礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年8月20日
 
「心の割礼こそ」
ローマ書連講(9)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙2章17-29節
 
 
[中心聖句]
 
 29  人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
(ローマ2章29節)

 
はじめに
 
 
1.前回は、真面目人間の代表のような顔をしているユダヤ人が、実は、異邦人に勝るとも劣らないような大きな罪を犯し、裁きを受けるべき存在なのだと、学びました。神の裁きの原則は、公平、峻厳、正確であります。特に、隠れたことをご覧になり、記憶され、裁きなさるというメッセージをもって、終わりました。

2.今日はその続きで、偽善的な行動に走るユダヤ人に対する厳しい糾弾から始まります。
 
A.ユダヤ人の誇り(17〜20節)
 
 
17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
19-20 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、
 
17〜20までの文節は、もし、という仮定から始まっていますが、この内容から見て、単なる仮定ではなく、実際の姿と思われます。ユダヤ人の共通的特色を、自分もユダヤ人であるパウロは、以下の四つにまとめています。
 
1.選民意識
 
 
自分たちは、選ばれた民であるという特権意識は、ユダヤ人にとって特別なものです。実際に彼らは、神の特別な目的をもって選ばれたことは確かです。そのことの故に、はっきりとした使命意識を持つことも大切でありましょう。しかし、それが特権意識となっては、「鼻持ち」なりません。申命記の中に、彼らが選ばれた理由が書かれています。「あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」(申命記 7:6,7)

神の選びと言うのは、彼らをへりくだりに導く思想であるはずなのに、いつの間にか、傲慢に導いてしまったのです。

これはクリスチャン一般にも当てはまる思想です。私達が主を選んだのではなく、主が私達を選んでくださったという事実は、私達をへりくだりに導く筈であるのに、それが特権意識になっては、本末転倒です。私達がインマヌエルの群れに導かれたのも同じ事です。それは、摂理と恵みによるのであって、何の特権をも意味していません。
 
2.律法を持っていること
 
 
ユダヤ人は、出エジプトの後に、シナイ山で十戒を基本とする様々な決まりを「律法」と言う形で与えられました。これは、神の御心が、動かない書物という形で与えられたという意味で、画期的な出来事です。もし、書かれた律法がなかったとすれば、何が神の御心か、主観によっていろいろばらつきが出てしまったと思います。しかも、彼らは、その律法を家庭や会堂における教育を通してしっかりと教えられていました。

ただ問題であったのは、律法を持っているということに安住して、それを忠実に実行しようとせず、知識だけを振り回してしまったことでした。
 
3.誠の神を知っていること
 
 
偶像教が満ち満ちていた中東の世界、また、ギリシャ・ローマの世界において、目に見えない、唯一誠の神を畏れ、その信仰を継承してきたことは、正に偉大なことです。それも、ユダヤ人が優秀だったからではなく、神ご自身の啓示によります。しかし、その啓示をしっかり継承したことはすばらしいことです。申命記6:4〜9を引用します。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」ユダヤ人の教育力は恐ろしいものです。このシェマーという信仰告白を文字通りの方法で教え込みました。「家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱え、これをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置き、家の門柱と門に書きしるし」たのです。今日の状況に当てはめると、玄関にも、居間にも、寝室にも、果てはトイレにまで、み言葉を貼り巡らしているようなものです。

この誠の神知識は尊いものでありましたが、それを「誇る」ところが問題です。人間は、私達を謙らせる要因である神信仰でさえも、誇りの材料としてしまう、厄介な存在です。「信じている神」が大切なのに、「神を信じている自分」をもっと大切に考えてしまう傾向があります。形は上品でも、自己中心であることには変わりありません。
 
