礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年9月24日
 
「アブラハムも、ダビデも」
ローマ書連講(13)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙4章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
 28  それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。
(ローマ4章3節)

 
はじめに
 
 
1.前回は、救いは信仰だけによること、しかしその信仰は律法を確立することを学びました。

2.今回は、その信仰義認と言う教えが本当に確かであることを、アブラハムとダビデの例を挙げて論証します。
 
A.信仰を義と認められたアブラハム(1-5節)
 
 
1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
 
1.アブラハムは行いによって義と認められたか?
 
 
ユダヤ人にとって、アブラハムは絶対的な存在です。パウロは、人間が義とされるのは信仰だけによるという主張を行った後で、それではアブラハムのケースはどうなるのか?と自問します。もしアブラハムが行いによって義とされたのなら、パウロの主張は崩れてしまいます。実際、ユダヤ人は、アブラハムは完全に神の命令を守った義人であったから、神に受け入れられた、と信じていました。もし本当にそうでしたならばアブラハムは、行いが良かったからと誇ることも出来ます。どうなのでしょうか?

聖書に通じていたパウロは、聖書の物語をきちんと説明して、その主張の正しさを弁証します。見事と言う外はありません。クリスチャンにとって、聖書の教えは最終的な基準です。どんな教えも、考えも、行動も、聖書がどういっているか、これで決まります。教会のあり方、伝道のあり方、家庭形成のあり方、どんな問題でも、最終の答えは、真面目なみ言葉の学びから来ます。パウロの態度に教えられます。
 
2.アブラハムは信仰によって義と認められた
 
 
ここで聖書を引用するのは、「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(3:21)、つまり、信仰によって義と認められるということは、旧約聖書に証言されている、という思想を引き継いでいるからです。

3節は、創世記15:6の引用ですが、その前から読んで見ましょう。「1 これらの出来事(アブラハムが85歳ごろ、甥のロトを救出する作戦を成功させた出来事)の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』 2 そこでアブラムは申し上げた。『神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。』・・・4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。『その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。』5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』 6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

アブラハムは、子供が生まれないまま85歳、妻サライは75歳になって、跡継ぎ誕生が絶望的になっていた状況で、神は、約束を与えられます。あなたの子孫は空の星のようになる、と。アブラハムは単純率直に、神の約束を信じました!これは驚くべき信仰です。

神は、アブラハムが単純に信じたことを大変喜ばれ、「アブラハムよ、お前の信仰はすばらしい。大合格だ!」と判子を押されたのです。
 
3.価値のないものに与えられる救い
 
 
この時アブラハムは、すべての点で決して模範的な人物ではありませんでした。15章の前の12章では、目前の必要のために約束の地を離れてエジプトに行ってしまいます。そこで、自分の妻を妹だと偽り、問題を起こしてしまいます。さらに16章では、ハガルという女性を側女として受け入れ、家庭問題を起こします。アブラハムはユダヤ人が一般に考えているような完全無欠な人ではありませんでした。神がアブラハムを救いなさったのは、ただただその単純率直な信仰の故でした。

アブラハムの行いの正しさのゆえに神が受け入れたと仮定すれば、その救いは、人間の善行への報酬となってしまいます。そうなると、アブラハムの救いは、神の義務履行となってしまいます。人間の救いは神の義務履行ではなく、「何の働きもない者」に与えられるものであり、「不敬虔な者を義と認めてくださる神の恵み」への信仰への答えとして与えられるのです。もちろん、アブラハムが何の働きも無い者であった、とは思えません。不敬虔であったとも思えません。でも、単なる真面目さ、真剣さでは、とても間に合わないほど、人間の本質は罪深いものです。ですから、その罪人のために死んでくださったキリストの贖いを信じる単純な信仰だけが私達を救うのです。
 
B.罪を赦されたダビデ(6-8節)
 
 
6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。8 主が罪を認めない人は幸いである。」
 
1.ダビデの義認も行いによらない
 
 
アブラハムの例だけですと、アブラハムは特別だ、という答えが返って来そうです。ですから、パウロはもう一つ、ダビデの例を挙げます。
 
2.詩篇32篇の背景と意義
 
 
詩篇32篇はダビデが、作った歌です。読みましょう。「1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。 3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇 32:1-5) 

1)ダビデの罪:ダビデは、イスラエル第二代の王様でした。神を畏れ、神に従った信仰の器でした。長い苦難の中を通りましたが、焦らずあきらめず、摂理の神を信じてその試練を耐え抜きました。王様になってからも、連戦連勝、信仰による勝利の道を進みました。しかし、晩年になって気の緩みが生じました。自分は戦いに加わらず、部下たちが戦っている最中に王宮で昼寝をし、昼寝から覚めた夕方、湯浴みをしている人妻を見てカーっと頭に血が上り、呼び寄せて不倫をしてしまいます。その人妻はバテシェバという女で、ダビデの忠義な家来であるウリヤの奥さんだったのです。バテシェバは身ごもってしまいます。さあ、何とかこれをもみ消そうと、ウリヤを戦場から呼び寄せて家に帰し、身ごもった子供がウリヤとバテシェバとの間に出来た子供であるかのような偽装工作をします。ダビデはDNA鑑定の技術は知りませんでしたから、こうやってごまかせると思ったのです。しかしながら、ウリヤは音に聞こえた堅物でありましたので、友達が戦場で戦っているのに、私だけのうのうと家に帰って妻と過ごすなどという不謹慎なことはできないと、頑固にも王宮に留まります。万策尽きたダビデは、戦場の司令官に手紙を書きます。「ウリヤを激戦地に送って、敵の手で葬るように」と。そして、事もあろうにそのウリヤに託して送るのです。ウリヤは死に、バテシェバはダビデの奥さんの一人として迎えられ、万事丸く収まったように見えました。しかし、聖書は言います。このことは、主の目には悪いことであったと(第二サムエル11:27)。

