プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年8月27日

試練を乗り越えるE
「悩む者の友」

竿代 照夫牧師

サムエル記第一 22章1-5節

中心聖句

1Samuel 22:1-5 

ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。

また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。

ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどんなことをされるかわかるまで、どうか、私の父と母とを出て来させて、あなたがたといっしょにおらせてください。」

こうしてダビデが両親をモアブの王の前に連れて来たので、両親は、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。

そのころ、預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」そこでダビデは出て、ハレテの森へ行った。」

(サムエル記第一 22章1-5節)


A.はじめに−ダビデは逃亡生活を続ける

「試練を乗り越える」というタイトルのシリーズで、ダビデの生涯を学んでいます。先週は出席できませんでしたが、ホームページでメッセージを伺い、恵まれました。

嫉妬に狂ったサウル王の迫害を逃れて、ダビデがひたすらに逃げ回るところです。イスラエルの隣のペリシテ人の町であるガテ(有名なガザの北西30kmの町)に逃れたものの、ガテの王様に捕らえられそうになりました。その時ダビデは、涎を垂らし、その涎を髭に浸して門に字を書き、正気を失った人間の振りをして難を逃れました。その苦しさ、悲しみ、辱めは察するに余りあるものです。このような苦労を重ねながら、ダビデは逃亡生活を続けていました。

編者注:ダビデの逃亡経路をご覧いただけるようにしました。メッセージの参考になれば幸いです。(表示するには、ここをクリックして下さい)

B.アドラムの洞穴に身を隠す

そのダビデが、ガテから更に30km西北西(エルサレムから東南東30km)のアドラムという町の外れにある洞穴に、難を逃れてやってきました。

この辺は、ユダの荒野と呼ばれる荒涼たる山岳地帯で、洞穴が多くあり、隠れるには絶好の場所でした。そこでダビデは、ごく限られた側近の者たちと一緒に、ひっそりと時を過ごそうと思っていたのです。

C.家族が集まって来る

ひっそりと隠れていようというダビデの願いとは裏腹に、いろいろな人間が集まってきました。最初は、

ダビデの兄弟たちや、彼の父の家のみなの者

です。なぜでしょう。

この前の章−21章−の出来事がそれを説明します。ダビデを助けようとした祭司アヒメレクの記事です。後になって、ダビデを助けたものがいると聞いたサウル王は、烈火のごとく怒って、アヒメレクとその家族、そしてその町の住人、乳飲み子、牛もろばも羊も、皆殺しにしたというのです。サウルの嫉妬の恐ろしさが分かります。

そんな空気を見て取ったダビデの父エッサイとその子供たち−といってもダビデは末弟でしたから、兄たちはかなりの齢になっていたと思われます−がサウル王の怒りを逃れてダビデのところに身を寄せたのです。

もちろんダビデは、「僕のために家族みんなに迷惑を懸けて申し訳ない」と謝りつつ、彼らを受け入れました。困難にぶつかっている時の家族の絆ということについて考えさせられる出来事です。

自分が逃げるだけで精一杯なのだから、兄貴たちなんか構っていられない、といっても仕方がない境遇でした。特に、ダビデの兄たちは、事ある毎に末っ子のダビデを馬鹿にし、余計者扱いにしていましたから、国民的英雄になったダビデは、兄さんたちに仕返しをしても文句は言われない立場でした。でも、ダビデはそんな気配は一つも見せないで、兄さんたちを受け入れました。

この夏の高校野球で活躍した斉藤佑樹投手(早稲田実業学校)は、お兄さんととてもうるわしい関係を持っていることで全国に知られました。本当に危機にぶつかったとき、助け合うのが兄弟です。

D.悩んでいる人々も集まってくる

ダビデの家族に加えて、

困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。

のです。サウル王の圧制の下で貧しくなった人々、つまり、食い詰めた者たちが、何とか食う道がないかとやってきました。

さらに、借金を背負って首が廻らなくなったものが、行き場を失ってダビデのもとに走りこんできました。

現代にあてはめると、消費者金融に手を出して多額の借金を作り、さらに返済しようと闇金融に手をだし、返済を迫られて追い込まれ、行き場を失った人たちでしょうか。

もう一種類、政治体制に不満を持ち、おそらく政治的な迫害にあっている人々−今日で言えば、反体制派−もダビデに惹かれてやってきました。

E.ダビデは、弱い者たちを受け入れる

驚くことに、ダビデは、このような、いわば役立たずの厄介者、お尋ね者を誰一人退けないで、みんな受け入れました。結果的に四百人の大集団になってしまいました。もう、こそこそ隠れていることは出来ません。遂に洞穴を出て、自分の曾祖母であるルツの故郷・モアブに逃れることになりました。

このダビデの姿を見ると、いろいろなことを考えさせられます。

その一つは、ダビデ自身が悩みの中にあったので、悩みにある人を本当に理解し、受け入れることができたということです。

私達の人生でも、他人には言えないような苦しみ、悩みを通過するときがあります。どうして私だけが、と文句を言いたくなるような境遇を通過することがあります。しかし、それらは、みんな私達の人生への肥やしとなっているのです。

今月、ある新聞の文化面に、抑留経験を語っている方の記事が掲載されています。筆舌に尽くしがたいというのはこういう経験を指すのかと思うような話が続いています。

しかし、私達が経験する苦しみや悲しみは、他の人の悩みと苦しみを理解できる懐の深い人間に成長させるための道筋なのです。主のご配剤を感謝したいと思います。

弱い者立場の者たちを受け入れたダビデは、強いもの・力あるものを好んで選んだサウル王と比較されます。サウルは、サムエル記第一 14章52節にあるように

サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた。

と、機能的な人間観に立って人を見ました。その人が自分にとってどんな役に立つ人間であるかが選びの基準でした。

これに比べてダビデは、存在論的な人間観をもっていました。その人間が存在すること自体が大切なのだ、という考えです。この考えでなければ、私達は今の立場はなかったことでしょう。

F.主イエスは、弱きものの友であられる

ダビデ以上に苦しんでくださった方は、イエス・キリストです。

ダビデはキリストの雛形と言われていますが、キリストは

ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

とヘブル人への手紙2章18節にあります。悩めるものの友であり給う主を賛美しましょう。

この主キリストが選んでくださった私達教会のメンバーを考えてみましょう。コリント人への手紙第一 1章26-28節をお読みします。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

ダビデのもとに集まった最初の集団が、迫害されたもの、貧しいもの、借金を背負ったもの、社会から仲間はずれにあったものたちであったと同様に、私達信仰者も、どうにもならない境遇から選び出されたものばかりです。そのようなものをわざわざ選んで、神のすばらしさを人々に知らしめる器としてくださった、神の大きな計らいを心から感謝しましょう。

そうして、私達自身が、そんな基準で選ばれたという自覚を持つと、周りの人に対する私達の観方が変わってきます。神の恵みを知った人が他の人を見て、「こんな人はだめだ」とレッテルを貼ることは決してしません。

今週の歩みを通して、私達は自分自身が、悩んでいるものの友となろうではありませんか。お祈りいたします。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior paster of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/August 27,2006