礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年10月1日
 
「望み得ない時に望みを」
ローマ書連講(14)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙4章13-25節
 
 
[中心聖句]
 
 18  彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。
(ローマ4章18節)

 
はじめに
 
 
前回は、救いは信仰だけによること、それがアブラハムとダビデの経験によっても立証されていることを学びました。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」(ローマ4:3)今週は、そのアブラハムの信仰をさらに深く学びます。
 
A.信仰によって世界の相続人となる(13-17節)
 
 
13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。15 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
 
1.アブラハムは、世界の相続人となった。
 
 
アブラハムには、大きな約束が与えられていました。それは「世界の相続人となる」という約束です。何かスケールの大きな話しですね。私の存じ上げているある人が、突然見知らぬ人から手紙を貰いました。「あなたのお父さんが小さな土地を田舎の方に残して亡くなった。あなたは法定相続人であるので、所定の手続きを経て、その土地を受け継いでもらいたい。」という内容でした。その人のお父さんは、お母さんと離婚していて、ずっと別々に住んでいましたから、一つも相続財産を期待していませんでした。固定資産税もかからないような片田舎の猫の額ほどの土地でも、貰うことは嬉しいことだ、とその人は言っていました。まして、この世界をそっくりそのまま相続財産として頂くと言う事は何たる大きな約束でしょうか。アブラハムの場合、それは何を意味したでしょうか。

創世記12:3に、「地上のすべての民族は、あなた(アブラハム)によって祝福される」と約束されています。また、17:5には、「わたしが、あなたを多くの国民の父とする」と約束されています。アブラハムという名前は、「多くの人々の父」という意味なのです。ついでに、アブラムとは、「高揚された父」という意味です。実際アブラハムは、ユダヤ人にとって肉の先祖です。アラブ人も彼を先祖と考えています。したがって世界のイスラム教徒も、彼を父と呼んでいます。クリスチャンも信仰の父と考えています。全体を合わせると、地球上の半分以上の人々が、アブラハムを父と仰いでいる訳で、この約束は、空文ではありませんでした。
 
2.それは律法によらず、信仰によった
 
 
こんなに大きな約束が与えられたのは、アブラハムが律法を守ったからではない、とパウロは言います。実際、モーセの律法が与えられたのは、アブラハムの四百年以上も後でした。さらに、アブラハム自身、信仰によって義とされたのは、神の民となるという契約の徴として割礼を受ける14年も前のことでした。パウロは何を言いたいのでしょうか。アブラハムが神に受け入れられたのは、その真面目さのためでもなく、完璧な性格によるのでもなく、ただひたすら神により頼む信仰によってなのだ、ということを(やや、回りくどいような言い方ですが)言っているのです。
 
3.アブラハムの信仰に倣うすべてのものが祝福を受け継ぐ
 
 
アブラハムが、ただひたすら神の恵みにすがり、その約束を信じる信仰によって神に受け入れられ、祝福の約束を与えられたとすれば、彼と同じような信仰を神に向けるものが、アブラハムと同じ祝福の約束を受けるのは当然ではないか、とパウロは論じます。15節に「アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。」というのは、この趣旨であります。正にその通りですね。

それは、別な角度から言うと、アブラハムの祝福は律法によるもの(つまりユダヤ人)だけではなく、彼の信仰に倣うすべての者たちに受け継がれるのです。壮大な話ではありませんか。先週もお話しましたように、アブラハムへの祝福の一つに「あなたを祝福するものは祝福され、あなたを呪うものは呪われる。」というくだりがあります。これ一つを確信するだけで、クリスチャンは不必要な思い煩い、思い過ごしから守られ、平安が与えられます。誰かが遠くに立って、あなたをちらちら見ながら第三者と何やら話し込んでいると仮定しましょう。アブラハムへのこの約束を信じていない人は、疑心暗鬼になります。私のこと何か噂しているのではないだろうか、本当だったらいやだし、嘘としたら何か弁明しなければ、などと考えてしまいます。すれ違った人が、顔を顰めただけで、落ち込んでしまう、などという人もいませんか。アブラハムの祝福への信仰が足らないのです。私を祝福する人なら祝福を受け、私を呪う人がいれば、その人は神から罰を受ける、そう確信すれば、何を思い煩う必要がありましょうか。私は余りに脳天気でしょうか。そうではないと確信しています。
 
