礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年8月27日
 
「すべての口がふさがれる」
ローマ書連講(10)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙3章1-20節
 
 
[中心聖句]
 
 19  それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
(ローマ3章19節)

 
はじめに
 
 
前回は、ユダヤ人が神との契約の印として大切にしている割礼について、その儀式よりも「心の割礼」の方がもっと大切であることも学びました。心の割礼とは、1)頑なさを捨てる、2)悪の心を除いて頂く、3)心を尽くして主を愛する、という三点に尽きます。3章は、その議論が続きます。平たく言いますと、「ユダヤ人に対する神の扱いに関するQ&A」です。
 
A.神はユダヤ人を公正に扱われる(1-8節)
 
1.割礼は何の役に立つのか?(1-2節)
 
 
1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
 
前の章で「心の割礼こそ本当の割礼」と言ったわけですから、肉体的な割礼は何の役にも立たないのか、と言う反論が起きます。今日のクリスチャンに当てはめると、「形だけの洗礼では意味がない、心の底からキリストの贖いを信じる信仰こそ尊い」と聞いて、「じゃあ、洗礼など受けても受けなくても、変わらないじゃないか。」という議論をするのと似ています。

その前には、割礼に象徴されるユダヤ人、そのすぐれたところは何か、という問いが起こされます(1節)。と言うのは、パウロはこの前の章(2章)において、ユダヤ人がいかに頑なであり、神の御心に沿わない罪人であるかを糾弾してきたからです。そんなに悪いのならば、ユダヤ人であることになんのメリットがあるのか、という質問です。

それに対する答えは単純です。ユダヤ人は、神の言葉、すなわち律法を与えられていると言う点で、大きな役割を人類に果たしている、と言うものです(2節)。目に見えない神の御心は何か、私達の生きる基準・目標は何かを、文書の形でしっかりと教える聖書がユダヤ人を通して与えられたということは、すばらしいことです。

もちろん、それはユダヤ人が民族的に優秀だとか、特権があるとか、反対に、ユダヤ人という民族が悲劇の運命を担っているとか、色々な欠点をもっているとかという民族的な議論ではありません。パウロは、そうした民族論ではなく、神の救いの歴史の中で与えられた役割という角度から論じているのです。その歴史の中で、神の啓示を、聖書と言う形で受け取り、人々に伝えるという大事な役割をユダヤ人は与えられた、と言っているのです。
 
2.人間の不真実さは神の真実さを傷つけるか?(3-4節)
 
 
3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。
 
第二の質問は、そのように選ばれたユダヤ人が、神に従わず、救い主も信じようとしない不信仰と不真実さの故に、選ばれた役割を果たさなかったとすれば、ユダヤ人を選びなさった神の名誉を傷つけることにならないか、と言う点です(3節)。

パウロは、これに答えて、神の真実は、その民の不真実によっても影響を受けない、と語ります(4節)。ここでパウロが引用しているのは、ダビデの言葉です。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」(詩篇51:4)ダビデが罪を悔い改め、そして神の裁きを潔く受けることを告白したときの言葉です。「悪いのは自分です、自分は何の言い訳もしません、裁きなさった神は正しいお方です。」という心を表した言葉です。総理大臣がxx大臣を任命したところ、xx大臣が不祥事を起こしたら、総理は任命責任を問われます。しかし、不祥事の直後にきっぱりとした裁きがなされれば、総理の責任は果たされたことになるのと似ています。
 
3.人の罪が神の義を現すとすれば、「罪」も役に立っていると言えるか?(5-6節)
 
 
5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
 
この質問を言い換えると、罪も結果としては善ではないか、というものです(5節)。救いの歴史には罪の存在が必要だ、人間の罪があるからこそ、神の正義が光り輝く、だから人間の罪もそれなりの益がある、そして、罪を作り出しておいてそれを裁く神はフェアではない、と言う論理も成り立つのです。分かりやすい例として、「イスカリオテのユダは、主イエスを裏切る罪を犯した。しかし、その裏切りを通してキリストの贖いが成就したとすれば、ユダの罪は褒められるべきではないか。」という議論と似ています。

