プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年8月13日

試練を乗り越える<特別編>
「試練の意味、そこからの脱出」

竿代 照夫牧師

コリント人への手紙第一 10章13節

中心聖句

1Corinthian 10:13 

あなたがたのあった試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

(コリント人への手紙第一 10章13節)


A.はじめに

「試練を乗り越える」という共通テーマでダビデの生涯を学んでいますが、今日は夏季特別編として、有名なコリント人への手紙第一10章13節を取り上げます。

この聖句は、多くのクリスチャンに愛唱句として親しまれています。ただ、前後関係と切り離して、「どんな逆境の中でも主は助けて下さる。」という自分への励ましとしてだけ捉えている人が多いのを発見します。こういう取り方は悪いことではありませんが、文脈をしっかり捉えれば尚恵まれるように思います。

B.試練とは?

1.試練とはテストのこと

さて、ここで使われている言葉は「試す」という意味のギリシャ語「ペイラゾー」から来た言葉であり、その対象となる人間の実質を試す、という意味です。私達の言葉では「テスト」が一番近いニュアンスの言葉でしょう。

2.神から出たテスト

また、この試練という思想は、10章9節の「神を試みてはならない」という思想を引き継いでいます。私達人間が神を試みてはなりませんが、神は私達を試みなさることはありえます。そして、それには意味があり、目的があり、終わりがあります。

3.心を鍛えるテスト

このテストは、私達の道徳的な実質を試すテストを第一義的に意味していることは、その前後関係からも明らかです。1-12節までは、神の与えられたテストに合格しなかったイスラエル人を通しての警戒があります。13節は、それとくらべて、コリントのクリスチャンがテストに合格するようにという励ましです。更に14節に偶像礼拝を避けなさい、という道徳的命令で話しが続きます。ですから、10節の「試練」は、「道徳的な意味でのテスト」というふうに理解するほうが自然です。

C.テストの出所と目的

1.神の御許しによるテスト

テストは、主のみ許しから来ます。「神は私達をテストに遭わせる」という表現が、テストにおける神の主体性を物語っています。

アブラハムのケースを思い出してください。創世記22章1節で、神は積極的にアブラハムを「試して」、その愛する独り子イサクを捧げなさいと命じられました。

ヨブの場合もそうです。ヨブ記(1章12節、2章6節)で、サタンの訴えに対して、神はサタンにヨブをテストする許可を与えられました。その結果としてヨブには、経済的・家庭的・肉体的な苦難が与えられました。それは主のみ許しの下に起きたテストだったのです。

2.誘惑ではない

ここで、忘れてならないことは、ヤコブの手紙(1章13節)にあるように、神が人間を罪に導くような誘惑はなさらないということです。

しかし、罪に結果するような状況は許しなさることもあります。たとえば、ヨブの場合、そのテストは、ヨブをして、神を呪うような結果を生んだかもしれないからです。

3.テストの目的

テストの目的は何でしょうか。それらは、ヘブル人への手紙12章10節にありますように、

・・・私たちの益のため、私たちををご自分の聖さ(きよさ)にあずからせようとして、・・・

与えられるものです。さらにヤコブの手紙1章2-3節には、

私の兄弟たち、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

とあります。テストを通して、神のご性質に与るものとなるという結果が約束されているからです。

D.テストの限界

神はテストを許しなさいますが、そこには境界線が引かれていることをこの13節は示唆しています。

1.内容における限界

数学のテストで英語の問題が出ることはありません。私達が受けるテストは、人間として当り前の内容のテストです。

1-12節までで、テストに失敗した人の例が記されていますが、それは問題が難しかったからではありません。彼等が不信仰だったからです。信仰を貫いたヨシュアもカレブも合格しました。アブラハムもヨブも合格しました。私のテストは特別難しいとつぶやいてはいけません。

私達は、いかに自己憐憫に陥って、自分だけが世界中で一番苦しんでいるなどと考えやすいものでしょうか。世界人類が大なり小なり経験しているものであれば、全能の神を持っている私達に超え難いものがありましょうか。

2.程度における限界

主は私達の力を知り、その限度を計ってテストを与え(許し)なさいます。

小学校の算数のテストに代数や幾何の問題は出ません。主は(恵みによって)すべての人が合格出来るようなテストを与えて下さいます。人生における試練も同様です。

こんな見方は試練の真最中にある人には失礼かも知れませんが、大きな試練にぶつかったら、

「主よ、感謝します。あなたは私の力を大きく見積もってくださいました。」

と言えないでしょうか。罪への誘惑を感じるときも、自分の力というよりも、主の贖いに依る力を信じたいものです。

3.長さにおける限界

テストは際限無く続くものではありません。必ず終りの時が来ます。脱出の道が始めから備えられています。神が、ある目的をもって試練を許しなさり、その目的が終った時、試練は終るのです。

ヨブの試練には終りの時があり、彼の多くの友達は、ヨブ記42章11節にあるように、

・・・彼をいたわり、主が彼の上にもたらしたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。

のです。

E.マーガレット・パワーズの体験

『あしあと』いう有名な詩があります。この詩が知られるようになって、どんなに多くの人々が励まされ、慰められたことでしょう。しかし、詩が知られるようになった始めの頃、誰がこの詩を書いたのか、誰も知りませんでした。

この詩を書いたマーガレット・パワーズは、学校の教師でした。ある日、ポールという伝道師と湖の岸辺を歩いているときに、ポールからプロポーズされました。

ポールは、父親から虐待を受け、母は父の不注意で凍死してしまう、という厳しい環境で育ちました。ギャングの一員となったポールは12歳のとき、盗みに入った先で婦人を射殺、少年院を転々としました。そこで貰った聖書も破り捨てたほどでした。しかし、出所後、クリスチャン老夫婦の家に下宿したことがきっかけとなって、信仰を持ちました。

さて、プロポーズされたマーガレットは砂浜を折り返して帰るときに、二人の足跡が半分消されていて一人分しか残っていない部分を発見して、神の祝福が消されたのかと不安に思います。その時ポールは、

「二人で処理できないような困難がやってきたら、その、時こそ神が私達を背負ってくださる時だ。」

と励ましました。その思想がもとになって、あの有名な詩が出来たのです。

F.おわりに

どんな厳しいテストを受けている時も、その中でしか経験できない神の恵みの深さ、神の導きの確かさ、神のみ業のくすしさ、神の力の偉大さを知るものとなりたいものです。ヤコブの手紙1章12節には、

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

と記されています。お祈りいたします。


Message by Isaac.T.Saoshiro,senior pastor of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/August 13,2006