プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年9月17日

試練を乗り越えるG
「復讐心からの自由」

竿代 皓子牧師

サムエル記第一 25章32-35節

中心聖句

1Samuel 25:33 

あなたの判断がほめたたえらるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのを止めさせたあなたに、誉れがあるように。

(サムエル記第一 25章33節)


A.はじめに−背景について

ダビデ王の生涯から今日は私たちにとって大変難しい問題「復讐心」について学びます。

今から約二千年前、イスラエル民族の王国が形成され、第一代の王サウルは、神の前に王としての資格にかける失敗を重ねることによって捨てられます。 しかし、彼は自分の面子の為に王位を必死に保とうとします。よって、第二代の王として神に選ばれたダビデを激しく嫉妬し、その命を奪おうと付けねらいます。

サウル王の迫害から逃れるためにダビデは600人余りの従者と共に色々な所に逃れますが、この物語の時はパランの荒野(パレスチナの南方、西はシュル、東はエドム、南はシナイに及ぶ荒野)を彷徨っていました。大勢の従者を抱えたダビデの生活は、それは大変であったことは想像がつきます。特に食料は大変貴重なものであったでしょう。彼らは戦利品を手に入れたり、おそらく大土地の所有者に申し出て、その地域の治安維持に協力し、必要なものを得ていたようです。

そこでダビデがナバルという人物に丁重に使者をつかわし、食料を求めましたが、酷い侮辱を受けます。このことが物語の発端です。人は侮辱に耐えることは難しいことを知っています。しかし、ダビデは侮辱に対する復讐から守られたのが今日のポイントです。

B.三人の人物についての観察

そのダビデが、ガテから更に30km西北西(エルサレムから東南東30km)のアドラムという町の外れにある洞穴に、難を逃れてやってきました。

この辺は、ユダの荒野と呼ばれる荒涼たる山岳地帯で、洞穴が多くあり、隠れるには絶好の場所でした。そこでダビデは、ごく限られた側近の者たちと一緒に、ひっそりと時を過ごそうと思っていたのです。

この場面で3人の人物が出てきます。侮辱を加えたナバル、侮辱されたダビデ、そして、この二人の間に立ってダビデの復讐を止めたアビガイルという女性です。これらの人々を順番に見ていきます。

1)ナバル(愚か者、の意)

ダビデをののしって、侮辱した人物です。

@非常な金持ちであったこと:マオンの町(死海の西側にありヘブロンとベエルシェバの中間)に住み、近くの町カルメルで事業をしていて、非常に裕福であったと書かれています。羊を3000頭、やぎを1000頭も持っていたのですから、大したものです。このマオンは、東側は死海までなだらかな傾斜地が続き、豊な牧草地を形成しています。

A愚かであったこと:知的な愚鈍よりも道徳的、霊的な愚かさと解説されています。また、頑迷で行状が悪かったとも書かれています。

彼のダビデの使者に対することばは、25章10-11節にありますように、

ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。

私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いの為にほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どものに、くれてやらなければならないのか。

というものでした。

彼の傲慢さ、非礼さ、利己主義、他者を思いやることのない非情な心が遺憾なく発揮されています。25章14節にあるように、使用人たちも彼の言葉遣いを

・・・ご主人は彼をののしりました。

と証言しています。これは「金切り声を上げる、わめき散らす」との意味です。

悲しいことに私たちの周りにも、このようにはっきりとののしる人は少ないかもしれませんが、陰湿な中傷(Back Biting)や無視というさげすみの態度を見ます。それが人をどんなに傷つけているか、本人は一つも分かっていないというのも現実です。まさに人を傷つける言葉のお手本がナバルの言葉です。侮蔑と中傷とさげすみで溢れています。この様な意味でのお手本にはなりたくないものです。

ダビデが直ちに剣を帯びて力でナバルに復讐しようとしたのも当然です。人の世は常にこの様に非情な態度を取る人がいるのです。悲しいことです。

2)ダビデ

保護を与えたことを感謝もされず、かえって侮辱されました。彼は、

私が荒野で、あの男の持っていた物をみな守ってやったので、その持ち物は何一つなくならなかったが、それは全く無駄だった。あの男は善に代えて悪を返した。

と言っています。

サウル王の迫害により放浪の生活をしていて、その上彼を慕う人々が600人もいたのですから、その生活は大変であったでしょう(このことは前々回くわしく述べられています)。

