礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年9月17日
 
「気力が衰えなかったモーセ」
愛老聖日に因み
 
竿代 照夫牧師
 
申命記34章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
 7  モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。
(申命記34章7節)

 
はじめに
 
 
今年も愛老聖日を迎えました。愛老会員の皆様のご出席を心から歓迎申し上げます。昨年までは、9月の第二聖日と定めておりましたが、残暑を避けるために、今年から第三に致しました。ここ二、三日の涼しさに、一週間遅らせて正解だったかなと思わせられます。それでも、健康上の理由でご欠席の通知も多く頂いており、寂しさを感じます。そんなことを考えつつ、高齢でなお元気に輝いていた聖書に人物、モーセを学ぶべく示されました。
 
A.充実した人生
 
1.華やかな40年(0歳から40歳)
 
 
モーセほど数奇の人生を歩んだ人は稀であります。古代エジプトにおいて、迫害され、抑圧され、搾取されていた奴隷民族の男の子として生まれました。しかし、不思議な神のみ手によって、エジプトの王女に拾われ、彼女の養子となり、王子の扱いで育てられました。青いハンカチどころではない、ビロードや真綿でくるまれたような最上の環境が与えられました。それどころか、エジプトが提供する最高の学問、戦闘の訓練、指導者たるべき帝王学を受けたのです。誠に人も羨む教育を受け、将来を約束され、大きな権力を行使する立場を歩んでいました。

しかしモーセは、ある日その出自を知るに及びます。彼はエジプトの王子と称えられることを自覚的に拒み、約束されたすべての栄光、名声、権力、富、居心地のよい環境をみんな捨てて、自分の民族の苦しみに自らを投じます。具体的なきっかけは、不当に虐められている同族を救うために、エジプト人の役人を殴り殺したことです。そこまでは良かったのですが、翌日同族同士のいさかいを諌めようとしたときに、昨日の事件がもう全世界に知れ渡っていると言うことを知って愕然と致します。重大な岐路です。自分がイスラエル民族であることを否定して、昨日の役人撲殺事件ももみ消して、元の王宮の生活に戻るか、或いは、イスラエル民族であることを公表して、同族の救いのために革命運動を起こすか。でもモーセはそのどちらも選ばず、その場所から逃走する、という卑怯な道を選びます。それが40歳のときでした。
 
2.静かな40年(40歳から80歳)
 
 
ミデアンの地に逃れたモーセは、貧しいながらも良き家庭に恵まれ、羊飼いとして誠に静かな40年を過ごします。何の変哲もない、単調な日々でした。エジプトでの華やかな人生が夢であったのかと思える寂しさもあったでしょう。40歳から80歳の、社会に最も貢献できる貴重な日々を虚しく過ごしているという焦りもあったかもしれません。自分の力なさを徹底的に知らされた期間でもありました。人間、枯れ切ってしまうことも大切ですね。
 
3.活動的で実りある40年(80歳から120歳)
 
 
80歳にして神の召しを受けたモーセは、エジプトに戻り、パロとの激烈な戦いの末に、イスラエル民族を奴隷状態から解放し、シナイ半島へと導き出します。そこで、人類の憲法とも位置づけられる律法を与えられます。烏合の衆であったイスラエル民族を礼拝の民として整え、きちんとした行政機構によって統率していきます。毎日のように細かいこと、大きいことの決定を行い、本当に多忙な、しかも価値のある40年を過ごします。良いことばかりではなく、何度も何度も人々の反乱にぶつかり、身内のものからも嫉妬され、人には言えないような苦労を味わいつつ、人間が練られていった期間でもありました。
 
B.死ぬと言う仕事
 
 
波乱万丈の人生を送ったモーセに残されていたのは、「死ぬ」という大仕事でした。「死ぬと言う仕事」とは、三浦綾子さんが言い始めた言葉です。愛のみ手をもって人間の生を導かれた主が、人間の死をも導かれる、その死に真正面から信仰をもってぶつかる、こういう意味で、死ぬと言う仕事は非常に大切だ、という意味です。さて、モーセはどのように最期を迎えたことでしょう。
 
1.ネボ山に登る(1節a)
 
 
1a モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。
 
ネボ山というのはモアブの草原(海抜ゼロメートル以下の場所)から東に向かって急にそそり立っている高山です。海抜2631メートルと言いますから、私がこの夏その麓に行きました八ヶ岳よりちょっと低いくらいの山です。「モアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。」と一行だけの記述ですが、地図を見ると、気が遠くなるような大変な登山です。しかも、120歳の老人が登山をすると言うのは、容易なことではありません。実際には、これがモーセにとって死出の旅となるのですが、死ぬと言う仕事も大変です。

ぐっと最近の話になりますが、今中高年の登山ブームが来ているそうです。2010年、社会保険庁主催の「高齢者限定!激安!!春の雪山登山ツアー」に、参加者が500名とのことで、誠にすばらしいことです。
 
2.カナンの全土を俯瞰する(1節b-4節)
 
 
1b 主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、3 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。4 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」
 
