プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年10月1日

試練を乗り越えるJ
「意地悪への対処」

渡辺 寛伝道師

サムエル記第一 30章22-25節

中心聖句

1Samuel 30:22-25 

そのとき、ダビデといっしょに行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らはいっしょに行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物を、彼らに分けてやるわけにはいかない。ただ、めいめい自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」

ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。

だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」

その日以来、ダビデはこれをイスラエルのおきてとし、定めとした。今日もそうである。

(サムエル記第一 30章22-25節)


A.はじめに−経緯

22節の「そのとき」という所からお読みしました。どうしてこのような状況になったのかを少しおさらいして始めたいと思います。

サウル王から逃れてイスラエルの敵国であるペリシテのアキシュのもとに身を寄せたダビデたちは、一つの町ツィケラグをもらい、そこに住んでいました。

しかし、ダビデの留守中にアマレクの襲撃に遭い、家族も皆連れ去られ、町は焼かれ、いっさいを奪われてしまいました。失意の中にあったダビデ追い討ちをかけるかのように、家来たちからも石で撃ち殺されそうになりました。ですが彼の神によって自分を奮い立たせる事が出来ました。

その後600人の兵と共に、アマレクのもとへ奪われたものを取り戻しに向かいました。彼らがベソル川まで来た時600人の内の200人が疲れて、ついて行けなくなりその場所に留まる事になりました。残りの400人は途中エジプト人に出会い、その人の道案内でアマレクの略奪隊を見つけ、アマレクが奪い取った物を全て取り戻し、さらに他の戦利品も得ました。

そして、ベソル川まで戻った時、残っていた200人と合流し、ダビデはその安否を尋ねた時、「そのとき」のことでした。

B. 事件

ダビデと共に戦いに行った400人の部下のうちの(意地の悪い、よこしまな者たちがみな)口々に文句を言い出しました。

彼らはいっしょに行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物を、彼らに分けてやるわけにはいかない。ただ、めいめい自分の妻と子どもを連れて行くがよい。

何となく、私たちのまわりでもこのような主張はよくあります。こういう主張をする人も珍しくないでしょう。自分の力を自慢する人の心には、不平や不満が表れやすいのです。明らかにここで、「意地の悪い、よこしまな者」と言われています。

C. ダビデの態度

ダビデと共に戦いに行った400人の部下のうちの(意地の悪い、よこしまな者たちがみな)口々に文句を言い出しました。

しかし、ダビデは、意地の悪い、よこしまな者たちに言いました。

兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。

だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。

ダビデは、意地の悪い、よこしまな者たちをこう戒め、神様の言葉を尊重し分捕り物を公平に分け合うよう呼びかけました。この教えは、民数記31章27節にもでてきます。

その分捕ったものをいくさに出て取って来た 戦士たちと、全会衆との間に二分せよ。

この日よりダビデはこれをイスラエルの掟と定めました。今でもイスラエルの人たちはこの事から、困った仲間に色々と助けの手を差し伸べます。

D. 意地の悪い、よこしまな者に対しての考え方

明らかに、ダビデとよこしまな者の間には、考え方の違いがあります。

ダビデ=共にみんなで分け合う。

反対に、よこしまな者=戦わない者には分けない。

よこしまな者の考え方を一般の考え方とするなら、ダビデのこの考え方は=神の国の考えと言えます。

この分捕り物は、

「主が私たちに賜わった物」

です。戦いに行った者たちの勝利の結果のように見えても、実は神様がダビデたちに与えて下さった物でした。ダビデとその兵士400人が戦って勝てたのも、神様の背後の援護のお陰、この戦いは、既に神様によって勝利が約束されていました。30章8節にありますように、

ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

といえるでしょう。

聖書には、ダビデは行った者も、留まった者も等しく分け合い、さらには、その他の世話になった友にも一部を与えたと書かれています。これは、「互いに愛し合う心」からの行為です。自分の事のように相手の事を考え配慮する考え方です。

私たちは、一般的な考えでしょうか?

それともダビデ的な考えでしょうか?

どの考え方をとるでしょうか?