ですから、彼は使者を遣わしてナバルの羊飼いたちを守った見返りとして、丁重にお祝いの食事を分けてくれるように願ったのです。それに対する返答が、

・・・このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。

私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いの為にほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どものに、くれてやらなければならないのか。

と言われたのですから、怒るのも当然です。困難な立場にいるダビデを、傷に塩を塗るように徹底的に侮辱するのは、ナバルにとって案外痛快だったかもしれませんね。このように言われたダビデに私は同情します。怒って当然です。25章34節後半にありますように、

もし、あなたが急いで私に会いに来なかったら、確かに、明け方までにナバルには小わっぱひとりも残らなかったであろう。

と言うのも無理はありません。ナバル家の皆殺しを示唆しています。しかし、神のみ心は復讐を止めよと言われるのです。ダビデを復讐の流血から守ったのがナバルの妻アビガイルです。

3)アビガイル(父は喜ぶ、の意)

侮辱した夫と復讐しようとするダビデの仲介者となって危機を救った女性です。

聡明で美人であったと書かれています。使用人の報告を受けて、事態の危機的なことをいち早く悟った彼女は、25章18節にありますように、

・・・急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア(約38リットル)、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個・・・

をロバに載せ、夫ナバルには何も告げずにダビデの元に急いで出かけて行きました。たっぷりすぎるくらいの食べ物です。急いでいます。ダビデ隊が攻撃する前に彼に会う為に急いだのです。

そして彼女の取った態度は、夫とは全く正反対の謙遜で、夫の罪を自分の罪と言い、贈り物もダビデの面子を失わないように従者たちに与えてくださいと言っています。そして、放浪者ではなく、未来の王としてその王朝が末永く続くこと、神の守りと祝福がある事を言っています。ナバルとは大違いです。

やはり神の選びをダビデに見ているところは、彼女が霊的な洞察力があったことが分かります。復讐を止めた彼女の理由は、ダビデが王になった時この流血が汚点とならないようにと警告していることです。大宴会で酔って上機嫌のナバルは、翌朝ダビデの攻撃予定があったことをアビガイルから知らされました。恐怖のあまり気を失って石のようになったとあります。25章38節にありますが、十日後、

主がナバルを打たれたので、彼は死んだ。

と書かれています。復讐は神の手によってなされたことがわかります。

C.おわりに

以上のように、きょう、私たちは、

@ダビデも言っているように流血の復讐は罪であること。

流血は争いの連鎖を生みます。

A復讐はしてはならないと禁止されていること

B復讐は私たちにではなく、神の手の中にあること を教えられます

アビガイルはキリストの雛形でしょうか。キリストの贖いの死によって、キリストは私たちの愚かさを全部御自分のものとされ、神に赦しやってくださいと祈ってくださいました。それゆえ私たちも赦されたものですから、ナバルのように傲慢になって他者をさげすむ権利はないのです。そうすることは死へと繋がるだけの生き方になってしまいます。

また、ダビデも自己義をたててナバルの悪に復讐してはいけないのです。復讐する権利はただ神にのみあります。ローマ人への手紙12章19節にありますように、

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

とあるとおりです。ダビデが

・・・私自身の手で復讐しようとしたのを止めさせたあなたに、誉れがあるように。

と言ったのは正解です。復讐は主の手に委ねて善を以って悪に打ち勝つ心こそ、復讐心から自由になった心です。この考えの基本には、レビ記19章18節のことばにありますが、

復讐してはならない。・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。

と神の律法の要約が、隣人愛にあるからです。悪をされても善をもって打ち勝ち、裁きを神に委ねることを知っているからこそ、自分で復讐しないで敵を愛することができるのです。

最後に、ローマ人への手紙12章20-21節を読みます。

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。善をもって悪に打ち勝ちなさい。

これがキリストの教えです。彼はそうしました。その力を私たちにも与えてくださいます。お祈りいたします。


Message by Hiroko Saoshiro,paster of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/September 17,2006