プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年9月24日

試練を乗り越えるH
「悩む自分を励ます」

竿代 照夫牧師

サムエル記第一 30章1-6節

中心聖句

1Samuel  30:1-6 

ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、

そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。

ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。

ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。

ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。

しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

(サムエル記第一 30章1-6節)


A.はじめに−ダビデ、敵国に逃れる

サウル王の迫害を逃れてイスラエルの辺境地帯を転々と逃亡生活を続けていたダビデは、その移動に疲れ、また、逃げ切れる自信を失い、外国に逃れる決心をします。

その外国とは、イスラエルにとって長年の宿敵であり、隣国でもあるペリシテの地です。因みに、いまパレスチナという言い方でイスラエルとその周辺を呼んでいますが、その語源はペリシテから来ています。

一ヶ月前、ダビデがペリシテのガテという町に逃れて捕まりそうになり、気が狂った真似をして危うく逃れたお話しを聞きました。今度は、27章1-2節にありますように、ダビデはそのガテに行くことにしたのです。

ダビデは心配だったと思いますが、意外と暖かく迎えられました。ダビデの人間性が評判を得ていたことも一つ、ダビデが敵国の王様に憎まれていたこと(敵の敵は味方と言う理屈で)も一つ、また、ダビデの仲間が600人と、さほど脅威ではなかったことも一つの理由でしょう。

B.ガテで、比較的平和に暮らす

ダビデはガテの隣の小さな町ツィケラグを与えられ、そこで平和な日々を送ります。平和と言っても、南のアマレク人とか遠いところに出かけて略奪行為を行って生計を立てていたのですから、あまり自慢の出来る話ではありません。序ながら、聖書は正直な本です。光の部分だけではなく、こうしたダビデの影の部分も記述しています。

そのころ、ペリシテの軍勢とイスラエルの軍勢は、全面的な戦争に突入します。戦いは北方のギルボア山を主戦場として行われます。

編者注:当時の地図をご覧いただけるようにしました。メッセージの参考になれば幸いです。(表示するには、ここをクリックして下さい)

ダビデは微妙な立場に立たされます。ちょうど日米戦争が起きたときにアメリカに移住していた日本人と似た立場です。その微妙さのゆえに戦線から去るように言われ、複雑な思いを抱いてツィケラグに戻ったときに聞いたニュースに衝撃をうけます。

C.敵に襲撃され、家族を奪われる

ダビデの留守中に、アマレク人がツィケラグを襲って、ダビデの妻子は勿論、他の家来たちの妻子、財産と呼べるもの、全部をきれいさっぱりと略奪してしまった、そしてその町全体も焼き払われていたのです。先週聞いたばかりと思いますが、彼の聡明な妻であるアビガイルだけでなく、他の妻も子供たちも連れ去られました。ダビデにとってこんな大きな悲しみ、痛みはありません。

こんな出来事は昔話としか思えないと感じる世代の方もあるでしょうが、私達の親たちはまさにこのようなことを経験しました。

また、私達がおりましたケニアにおいても、1980年代の終わり頃キクユ族とカレンジン族との深刻な対立がおき、カレンジン族の居住地に移住していたキクユ族の部落が全部焼き討ちに合うという出来事を間近に見ました。他人事ではありません。

D.大きな悲しみと痛み

家族を一時に奪われるほどの悲しみは大変なものです。皆さんも想像できなさることでしょう。

先月25日夜、福岡市で、一度に三人の子供が交通事故によって水死するというニュースが大きく報じられていました。

飲酒運転による惨事で、加害者の勤務先(福岡市)の信頼が失われただけでなく、市長自らが飲酒運転撲滅運動の先頭にたつということに発展しましたが、遺族の皆さんにとって、察するに余りある苦しみです。

実際から言うと、ダビデたちが常々行って略奪行為の仕返しを受けただけですから、自業自得と言えばそれまでですが、そんなことを考える暇もなく、家来たちは悲しみに沈み、嘆きました。4節には、

ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

とあるほどです。

泣くだけ泣くと、今度はそれが怒りに変わりました。今まで忠誠をもってダビデに仕えていた家来たちが、頭と仰ぎ、親とも思っていたダビデを殺そうとまで言い出したのです。ダビデは慌てました。ただでさえ自分の家族が奪われた悲しみでいっぱいなのに、家来たちがクーデターを起こすとは、とダビデは悩んだのです。これは今まで色々な試練を乗り越えてきたダビデを襲った一大ピンチです。

E.神によって自分を励ます

そのダビデに一大転機を与えたのが、6節の言葉、

しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

です。

この6節ですが、英欽定訳(King James Version)を見ますと、David encouraged himself(in the Lord his God).となっています(※)。

へブル語はchazaq(be stong)という動詞の強意・再帰形で、英語にするとencourage self firmlyです。砕いて言えば、

ダビデよ、おまえは何故落ち込んでいるのか、しっかりしろ、神様が一緒にいてくださるではないか。

とダビデが自分に向けて励ましている姿です。同じような言葉が詩篇にあります。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

と詩篇42篇11節にあるように、落ち込んでいる自分を、あたかも外側から眺めるかのように別の自分が励ましている、そういう姿です。自分を外の視点から見る、これが出来ると問題解決が始まります。

さらに、ここでダビデが「彼の神」によって励ましたことがかぎです。ダビデは神を自分の神として個人的に捉えていました。誰かの神でなく、私達の神でもなく、自分の神と捕らえていたのです。ダビデが作った詩篇23篇1節には、

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

とあります。私の羊飼い、というふうに個人的なお方として捉えたその神との関係の緊密さが、この一大ピンチにダビデを救ったのです。

(※)編者注:国際訳(New International Version)では"David found strength in the Lord his God."、新アメリカ標準訳(New American Standard Bible)では"David strengthened himself in the Lord his God."となっています。

F.戦いに勝利を得る

その後どのようにダビデが戦い、奪い去られた家族と持ち物を取り返したかは、7節から18節に詳しく記されています。今日は詳細を省略します。

ともかく、悲しみに打ちひしがれ、疲れ切っていたダビデとその仲間ではありましたが、主の励ましによって必死の追撃を行って、無事目的を果たすことが出来ました。

途中には、不思議なような神の導きがあって、略奪隊にたどり着き、飲めや歌え、のどんちゃん騒ぎをしている隊を襲って、難なく妻たちと子供たちと所有物を取り返すことが出来ました。

G.おわりに−私達も!

今日私達のうちに、仕事のことでも、家庭のことでも、健康のことでも、自分の性格のことでも、何が問題の分野であれ、落ち込んで、励ましを必要としている人はいらっしゃいませんでしょうか?

おそらく、私達みなが励ましを必要としていると思います。では誰に励ましてもらえばいいのでしょうか。

ご家族でしょうか。友人でしょうか。それともカウンセラーでしょうか、牧師でしょうか。それもいいでしょうが、

神によって自分で自分を励ます

という方法を試みてみませんか。落ち込んでいる自分を一方に置いておいて、神の力と恵みを知っている他方の自分が語りかけるのです。

どんな言葉でも結構です。やってみましょう。必ず違いが分かります。お祈りします。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior paster of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/September 24,2006