礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年9月10日
 
「信仰の原理」
ローマ書連講(12)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙3章23-31節
 
 
[中心聖句]
 
 28  人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
(ローマ3章28節)

 
はじめに
 
 
前回は、3:24を中心に、信仰と恵みによる救いについて考えました。私達がただ恵みによって救われると言うことは、驚くべき事実であり、真理です。また、恵みと信仰は切っても切れない関係にあります。恵みとは、救いのために差し出された神の御手であり、信仰とは、その神の恵みの御手に応答する私達の手のことだからです。さて、この単純な真理についても、疑問や反論はありえます。パウロはその反論を想定しながら、丁寧に答えていこうとしています。それが今日のテキストです。
 
A.恵みによる救い(23-24節)<続き>
 
 
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
 
1.救いの必要

2.大いなる救い

 
 
1)恵みによる救い

2)価なしに <ここまでは、前回お話しました>

3)キリストの贖いの故に:「贖い」という言葉は、現代の社会ではあまり使われていません。ですが、聖書の中でとても大切な位置を占めていますので、他の言葉に替えることはできません。「贖い」(アポリュトローシス)とは、「代価を払って買い戻すこと」です。それは土地や財産についても言えるのですが、人間への適用が主です。ある人が奴隷となってしまったとき、その親族のものが代価を払って、その奴隷状態から解放することが贖いです。ここから「釈放」という意味にも使われるようになりました。主キリストの場合、罪の奴隷となってしまった人類を、ご自身の尊い命、血潮を代価として買戻し、釈放してくださったのです。第一テモテ2:6「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」マタイ20:28「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」これは驚くべき恵みの現れです。」

4)義とされる:正しくないもの正しいとみなしてくださる、はっきり言えば、多くの罪を犯した犯罪人が、(他の人の身代り的な刑罰の功によって)完全に赦される法的な処置のことです。

南北戦争の頃のアメリカ中西部で、ギャングの一味が開拓地の村々を襲って略奪し,火を放って村を焼き払うと言う無法を繰り返していました。余りの無法ぶりに軍隊が派遣され、見つけ次第銃殺するように命令が出されました。暫くしてギャング一味が捕まり、一列に並べられ、目隠しをされて、銃殺刑を待つばかりとなりました。その時、あたりの茂みから一人の若者が「待ってくれー」と叫んで飛び出してきました。一斉に銃口が彼に向けられます。彼は隊長の前に進み出て、一人の男を指差して言いました。「彼を助けてやってください。彼には妻と4人の子供が居ます。代わりに私が銃殺刑に服します。」隊長は暫く考えた末に、この若者の願いを聞き入れました。命を救われた男は、身代わりとなった若者の遺体を馬に乗せ、自分の家に持ち帰って,丁重に葬りました。そこに記念碑を立てて、こう刻みました、「彼は私の身代わりとなって、私のために死んだ。」キリストが私のためにしてくださったことは、もっと深く、もっと徹底的で、完全な身代わりでした。

私達はキリストの血潮を仰ぐとき、過去のどんな罪、過ち、恥ずかしかった過去を、全部帳消しにしていただけるのです。これは何という釈放感、何という特権、何という喜びでありましょうか。義とされることのもう一つの意味は、赦されることからもう一歩進んで、実質的に正しいものと作り変えられることです。前者は「みなされる義」ですし、後者は「分与される義」です。神の義を分け与えられるのです。
 
B.なだめの供え物の意義(25-26節)
 
 
25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
 
ここに、キリストの贖いが詳しく説明されます。
 
1.キリストは、供え物となられた
 
 
1)流血を含む供え物:キリストは、それは、血を流すこと、つまり、殺されることによって価値を得る、そのような供え物となられることを意味します。「なだめの供え物」は、原文では一字(ヒラステーリオン)でありまして、もともとの意味は、神殿の中心に安置されていた「契約の箱の蓋」(別名「贖いのふた」)とのことです。そこでは、贖いの犠牲となった動物の血が振り掛けられ、イスラエル国民の罪を贖うその場所でした(レビ16:14-15)。キリストは、動物の血に勝るご自身の血潮を流して、完全な贖いを成し遂げてくださいました。

2)なだめの供え物:私達人間の罪の積算したものがキリストに負荷されることによって、神の正義から来る怒りがなだめられたのです。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Tペテロ2:24)

3)信仰による供え物:旧約における生贄の動物が殺される前、祭司はその動物の上に手を置いて罪の告白をしました。供え物は、備える側の信仰と悔い改めと一体となることによって、その効果があることを示しています。キリストの供え物も、私達の信仰と一体となることによって、赦しときよめを齎すのです。
 
2.神の義のデモンストレーション
 
 
1)全宇宙的に:その贖いは、神の義を示すものでした。もし、キリストの十字架なしに、神が私達の罪を簡単に赦してしまったら、私達は簡単に罪の生活に戻ってしまうことでしょう。罪は、それに相応しい形で罰せられる、これは神の正義の要求です。キリストの十字架によって、神の義が証のために全宇宙に示されたのです。キリストのむごたらしい十字架の意味は何でしょうか。それは、罪を、そのままでは赦すことの出来ない神の絶対的な義の厳粛さを示すものです。神が、人間の赦し難い罪を見過ごしにしている、という非難への答えが十字架だったのです。