これに対してパウロは、神は悪の原因ではない、罪を作り出して、それを餌に罪を犯した人間に罰を与えるようなお方ではない、神の方法も方針も正義そのものである、と論じます(6節)。
 
4.人間の偽りが結果的に神の栄光を表すとすれば、罪人が裁かれる理由はないのではないか?(7-8節)
 
 
7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
8 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。・・私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、・・もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
 
ここでの質問は、悪や偽りが神の栄光を表すための単なる手だてであるならば、悪や偽りは本当に悪いものとして裁かれるのはおかしい、また、より開き直って、「善を表すと言う良い目的を持った悪ならば、積極的に悪いことをしよう。」という議論が生まれます(7-8節b)。善なる神の引き立て役として悪が在るならば、悪役も必要ではないか、と言う議論です。パウロは、そうした議論に対して、そんなひねくれた議論を持ち出す人々の根性が悪い、と一刀の下に切り捨てます(8節b)。

私も、長い伝道生涯の中で、神が愛ならばどうしてこんなことが起きるのかとか、答えるのに骨を折る質問をいくつも受けました。質問の中には純粋なものもありますが、多くのものはひねくれた心から出てくる質問です。実際、そのような質問は、神の愛を確信すると消えてしまうものです。
 
B.すべての人は罪人である(9-20節)
 
1.すべての人は罪の下に(9節)
 
 
9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
 
ここでパウロは、1章で論じた異邦人の罪、2章で論じたユダヤ人の罪を総括して、結論を出します。それは、すべての人は罪人であるということです。1節の私達とはユダヤ人のことです。真面目に見えるユダヤ人も、あからさまな罪を犯している異邦人同様、神の裁きを受けねばならない、と言っています。
 
2.「義人はいない」ことの聖書的裏づけ(10-18節)
 
 
パウロは、「すべての人は罪人」という真理を、詩篇を主とした旧約聖書の引用をもって裏付けています。ここで驚くのは、パウロの聖書知識です。当時は今のようなコンパクトな聖書を携行することは出来ませんで、旧約聖書全体は、何巻にも分かれた重い羊皮紙のロールで出来ていました。ですから、聖書を引用するとしても、いちいち開けたわけではなく、記憶の中から引用したものと思われます。パウロの言葉を、その元になった旧約聖書箇所(それを<>の中に書きました)と対照させながらリストにしましたので、ご参照ください。)

1)態度の罪(10-12節):神を求めようとする態度に欠けている
 
10 「義人はいない。ひとりもいない。
11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
 
<詩篇 14:1 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。 2 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。>
義人はひとりもいない、と言うところがカギです。大塩平八郎は、義人といわれた人ですが、大塩さんはどうなのか、と聞きたい人がいるかも知れません。ここでパウロが言っているのは、この人より正しいとかいう比較の問題ではなく、神の前に、全く罪のない人はいない、という本質的問題なのです。その罪とは、神を離れて自分勝手なみちを歩むことと語ります。

2)言葉の罪(13-14節):人間の言葉は、他人を傷つけ、欺く。
 
13a 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」                    _
 
<詩篇 5:9 彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。>
 
13b 「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」                    _
 
<詩篇 140:2 彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。3 蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。>
 
14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」                    _
 
<詩篇 10:7 彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。>
3)行為の罪(15-17節):殺人・破壊・混乱を齎す行為。この点も説明を要しないほど、日常的に私達が家庭で、社会で、国際的に経験しています。
 
15 「彼らの足は血を流すのに速く、16 彼らの道には破壊と悲惨がある。17 また、彼らは平和の道を知らない。」
 
<イザヤ書 59:7 彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。8 彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。>
「開いた墓」とは、滅びに向かって人を飲み込んでしまうような言葉を象徴したものと考えられます。蝮の毒、呪いと苦さ、など、絵画的表現が多いこと、どぎついことがパウロの特徴です。でも、実際、言葉で傷つけたり、傷つけられたり、というのは、皆さんが日常経験しておられることでしょう。

4)心の罪(18節):神を畏れない心、これがすべての罪の根源です。
 
18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」                    _
 
<詩篇36:1 罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。>
この罪人の絵を見ると、感じることの一つは、私が下手なイラストを描かなくても、目に見えるように生き生きと罪人の姿が描かれているということです。それだけ、パウロは罪を具体的に捉えていたからでしょう。