勿論モーセの登山は、「そこに山があるから」という理由からではなく、死を前にして、神がこれから入国するカナン全土をお見せになるためでした。海抜2600メートルのネボ山からは、天気がよければ100kmほど離れた地中海まで遥かに見渡せる絶好の展望がありました。そこでモーセは、夢にまで見たカナン全土を、心のカメラにしっかりと刻みました。どんな気持ちだったことでしょう。あれが先祖の地、約束の地、乳と蜜の流れる豊かな場所か、という高揚された気持ちでしょう。また、その地の入り口まで良く守られたという感謝もあったことでしょう。

心に一つかかることは、自分の短気の故に神の名を汚してしまい、「あなたは見るだけで入ることは出来ない」と、神に叱られたことでしょう。高揚と後悔が入り混じった、それでも感謝が心に溢れたそのような気持ちではなかったかと思います。
 
3.神に葬られる(5-6節)
 
 
5 こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。6 主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。
 
さてモーセは、ヨシュアはじめ後継指導者と別れを告げ、一人で谷へ下って行きます。誰にも迷惑をかけない静かな人生の幕引きです。偉大な指導者の死ですから、後継者としては、盛大な国葬をもってその死を悼み、大きな記念碑でも建てるべきだったかもしれません。しかし、モーセの態度は、そういった人間的な栄誉を貰う余地を一切残さない淡々としたものでした。かっこいいと思いませんか。「主は彼を・・・葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」何とすっきりした、しかし、栄光に満ちた最後でありましょうか。

私達はみんな召天適齢期だそうですが、教会に備え付けの「葬儀の備え」をしっかり残して、神の栄光のみが現れるような葬儀の備えを今のうちに行いたいと思います。
 
C.晩年の健康と気力(7-8節、10-12節)
 
 
7 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。8 イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。・・・10 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。11 それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、12 また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。
 
このような、すばらしい晩年と最後を迎えたモーセについて、聖書は一行だけコメントしています。
 
1.肉体的:その目はかすまず
 
 
ある年齢以上になると、健康の衰えが気になってきます。足が弱り、歯が抜け、髪が薄くなり、しわが増える、本当に年を取ることは悲しいことです。ただ、モーセの場合、その目はかすまなかった、というのです。白内障とか緑内障には罹らなかったのでしょうか。分かりません。彼の大きな責任と忙しい仕事が彼に目が弱る暇も与えなかったと考えるのが自然でしょう。

先ごろ厚生労働省が発表した「全国高齢者名簿」(長寿番付)によると、2005年末までに100歳以上である高齢者は2万5千人で、過去最多を35年連続で更新しています。ちなみに100歳以上の高齢者の人数は、1963年153人、1981年1,000人、1998年10,000人、2003年には2万人を突破ということで、幾何級数的に増えています。今日ご出席の方々は、モーセと比べるとまだまだ青年です。日本の平均から言っても、これからの年齢です。私達もみな、モーセを目標に生きていきたいと思います。

あるホームページの中に、「長生きの秘訣」という記事がありました。それによると、1. 丈夫な体:@歯が丈夫、A足が丈夫(よく歩く)、B心臓が丈夫、2. 頭を使う(趣味)、3. 役割を担う、4. ストレス解消、5. 格好をつける、という5項目だそうです。参考になりますでしょうか。
 
2.精神的:気力は衰えなかった
 
 
これは、使命と関係していると思われます。200万の民を導くと言う使命感が、気力の衰えを許さなかったのでありましょう。12節に「モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」とありますが、神の権威を示し、神の力をデモンストレートすることが彼の使命でした。

更に、日々の神様との交わりがフレッシュの気力を与えたことでしょう。10節に「彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」とありますが、これは一回だけの経験ではなく、日々に繰り返された経験でした。私達においても、日々のデボーションを充実させることが老化防止の秘訣です。目はかすまず、気力は衰えず、というモーセの姿に大きな挑戦を感じます。
 
終わりに:モーセの生涯を私達に当てはめて見ましょう。
 
1.使命の再確認
 
 
私達がこの世に生きているのには、神のご目的があります。詩篇138:8に、「主はわたしにかかわるすべてのことを成し遂げてくださいます。」とあります。英訳では、ここをHis purpose for meとなっています。私に関わる神の目的です。神は私の人生に目的をお持ちです。モーセのようにスケールの大きな使命ではないかも知れませんが、一人ひとりに必ず目的をお持ちです。もう体が動かなくなった、周りの人々に迷惑をかけるだけだと決して決め付けないでください。主はあなたの存在を何よりも大切に思い、あなたを通して神のすばらしさを人々に知らせようとしておられるのです。
 
2.体力と気力は神より
 
 
私達が神の目的によって生かされている限り、それに相応しい体力と気力が与えられていることを覚えましょう。若いときと同じではないかも知れませんが、神の使命を果たすのに十分な体力と気力は主が備えてくださいます。「あなたの力が、あなたの生きる限り続く」(申命記33:25)のです。
 
3.「死ぬと言う仕事」
 
 
もし、地上での使命が終わりましたら、主は最後に「臨在と栄光に満ちた死」という形で、死ぬ仕事を託しなさいます。どんな時期に、どんな形の死が待っているかは分かりません。しかし、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」(詩篇 116:15)というみ言葉は確かです。モーセをご自分の手で葬りなさった同じ主は、私達の最期を飾ってくださいます。主により頼み、主を誉めましょう。
 
お祈りを致します。