礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年9月3日
 
「ただ、恵みにより」
ローマ書連講(11)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙3章21-31節
 
 
[中心聖句]
 
 24  ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
(ローマ3章24節)

 
はじめに
 
 
前回は、3章前半から、私達人間は誰一人、神のおきてを守ることで、神の裁きを逃れるということはできない、その厳粛な事実の前に、口を塞ぐ以外にないのだということを学びました。きよい神の前に一切の「言い訳の口」、小ざかしい「議論の口」を塞いで謙るとき、神の憐れみが現われます。今日はその恵みの現われについて学びます。
 
A.神の義が示される(21-22節)
 
 
21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 
1.大きな転換
 
 
「しかし、今は、」とは、何という大きな転換でありましょうか。これは、裁判の大原則に関する変更です。律法→違反(罪)→(厳格な)裁きというサイクルから、贖い→信仰→義認というサイクルへの転換です。
 
2.しかし、旧約からの継続
 
 
しかもこれは、突然降って沸いたように持ち上がった転換ではなく、聖書全体を通して予め証しされていたものであった、とパウロは言います。ここで言う「律法」とは、旧約聖書のうちの5書を指すトーラー、「預言者」とは、預言書と歴史書の一部を指すネビームです。この二つを並べて、旧約聖書全体を指します。

では、本当に旧約聖書全体が、信仰義認を証ししているのでしょうか。答えはイエスです。創世記15章には、アブラハムが信仰によって義と認められたことが記されています。また、詩篇32篇には、ダビデが信仰によってその罪を赦していただいたことが記されています。イザヤ53章には、神のしもべが苦しみを受けることによって、身代わりを成し遂げることが記されています。その他にも、多くの箇所が、人が義とされるのは信仰によることを証言しています。旧約聖書も新約聖書も、同じ聖霊の感動によって書かれているのですから、二つが全く別のことを強調する筈がありません。勿論、救いのご計画は徐々に啓示されてきたという経緯がありますから、その明確さに違いがあることは確かですけれども・・・。
 
3.神の義が現される
 
 
神の義とは、1:17で説明いたしましたように、「神の基準に適うこと」です。人間が自分で決めた基準で、自分がそれに適っていると自己満足することではありません。それは神が与えたまう義でもあります。人間は自己流の正しさを持っていますが、それは神の目からは「ぼろ着物」のようなものです。私達は、「自分は正しい」と言う殻に閉じこもりがちですが、自分の義などは、自己主張の変形でありましょう。神が与えなさる義でなければ本当の義ではありません。
 
4.信じるすべての人に
 
 
信仰による救い(義認)と行いによる救いの決定的相違は、それが一部の人のものではなく、すべての人に、同じ条件で与えられると言う点です。行いによって救われるとすれば、一生懸命頑張る人とそうでない人との間に差が出来ます。生まれや環境によっても差が出ます。

しかし、信じると言う点だけが問題とすれば、もう背景や性格とは全く関係がありません。信じると言う所作は、私達が日常行っているもので、特別な価値がその中にあるわけではありません。

では、救いを齎す信仰と、一般的な信仰・信頼との違いは何でしょうか。救いを齎す信仰とは、イエス・キリストの成し遂げてくださった贖いに対する信仰、その贖いを成し遂げてくださったキリストへの単純なより頼みです。念のため付け加えますが、救いに関しては「信仰の偉大さ」というものに焦点をあてて考えるべきではありません。「信仰」に何かのメリットがあって、偉大な信仰の人が救われる、小さな信仰の人は救われない、というものではありません。私達が行っている信頼と言う心の所作を主イエスに向けるかどうか、だけが問題です。繰り返しますが、救いの信仰とは、神が提供される贖いを単純に受け入れる態度のことです。救いに関するメリットは、神の御業にあります。その御業を、信仰を通して受け入れるのです。私の信じ方が良かったのだと自慢できる要素は一つもありません。その内容が、次の文節で説明されます。
 
B.恵みによる救い(23-24節)
 