B.アブラハムの信仰の特色(18-22節)
 
 
18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
 
1.アブラハムは復活の神、無から有を生み出す神を信じた
 
 
18節からひとつの文節が始まるのですが、その前の17節に触れます。「彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」とは、何を意味するのでしょうか。アブラハムは死者を生かす神を信じていたのでしょうか。答えはイエスです。後になってですが、自分の子供、正妻の子であるイサクを生贄としてささげなさい、という神の命令を受けたとき、アブラハムは殆ど躊躇の色を見せず、神に従いました。子供を殺したら、神はイサクを通して与えられる子孫が増えるという約束はだめになってしまいます。イサクを生贄にしなさいというのも神、イサクを通して子孫を増やすというのも神、同じ神が矛盾した命令をだすなんて、と悩む前に、アブラハムは一歩飛躍したのです。私がイサクを殺したとしても、神は不思議な方法をもってイサクを復活させてくださるに違いない、と信じたのです。この復活信仰こそが、イサク献納物語の核心です。

「無いものを有るもののように呼ぶ」とは、砕いていいますと、「何もないところから何かを生み出す」ということ、つまり、創造の業と関連しています。神が天地を造られた(創世記1:1)というときの動詞「造る」は、正に無から有を生み出すバラーというヘブル語から来ているからなのです。

アブラハムの場合、胎の実を確認できない状態のときに、既に子供が生まれ、多くの民族がそこから生じたかのように、神は彼らを「呼び」なさったことを指しています。無から有を生み出す神の創造の力を示す表現ではありませんか。この創造の主が、今も変わらず働いておられるのです。私達が神を信じるというとき、私達の努力にプラスするサムシング程度のものと信じていることはないでしょうか。これは本当の信仰ではありません。信仰とは、常識の延長ではなく、無から有を生み出しなさる創造の神を信じることなのです。
 
2.アブラハムは「望みに逆らって」信じた
 
 
さて、18節に移ります。アブラハムは「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」。この部分について、私は英訳が好きです。…who against hope believed in hope(望みに逆らって望みのうちに信じた)となるでしょうか。ギリシャ語本文でも hos par elpida ep elpidi apisteussen (who against hope in hope believed)となっています。砕いて言いますと、「常識的に持ちうる望みに逆らい、神に望みを置く望みをもって信じた」ということです。アブラハムの場合、最初に信じたのは85歳の頃で、自分も高齢、妻も高齢という状況にも関わらず、子供が与えられるという神の約束を信じたのです。通常私達が希望を持つのは、色々な状況が好転しているときです。経済で言えば、失業率が減り、所得が上がり、収益率が上がり、株価が上がりというような指標が上向きになったとき、経済の先行きは明るいと専門家は言うでしょう。しかし、これらは目に見える望みです。ローマ8:24には、「目に見える望みは、望みではありません」と記されています。本当の希望は、希望的に見える状況の観察から来るものではなく、神への信仰から来るべきものです。
 
3.神の約束に基づいて信じた
 
 
神からくる希望の根拠は、神の言葉です。神は信じるのに値するお方です。信という漢字は面白いですね。人偏に言葉と書きます。ある人の言葉を額面どおりに受け取るということなのでしょう。残念ながら、私達は互いの言葉を額面どおりには受けません。誉め言葉を聞いても、何か裏があるのではないかと疑り、必ず致しますという約束は半分くらいにしか信じません。人の報告も、かなりの程度誇張が入っているなと想像します。実に私達は、信じている振りをしながらも、本当には信じていない社会に住んでいます。ですから、神の言葉でさえも、そうなればいいなあ、実現不可能かもしれないが努力目標としては素晴らしいなあ、という程度に割り引いて聞いてしまう傾向があります。

しかし、神においては違います。神の言葉は、力があり、真実であり、より頼むのに値するものです。神が「光あれ」と宣言されると光が生じるのです。アブラハムの偉大さは、常識や経験を遥か超えた約束ではあっても、それが神の約束であれば、必ず実現すると単純に信じた点にあります。常識の延長が信仰ではありません。信仰は常識を超えたところにあります。
 