さて、パウロが描いた絵はちょっと暗すぎないか、というような疑問を持つ方もおられることでしょう。実際の人間には、優しい人もいるし、正直な人もいるし、おとなしい人もいます。それらを十把一からげに『徹底的な罪人扱い』にするのは、実情に合わないのではないか」という反論は、確かに頷けます。パウロとても、人間の姿を描くのに、黒一色が相応しいとは思っていなかったかもしれません。ただ言えることは、私達人間をよく振り返ってみると、みんなこのような要素を持っていると言うことです。大小の違いはあるでしょう、表れの形は違いましょう、しかし、みながこのような要素を持っていることを否定することは出来ません。(ビーコン聖書注解が、「人間は、神の先行的な恵みのお働きなしに、自分自身では全く盲目であり、無力であり、腐敗している。」と言っているのは大切です。人間に、ある種、「良い」要素があるとすれば、それは先行的恵みの故であり、本来の人間は、全面的に腐敗したものです。人間観に性善説と性悪説がありますが、聖書は、基本的に性悪説を取ります。これは大切です。)

そして、腐敗の要素の一番根底にあるのは、神中心でなくて、自分中心のものの考え方を持っているということです。デニス・キンロー博士の近著「キリストのように生きる」の48,49ページに、罪の本質について、それは「自分の源であるお方に背いて、自分自身に向かっていくこと」というルターの定義を紹介し、自己中心性を説明しています。

信仰の世界でも、突き詰めてみると、自分の利益追求の方策としての信仰、自分が恵まれ、自分が満足するための礼拝という風に、自分が中心に据わってしまう危険があります。それこそが「神を求める人は誰もいない。」という宣言になるのです。礼拝の場においても、自分の願いを遂げるため、自分の精神安定を得たい、と考えると、そのわなに陥ってしまいます。愛の奉仕をしていても、愛という名前の自己主張をしてしまうことはないでしょうか。
 
3.すべての人の口が塞がれる(19-20節)
 
 
19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
 
最後にパウロは、人間について暗い絵を書いた目的というか、結論を示します。それは、私達は誰一人、神のおきてをしっかり守ることで、神の裁きを逃れるということはありえない、と言うことです。聖書の中の律法だけではなく、聖書を持たない異邦人の心に刻まれている良心という律法に照らしても、私達はみな律法違反者です。これは、詩篇の言葉で再度裏付けられます。「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」(詩篇 143:2)

もし律法に意義があるとすれば、それは、私達の罪深さを明確に示すためだ、とパウロは言います。スピード制限が○○キロと表示されて初めてスピード違反が発生するのと似ています。

その律法に照らされますと、私達の「すべての口はふさがれて、・・神のさばきに服する」以外になくなります。

私達には、「言い訳をしたい」という口があります。私達は悪いものとは認めながら、色々言い訳したいものです。これは、禁断の木の実を食べたアダムが、エバが唆したからだと、責任を転嫁したように、私達は、責任転嫁の言い訳をしたがります。また、他の人と比べてまだましだとか言い訳もしたがるものです。

もっと悪いのは、神に対する言いがかりや疑問です。それらは、この章の前半で沢山出てきました。それらを一切伏せて、ただひたすら、「私は神の前にとんでもない罪人だ」と頭を垂れ、その裁きに服する態度が大切です。

この罪人たる自覚は、神の栄光に触れたときに与えられます。ヨブは、苦しみの只中で、神の正義を大いに疑い、訴えましたが、力と威光に満ちた神の現れに触れたとき、「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。」(ヨブ40:4)と言って、小ざかしい議論を止めました。 
 
終わりに
 
 
私達は、ある程度までは自分が悪いとか、足らないとか、そういう言い方をします。しかし、きよい神の前に一切の言い訳も、弁解もなしに、ただ私が悪うございました、と口を塞ぐとき、主は大きな憐れみを示してくださいます。それが、21節以下に示された、キリストの贖いであります。言い訳の口、疑問の口、傲慢の口、それらをみな塞いで、ただ贖いの恵みを待ち望みましょう。
 
お祈りを致します。