4.教師であること
 
 
ユダヤ人のもう一つ大切な側面は、自分たちだけで固まらないで、積極的に唯一誠の神への信仰と律法の内容を他の国々の民に教えようとしたことです。特に、ユダヤ人が、捕囚をきっかけに世界にディアスポラとして散らされていったとき、行く先々で建てた会堂を、同胞の集会場所としただけではなく、異邦人を招いて、誠の神への信仰に招きました。その信仰に惹かれた人々は、求道者的な立場の人は「神を畏れるもの」と呼ばれ、もっと進んでユダヤ教に改宗しようという人々を割礼を通して「改宗者」として受け入れました。

問題は、教えるものの常として、教師然とした態度をもってしまうことです。これは後に触れます。
 
B.教えと実践との乖離(21〜24節)
 
 
21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。
24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。
 
1.言行の不一致
 
 
17〜20節までに語られたことは、本当にすばらしいことばかりです。でも、特権の中に罠があることは東西の真理です。彼らはその特権に安んじ、特権を恵みと感じないでそれを誇ったために、「悪人」より一層悪い大きな罪に陥りました。それは自己中心と偽善と言う罪です。特権を与えなさった神の恵みに焦点を合わさずに、特権を受けている自分に焦点を合わせてしまったのです。こうなると、善人であることが、自己中心を助長してしまうと言う問題が発生します。この部分を注解した方が、「善いことの中にこそ、悪魔は最大の毒を注ごうとする」と言いました。本当にその通りです。

もう一つは偽善です。建前として、善人を演じるものですから、より巧妙に、隠れた罪を行い、それによって自分を騙し、人を騙してしまいます。21〜24節までは、ユダヤ人の言行不一致が4つ記されています。他人を教えることが、自分を教えることへの妨げとなっている姿です。@盗み(十分の一献金の軽視も含まれるでしょう)、A姦淫(おおっぴらな姦淫は少なかったかもしれませんが、隠れた行為、特に心の中の姦淫は大いにありえたでしょう)、B神とその宮の軽視(神の栄光を奪い去る言動)がその例として挙げられていますが、これは特定の悪行を描写したと言うよりも、一般的な傾向として、こういうことが行われやすいという状況を示したものと思われます。
 
2.言行不一致の結果
 
 
ユダヤ人の言行不一致の結果として、神の名が異邦人の間で汚されています。この言葉は、エゼキエル36:20の引用です。「彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。」イスラエルがその不道徳と偶像礼拝のために滅ぼされ、バビロンに捕囚となったことによって、その名をもって呼ばれていた神のお名前が汚されたのです。今日的な表現をすれば、クリスチャンの不行跡が新聞に出たとしたら、教会全体の恥辱であり、引いては主の聖名が汚されてしまいます。

主イエスは、パリサイ人に対して、厳しい審判のメッセージを送っています。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。・・忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。・・忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:13,15,27,28)このような厳しい指摘の前に、誰が立ちえましょう。神の憐れみを乞う以外にありません。
 
C.心の割礼こそ大切(25〜29節)
 
 
25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。
26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
 
1.割礼の意味
 
 
割礼と言う儀式は、ユダヤ人の男性が、神の民となるという契約の印として、性器の一部(包皮の肉の一部)を切り取る儀式のことです。尤も割礼と言う儀式そのものは、ユダヤ人に限らず、アジア・アフリカにおいて一般的に見られます。ケニアの諸部族では、割礼が成人式としての重要な意味を持っており、今でも広く行われています。さて、聖書における割礼は、アブラハムが神との契約関係に入った、その印として始まっています。「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて8日目に、割礼を受けなければならない。・・わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」(創世記 17:7〜14)この記事からも分かりますように、割礼とは、ユダヤ人にとって、神の民であるということを肉体の上に刻印する大切な儀式でした。割礼をしないものは、イスラエル社会から断ち切られることを意味するほど重要なものでした。