2)ダビデの苦悩:詩篇を再び読みましょう。「3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」こんな経験をお持ちでしょうか。他人の目はごまかせるかもしれない、でも神の目をごまかすことはできません。自分の良心をごまかすことも出来ません。ダビデは、この忌まわしいバテシェバ事件に蓋をして、自分も忘れようとし、他の人も忘れてくれることを期待しました。しかし、どっこいそうは行きません。彼の心は、おまえは忠義な家来を殺し、その妻を横取りし、国民を裏切ったとんでもないやつだ、という良心の呵責に呻き続けました。食欲は減り、夜も寝られず、半狂乱の状態に陥ってしまいました。神の御手が昼も夜も彼の上に重くのしかかっているのを感じながらの毎日でした。どうしたら、この良心の呵責から逃れられるのだろう、何か善いことをすればいいのか、それは全部試みた、でも出口がありませんでした。

3)告白と赦し:悩めるダビデに憐れみの手が差し伸べられました。預言者ナタンが神から遣わされ、譬え話という知恵ある方法でダビデの心を開き、開いたところで単純率直にダビデの罪を責めるのです。心の準備が出来ていたダビデは、その玉座から転がり落ちるようにひれ伏して自分の罪を率直に認め、告白いたします。それが、5節の「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」という言葉です。ダビデが告白したと言う「立派な」行動の故に赦されたのではありません。そう解釈すると、このパウロの強調を誤解してしまいます。そうではなく、「行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸い」がパウロの強調であり、ダビデの心情でもありました。それが、1節の述懐です。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」ダビデは何の善行も積まず、何の罰も受けないで、ただ神の憐れみによって赦されたのです。こんな幸いはどこにあろうか、ダビデは大感激してこの詩篇を歌ったのです。
 
C.義認は割礼の前(9-12節)
 
 
9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、12 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。
 
この部分は簡潔に通り過ぎます。要点は二つです。
 
1.アブラハムの義認は、割礼を受ける前だった
 
 
アブラハムが義と認められたのは、85歳のころです(創世記15章)。それからハガルを側女として受け入れたごたごたを経て、99歳の時にアブラハムは信仰の立ち直りを許され、神と新しい契約を結びます。そのしるしが割礼です。義とされるのが先、割礼は後になります。それが10節の「どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。」というパウロの説明です。そんなことどうでもいいではないかと、現代人は考えたくなります。でもパウロにとっては重大問題でした。
 
2.アブラハムは、ユダヤ人だけでなく全信仰者の父
 
 
この時間の差は、本質的な差を意味する、とパウロは言うのです。これは来週詳しくお話しますが、アブラハムへの祝福というものは、彼の信仰に倣うすべてのもの、私にもあなたにも、約束された祝福です。だから、信仰によって義とされたという経験も、すべての人が追体験できる恵みなのです。それに比べて、割礼を通して神の民となるという契約はユダヤ人だけに留まる。この二つには本質的な差がある、と言うのがパウロの論理です。

最後の12節が印象的です。アブラハムの肉による子孫・ユダヤ人も、その信仰を受け継いでこそアブラハムの子供であると言うのです。逆に言えば、割礼を受けて、自分はアブラハムの子孫だと思っているユダヤ人でも、アブラハムのような信仰を持たなければ、アブラハムの後継者とは言えません。私はクリスチャンホームに生まれた、だから自動的に神の祝福の中にあるのだ、という愚かな主張にも似たところがあります。私達は一人ひとり個人的な信仰をキリストに向けることによってのみ救われるのです。

もっとすばらしいことは、アブラハムの信仰に倣うものは、アブラハムの子として、アブラハムに与えられたと同じ祝福をまるごと相続するのです。これってすばらしいことです。創世記12章にアブラハムへの祝福の約束がありますが、これはそっくりそのまま、私達のものとなるのです。これを信じ切れますか。信仰者ならば信じられる筈です。遠慮しないで信じ、受け取らせていただきましょう。

数年前になくなったお年寄りがいました。娘さんが熱心な信徒で、たびたび教会に誘われ、集会にも出席していました。イエス様を信じる人は手を挙げなさい、という招きも何度も聞きましたが、拒んでいました。信じるだけで救われるなんて、そんな虫のいい話しがあるか、というのが彼の考えでした。実は、この方は中国で戦争を指揮し、色々な残虐な行動に責任がありました。自分では手を下さなかったけれども、部下たちがそういう行動をするのを止めなかったということでは大きな心の傷を持っていました。だから、信じるだけで罪が赦されるなんて、彼の正義感が承知しなかったのです。病床に着き、死を待つばかりとなったその時、イエス様の十字架の話をもう一度聞きました。イエス様が全部を背負ってくださったのだから、もう罪は赦されている、あなたのすることはそれを感謝して受け取ることだと聞かされたとき、単純に信じる気持ちになり、洗礼を受けて召天しました。その病床で歌われた賛美歌が「ただ信ぜよ」であったそうです。
 
終わりに
 
 
アブラハムは単純に約束を信じました。ダビデも神の恵みを受け入れて赦されました。パウロもそうでした。私達にとっても信仰だけが救いの道です。単純な信仰をもってキリストを受け入れ、信じ続けて進みましょう。
 
お祈りを致します。