 
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
 
この23,24節には、福音のエッセンスが凝縮されています。
 
1.すべての人は救いを必要としている
 
 
1)すべては罪人:すべての人(例外はありません。どんな人でも、善人に見える人も、見るからに悪人と見える人も、男性も女性も、老人も若者も、日本人もアメリカ人も、社会的な地位の高い人もそうでない人も、「すべて」です。)が罪を犯しています。

2)神の栄誉から程遠い:その結果、神の栄誉と承認を受けられません。栄誉とは、神ご自身が持っておられる輝きのことで、それは人間創造のときに、人間に分与されていたものです。そこから外れてしまったと言うことは、小学校の運動会で一等賞を貰い損なう、というような生易しいものではありません。神との断絶という形で裁きを受けることなのです。この深刻さの自覚が福音の出発点です。義人はいない、一人も居ない、という絶望的な、どん底の人間観がスタートです。このどん底意識が中途半端ですと、恵みの意識も中途半端となります。私達の背景がどうあれ、現状がどうあれ、私は神の前には、本当に救われえない罪人の頭なのだ、という謙った自己認識から信仰は出発します。お医者さんでもそうですが、患者自身が色々勉強して、自己診断して、自己流の治療を試みて、その上でお医者さんの助けを求める、という患者さんだったら、本気で助けようとはしません。自分ではとても手に負えない、何とかしてください、と全面的に委ねるとき、そうか、それならば全力で治療をお助けしましょう、という態度になるのと同じです。
 
2.救いはすべての人に与えられる
 
 
1)神の恵みによって:恵みとは、「受ける価値の無いものに与えられる神の豊かで特別な顧み」のことです。パウロは、「人間の救いは一方的に神の恵みによるのだ」と語ります。恵みだけによって救われ、恵みだけによってきよめられ、恵みだけによって支えられているということは、新約聖書がはっきりと私達に伝えている福音のメッセージです。逆なりに言いますと、恵みに何かを付け加えると、福音ではなくなってしまうということです。いかにしばしば、私達は恵みプラス努力、恵みプラスまじめさ、恵みプラス節制という形で、恵みだけによって生きるという福音の真髄を損なってしまうことでしょうか。恵みに何かを付け加えることで、短期的に見れば、また外見だけを見れば、何かが生み出されることは確かです。ですから、説教者はつい、がんばりを強調したくなるのです。しかし、それは、ただ恵みによるという福音の根本的な原理を壊してしまうことなのです。恵みが努力や節制を生み出すことは確かですが、それはあくまでも結果なのであって、努力と節制が救いを導くものではありません。私達の霊的生活が徹頭徹尾「恵みによる」ものであることを、御言葉を通して確認しましょう。「恵みを知らないクリスチャン」と言う本の中で、デイビッド・シーモンズ氏がご自分のカウンセリング経験から、こういっています、「私は、福音主義のクリスチャンを悩ましている感情的・霊的トラブルの主要な原因は、神の無条件の恵みを受け損なっていること、そしてその恵みを他の人に与え損なっていることにあると確信するようになりました。」私達は本当の意味で「恵みを知ったクリスチャン」となりましょう。

2)価なしに:「価なしに」は、ドーレアンという言葉で、「恵み深くも無償で」という意味です。キリストが代価を払ってくださったのですから、私達の側では「ただで」頂くことができます。人間はプライドが高いものですから、ただで、という思想には引っかかりを感じます。ただほど怖いものはない、という用心も働きます。しかし、無代価で与えられる救い、それが福音です。無代価というときに、二つのことを確認する必要があります。一つは、私達は代価を払う能力が全くない、ということです。いわば破産状態なのです。神の前に、真の意味でのよき行いをなすことは全く出来ない、本当に弱い、本当に醜いものだ、という自覚を言い表したいと思います。難行も苦行も私達を救うことは出来ません。もう一つは、キリストが代価を払ってくださったという事実の確認です。これは、心から溢れ出る感謝と共に確認すべきことです。

3)キリストの贖いの故に:この部分以降は次回に委ねることに致します。
 
終わりに:恵みが輝くのが十字架
 
 
私達の側のメリットはみんな除かれて、神の一方的な恵みだけが輝く、これが十字架です。十字架を誇り、十字架に信頼し、十字架にかかってくださった主に感謝しつつ、この一週の歩みを始めようではありませんか。
 
お祈りを致します。