芽は人形の形をしていました。モナが隠したことは、ばれてしまったのです。神は、最後の審判のとき、すべてのことを明らかになさいます。

同時に、私達の隠れた良き営みも見ておられ、報いてくださるのが神です。同じ山上の垂訓の中で、「隠れたところで見たまう神」という言葉が、善行に関して、また、祈りに関して語られています(マタイ6:4,6)。
 
終わりに:すべてを見、すべてを裁かれる神を畏れよう
 
 
誰が見ていてもいなくても、誰が心の動機を知っていてもいなくても、すべてをお見通しな神を畏れて生きていきましょう。
 
お祈りを致します。