4.絶望的状況を認めつつ、ますます信仰が強められた
 
 
さて、85歳のとき信じたまでは良いのですが、妻のサライには、一向に妊娠の兆候は出てきません。普通ならば、そこで段々諦めるのですが、アブラハムは諦めません。状況が悪くなればなるほど、その信仰は弱ることなく、却って強められていったと聖書は語ります。アブラハムが現実から目を背けて、闇雲に信仰という殻に閉じこもったのではありません。アブラハムは冷静に現実を見つめます。この「認める」とは、カタノエオー(正確に考える、観察する)という強い言葉です。チラッと考えたのではありません。

まず、年齢が百歳近くになっているという避け難い現実を見つめます。「自分のからだが死んだも同然であること」(=直訳は「殺された状態であること」)も認めます。奥さんの「サラの胎の死んでいること」も認めます。よく、信仰だ、信仰だということを強調する人の中に、現実に目をつぶったまま、楽観的な現実と称するものを描いて自分に大丈夫と言い聞かせる人がいます。これは一種の現実逃避です。アブラハムは現実逃避をしていません。

アブラハムは、この困難を直視して、その結果信仰が弱りそうなものなのに、信仰が弱らず(=直訳は「揺るがされず」)、ますます強くなったのです。何故でしょう。それは、神の可能に目を留めたからです。神の誠実さにより頼んだからです。神の約束を疑わず、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。人間的に可能性を考えるとき、人間がこれだけ集まって何かが出来るかと考えるのが「可能性」です。しかし、神における可能性を考えるとき、神が何をなしなさるか、それがカギです。その神の御心が記されているのが聖書です。具体的課題について、御言葉による神の御心が確信できたら、もう問題は解決です。それがある限り、状況を乗り越えた信仰を持つことが出来ます。
 
5.アブラハムの信仰が義とみなされた(アブラハム自身も)
 
 
22節には、それが義と認められた、とあります。「それ」とは、信仰のことです。アブラハムの信仰が合格点を与えられたのです。「信じるものが義と認められる」という表現が3:26,28,30、4:2,5,6,11、5:1にありますし、同時に「信仰が義と認められる」という表現が22節の他に4:3,5,9,10,24にあります。義と認められるのは信仰者なのでしょうか、それとも信仰そのものなのでしょうか。私は、パウロがこの二つの言い方を交互に使っているのは、どちらも同じと考えているからであると思います。アブラハムの信仰は合格点を貰った(義とされた)、同時に信じたアブラハムもその欠点にもかかわらず義とみなされた、それは同じことの別表現であると言うことです。
 
C.信仰による私達も義と認められる(23-25節)
 
 
23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
 
1.キリストの事実にアブラハム的信仰を当てはめる
 
 
アブラハムのケースは、昔話としてあるのではありません。私達に直接関係がある話しなのです。アブラハムにとって信仰の問題はイサクの奇跡的誕生に関わるものでした。現代の私達にとって、信仰の問題は、キリストの死と復活に関わるものです。アブラハムが死んだような自分の体からイサクが生まれると信じたとき、その信仰が義とされたように、私達もキリストを死の中から甦らせなさる神を信じるとき、義とされる(救われる)のです。
 
2.キリストの死と復活の意味
 
 
パウロは、キリストが私達の罪のために死に渡され、私達が義とされるために復活されました。キリストの十字架が私達の身代わりであった、ということは割合素直に信じられます。しかし、もしキリストが私達の身代わりとして死なれた、それで終わりだった、と仮定しますと、罪は終わったかもしれないが、私達が義に生まれ変わる、その結果正しく生きることができる、という確信は生まれません。でも、神は、私達を義とするために、キリストを甦らせなさいました。キリストの死と復活はセットとして贖いの業を構成しています。そして、その贖いを信じるとき、私は義とされるのです。
 
終わりに:望みの持てない状況でも、主によって望みを持とう
 
「主と主のことばに」という讃美歌を持って礼拝を閉じます。皆さんの中に、現在望み得ない状況にぶつかって、将来を悲観している人はいませんか。人間的に考えて、なにもかも行き詰りだ、と思えるとき、実は、その時こそが神のチャンスなのです。主のことばをしっかりと握り、望みを持って信じましょう。
 
お祈りを致します。