それは外観上だけの意味だけではなく、内面的に、それを通して自分は神の民であり、神のご命令に従う人間であると言うことを確認する、大切なものでありました。
 
2.割礼を無にするユダヤ人
 
 
ですから、外見の割礼があっても、内面において神に従っていないユダヤ人は、その割礼を無意味なものにしてしまう、とパウロは言うのです。こうした議論は、パウロが発明した議論ではなく、申命記においても心の割礼が強調され、エレミヤが再びそれに触れた、大切な観点です。外側の割礼だけでは意味がない、と言っているのです。
 
3.無割礼でも輝く異邦人
 
 
外見の割礼を受けるか否かに関わりなく、真の輝きを放つ異邦人もありうるのだと、パウロは言います。これは、割礼を受けて宗教的にユダヤ人になると言うステップを踏まないで福音を信じた異邦人クリスチャンを指すものと思われます。キリストの復活後約25年を経て、多くの異邦人クリスチャンが世界中に誕生していました。キリストを信じて律法の精神を守るようになった彼らの存在が、形だけ律法を守っていて内容のないユダヤ人への挑戦となっていたのです。27節の「裁くことになる」とは、異邦人クリスチャンがユダヤ人を批判すると言う意味ではなく、彼らの存在が無言の批判となると言う意味です。
 
4.心の割礼
 
 
外見や儀礼は重要ではなく、内なる敬虔が重要なのです。「人目に隠れたユダヤ人」とは、自分がユダヤ人であることを隠して、こそこそしていると言う意味ではなく、隠れたことを見ておられる神の前に真実に歩んでいる真のユダヤ人という意味です。言い換えると「文字ではなく、御霊による、心の割礼」を受けた人のことです。

さて、心の割礼の意味については、いくつかの聖句がそれを語っていますので、開いてみましょう。

1)頑なさを捨てる:申命記 10:16には、「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」とあります。心の割礼とは、神の前に柔らかい心をもつことを意味しました。ステパノが、頑固さの塊であるユダヤ人同胞に対して、「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(使徒7:51)と語っているのと平行しています。

2)悪の心を除いて頂く:エレミヤ4:4「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなた方の悪い行いのため、私の憤りが火のように出て・・」とあります。これは、1節の「忌むべき物を私の前から除く」という思想を受けています。パウロが、霊的な割礼のことを「肉の体を取り除くもの」(コロサイ2:11)と言ったこととも平行しています。

3)心を尽くして主を愛する:申命記30:6には「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」とあります。地上のものや、偶像に傾く性質を除いていただいて、専心神に仕えるものとなることが、心の割礼です。

新約的な言い方をすれば、心の割礼とは、自己中心を砕いていただくという点で、自我を十字架につけることと同じです。この「心の割礼」自分のナイフで切り取るような自力ではなく、聖霊のお働きによるのです。私達が砕かれた心をもって聖霊に委ねる姿勢を告白するとき、主はみ業をなしてくださいます。

そのような内側の敬虔さに対する誉れは、人からではなく、神が与えなさいます。
 
終わりに:証の立つ、本物のクリスチャンに!
 
 
私達は、今日、ユダヤ人に焦点を当てて学んできました。これはこれで大切なのですが、私達とどう関係があるの?と思う人もいることでしょう。このユダヤ人の偽善とそれによって汚されている神の聖名という思想は、現代にはクリスチャンの世界に当てはまるのではないでしょうか。クリスチャン国家と呼ばれる国々が、世界の政治においてどんな証を立てているでしょうか。クリスチャンと呼ばれる家庭がどんな証を立てているでしょうか。誠にお寒い感じが致します。その本質は、名前が先行してしまって実質が伴わない、もっと言えば、名前が先行するので、それに安心してしまって、実質は、ノンクリスチャンよりももっと悪い、というケースすらなきにしもあらずです。

私達は、主の憐れみを頂いて、証の立つ本物のクリスチャン、「隠れたユダヤ人」ならぬ、「かくれたところを見給う神の前に真実に歩む」本当のクリスチャンとさせていただこうではありませんか。
 
お祈りを致します。