2)個人的に:神の義は、宇宙的に示されただけではなく、私達個人にも示されました。罪赦され、神との正しい関係、愛と交わりの関係に導かれるのです。
 
C.信仰義認から導き出される真理(27-31節)
 
 
キリストの贖いが提示された後で、パウロはそれが意味する真理を三つ補足します。それは三つの質問への答えと言う形で示されます。
 
1.信仰義認は誇りを取り除く(27-28節)
 
 
27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
 
1)誇りどこにあるか?除かれた:私達が救われている、義とされているということは、なんら誇るべきことではありません。でも、時とすると、クリスチャンの中には、自分が救われている、それに比べると周りの人は救われていない哀れな人々だ、あるいは真理を悟らないおろかな人々だ、と言うような優越感を持っている人がいます。救いがどのように訪れたかを本当によく考えると、優越感などはとんでもない思想なのですが、そこは人間の愚かさで、つい他人を見下したような思いを持ったり、言葉に表したりするのです。これは危険です。

2)除かれたのは、信仰の原理の故:「救いを誇る」という誘惑は、救いが行いを通して得られるという観念からやってきます。これだけ努力したから救われる、これだけ真面目に生きようとしたから救われる、というものでしたら、救われたことを誇ってもよいのですが、パウロは、救われた(義とされた)のは、信仰によったのだ、それならば、何も誇るところはない、むしろ、誇りは除かれた、と言うのです。何倍もという競争の難関を突破して入学試験を通った人は、それなりに誇っても構わないかもしれません(それとても神の恵みなのですが・・・)。しかし、くじ引きで入学が許された人は、何も誇れないのと同じです。
 
2.信仰義認はすべての人に適用される(29-30節)
 
 
29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
 
1)神は、すべての人にとっての神:29節で「それとも」と言っているのは、義認は信仰によるという原理ではなくて、律法の行いによる、という原理に戻れば、という仮定を示します。その仮定に立てば、律法を守っている(と考えられている)ユダヤ人は非常に有利な立場に立つことになる、そうすると、神はユダヤ人だけの神となってしまう、という論理なのです。しかし、実際には、神はすべての人にとって神である、この自明な真理をパウロは再確認します。

2)すべての人は同じように信仰によって義とされる:神がすべての人にとっての神であるとするならば(事実そうなのだが)、義とする方法も一つではないか、とパウロは論じます。「その方法とは信仰だ」と、こういうのです。
 
3.信仰義認は律法を確立する(31節)
 
 
31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
 
1)信仰は律法を無効にするか?:ここで、パウロは、ユダヤ人の間に起きている根強い反論を紹介します。信仰を強調することは、神の与えなさった律法をないがしろにすることではないか、というものです。この議論の片鱗は、ヤコブ書における「行いなき信仰」の論議とも関連しますが、初代教会における大問題であったことは確かです。

2)無効にしないというだけではなく、律法を確立する:パウロは答えます。律法を無効にするなんてとんでもない誤解だ、そうではなくて、律法を確立することになるのだ、というのです。これは、少し解説を必要とします。律法は神から出たものです。ですから、律法を軽視したり、ないがしろにすることは、その源であり給う神を軽視し、ないがしろにすることになります。これは自己矛盾です。パウロが言うのは、律法を遵守することによって救われる、という行いの原理の否定です。救われるのは信仰によってだけなのだ、律法によるのではない、という大前提に立って、その次の原則を持ち出します。信仰によって救われたものたちは、律法を(強制されたものとしてではなくて、自然の形で)守るようになる、だから結果として律法が正しかったことを証明する、ということなのです。ここを踏み違えると、信仰だけだ、恵みだけだ、と唱えながら、実際の生活は一つも証の立たない「いいかげんクリスチャン」になってしまいます。こういう類の信仰(つまり頭だけの信仰)は、パウロも認めませんし、また、別な角度からヤコブも非難しています。救いを齎す信仰とは、主イエスとその贖いに対する絶対的なより頼みです。自分には善いことを行う力がない、むしろ悪へ走ってしまう邪悪な人間だ、という謙りを腹の底から頷くとき、私達の罪を贖い給うキリストへの単純で、全面的な、継続的なより頼みが生まれます。そして、私達が本当に彼により頼むとき、キリストは私達の中に神への愛、隣人への愛を注いでくださり、律法を行う「心」に私達の心を変えなさるのです。
 
終わりに:「喜んで仕える霊」を!
 
 
いや待てよ、私にはまだ律法が苦痛なもの、何か強制されるようなものと感じるのだが、とおっしゃる方がありましょうか。その感想を全部含めて、主に祈ってみてください。主は「喜んで仕える霊」を私達に注いでくださるでしょう。
 
お祈りを致します。