E. 愛の心

ダビデの「互いに愛し合う心」の表れは、

@戦いに行った者と勝利の喜びをかみしめながら帰りつつ、ベソル川で待機していた者たちに真っ先にその安否を尋ねるところ。

A共に平等に分け合うところ。

Bその他にダビデと部下が彷徨い歩いた全ての場所の人々にもその一部を分け合ったことに見られます。

この愛は、単なる友情や恩返しではなく、神様から来る全き愛からでした。ダビデは、この戦いのきっかけとなった出来事を通して、神様に立ち返り、悲しみと恐れのどん底から、まことの神様によって自分を奮い立たせる事が出来ました。

神様の御手に縋るよりも、人間の手に助けを求めた結果、妻も、家族も全てを失い、自分の部下の怒りによって石で撃ち殺されそうになる恐ろしい試練の時も、またよこしまな者たちの非難にも動じず、恐れず正しい判断が出来たのも神様による全き愛をダビデ自身が取り戻したからです。新約聖書 ヨハネの手紙4章18節をご紹介します。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

人を非難するという(意地の悪い、よこしまな)行為は、ダビデの経験に限らず聖書の中にも多く見られます。

イスラエル人をエジプトから導き出したモーセも、民のつぶやきという非難の中を通りました。

ルカの福音書(新約聖書)にでてくる放蕩息子の父親も、その長男から非難を受けました。

イエス様もパリサイ人や律法学者、民衆の非難の中を通られましたが、皆、神様の愛に支えられ続けました。

F. 意地悪への対処

意地の悪い、よこしまな者に対する対処は、神様に立ち返り、常に神様の全き愛の中に歩み、その愛をもって、恐れず互いに愛し合う事です。神様の愛の中、神様の力を信じ喜ぶ者の心には、いつでも喜びと感謝、平安、弱い者への思いやりがあります。

地位も、名誉も、富も確かに一人一人がその立場で努力した事は事実ですがこれら全ては神様からの賜物である事を忘れては行けません。受けるにしても、他をないがしろにしたり、仲間はずれにするのではなく、共に喜び、共に分け合う心が大切です。その心で受けるべきです。

G. おわりに−−−平等に分け与えられる物として

22-25は、「共に等しく分け合う」が1つのテーマになっています。私たちが神様から賜るもので一番すばらしいものは「罪からの救い」です。ここでちょっとマタイの福音書をみますと、20章1-15節に「ぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人」のたとえ話があります。

1日1デナリの約束で、ぶどう園で働く労務者を朝早くと、9時ごろ、12時ごろ、15時ごろ、17時ごろにそれぞれ雇い、夕方になったので、 皆にそれぞれ約束の1デナリの賃金を渡した主人に対して、早くから働いていた者が文句を言いました。

「1日中働いた者と、残りの1時間だけ働いた者と、どうして賃金が一緒なのですか!!」。

「戦いに行った者と、行かなかった者と、どうして分捕り物を分け合わなければ行けないのですか!!」

と似ています。

「どうして?」と、一般的にはそう言っても不思議ではありません。(でも最初から1日1デナリとはっきり決まっていましたが。・・・)

1節にあるように、実はこれは天国のたとえ話でした。天国に行くには、働いてお金を稼いで買い取るのではなく、神様の恵み。一方的なご愛を、信仰を持っていただくことです。

主が私たちに賜わった物・・・共に同じく分け合わなければならない。

神様の下さる賜物の中で一番大切な物は救い(天の御国)です。そして、ダビデのように神様に立ち返ることが何よりもまず私たちに求められていることです。

神様の賜物である救い。これこそ、全ての人に平等に提供されているのです。私たちが意地悪(非難等)されても、また逆に私たちの心が意地の悪い、よこしまな心に負けないためにも、正しい対処をするために、神様がくださる「救い」が必要なのです。

私たちも、今回の箇所から神様が語りかけてくださっていることを、信仰を持って、互いに励まし、互いに助け合い、互いに愛し合い、歩みたいと思います。お祈りいたします。


Message by Hiroshi Watanabe,residenstial preacher of Nakameguro IGM Church

Compiled and edited by K.Otsuka/Octobar 1,2006