礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年10月8日
 
「神の愛が心に注がれて」
ローマ書連講(15)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙5章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
 5  私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマ5章5節)

 
はじめに
 
 
前回は、アブラハムの信仰について、特に、人間的な危機にぶつかっても揺さぶられず、神がご自分の言葉に誠実であり給うこと、その御言葉を成就する力を持っておられることへの単純で、堅固な信仰について学びました。主要テキストは「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。」(4:18)でした。

今日は、信仰によって義とされることがどんなに素晴らしいものかという中身のほうに進んでいきます。
 
A.義認の恵みの豊かさ(1-5節)
 
 
1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 
義認が齎すものについて、この文節では5つ述べています。
 
1.神との平和
 
 
キリストの贖いによって罪赦され、義とされたという経験が齎す第一の結果は、神との平和です。それまで疎外感があった神と人との間に和解が齎されました。もっと言えば神との親しい交わりが回復されたのです。アダムの物語を思い出してください。アダムが神の命令に背いて禁断の木の実を食べた後、神がアダムを呼びなさったのに対してアダムは身を隠そうとしました。自分が神の命令に背いているという意識が、その疎外感を齎したのです。そしてその疎外感は膨らんで行き、義なる神には近づけないという思い、神の裁きへの恐怖感に発展します。私達の身近な表現ですと、「悪いことをすると罰が当たるよ」という両親の教え方が身についてしまって、神様というと、こわーーい、厳しいお方だというイメージとなってしまうのです。これは一面大事な神観念です。しかし、この観念だけですと、神を喜ぶという経験や思想は遠くなってしまいます。

しかし、私達の罪が、それがどんなに大きくても、正当な手続きによって全く帳消しにされ、赦されたならば、私達は神の前に恐れず立つことが出来ます。そればかりか、神様を父と呼び、何でもお話しすることが出来る親しい関係に入れるのです。神との平和は、和解に導かれたという関係的なものだけではなく、それに伴う心の安心・平静さであります。高校生の時でしたが、私が罪を言い表して神の子とされた時、それまでの圧迫感から解放され、何よりもホッとした、という気持ちを持ちました。これを忘れることができません。
 
2.恵みへの接近(接見)
 
 
2節に、「この恵みに・・・導きいれられた」とこの経験を表しています。「導きいれられた」とは、直訳すると「導入を得た」となります。「導入」(プロサゴーゲーン)は、「導きいれる行為、紹介」という意味です。しかも、王様のような高貴な人に導かれて接見することを指しています。私達はキリストの贖いにより、その贖いへの信仰によって、恵みへのアクセスを得たということです。はっきり言えば、恵みの源である神へ導きいれられた、ということです。

私達は、人間社会の中で「偉い人」に会うときでも、ものすごく緊張します。私はケニアにおりましたとき、モイ大統領にお会いする機会が何回かありました。やっぱり緊張しました。でも、紹介者がありましたから、その紹介者の影にあってやや安心してお会いすることが出来ました。私達が近づくお方は、王の王、主の主、そして、限りなく聖いお方です。がたがた震えるのが当たり前です。でも、そこにイエス様が傍に立って、「この男は私が身代わりに罪を背負い、その心根まできよめたいい男です」と紹介してくださるのですから、恐れなく近づくことが出来るのです。考えれば考えるほど素晴らしい特権です。
 
3.栄光への望み
 
 
さて、今立っている恵みは、このようにすばらしいことなのですが、それがすべてではなく、これから受けようとしている恵みの前味わいかアペタイザーに過ぎない、とパウロは言います。

「テレビ朝日」のおかげで、ケニアの普通の子供達と一流のホテルで食事をしたことがありました。少年たちは、アペタイザーのビスケットとソーダに感激して、次から次へと飲み食いを始めました。私は、この後でおいしい肉料理が出るから、いい加減に止めておきなさい、と注意をしたのですが効果がありませんでした。メインディッシュが出た頃は、みんなおなかが一杯、眠気も一杯でダウンしてしまったのです。私達が、今の恵みを惜しみながら受ける必要はありません。今の恵みをたっぷり味わっていいのです。でも、これはやがて味わう恵みのアペタイザーなのだという将来への期待感を持つことも大切です。

さて、私達にとって栄光の望みとは何でしょうか。勿論、それは主の再臨です。キリストが再び来られて、世を治め給う、これに勝る望みはありません。私達個人にとってその日は、「キリストのありのままの姿を見」さらに、「キリストに似たものと」作り変えられるのです(第一ヨハネ3:2)。これは、来週持たれる聖化大会のテーマでもあります。講師のハリマン先生からは詳しいメッセージ原稿を頂いていますが、それを読むだけで本当に心踊る思いです。説教の原稿もですが、私達が望んでいる栄光を思うと、喜びに震えます。
 
4.患難に対する前向きな姿勢
 
 
将来に対する大きな期待は、現在経験している患難を喜んで受けるという姿勢を助けます。この患難は、定冠詞の複数形です。信仰者として直面している現在的なもろもろの患難を指しています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」これを矢印で表すと、こうなります。

< 患難 → 忍耐 → 練られた品性 → 希望 >

聖書で言う「忍耐」は、単なる我慢と違います。ここで忍耐と訳されている元のことばはヒッポモネーです。ヒッポとは下にという意味、モネーはメノー(留まる)という言葉の名詞形、直訳すると「何かの下にあり続けること」です。患難、苦しさ、戦いから逃げ出さないで、神とともに留まり続けることです。これは患難が齎す恵みです。

「練られた品性」と訳されたことばは、ドキメーといいます。ドキメーとは、ドキマゾー(試す)という動詞から生まれた名詞で、試して合格になったもの、合格となった性格という意味です。私達の信仰は、困難や試練というテストを経て、大丈夫と神から合格点を頂くことが出来ます。

「希望」については、先ほど述べました。試練という炉を経て残った希望は、単なる淡い願望とは違って、筋金入りの希望です。願望は失望に終わることがあります。ディープインパクトが凱旋門賞で優勝するかも、というのは願望です。でもメディアの皆さんは、願望を確信に変えるのですから、不思議な魔力をもっています。でも、その魔力も失望に終わりました。私達の希望は、キリストの事実に基づいていますから、決して失望に終わりません。
 
5.聖霊によって注がれる神の愛
 
 
希望の確かさの証拠は、私達の心に注がれた神の愛です。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」はっきり言って、私達の心に、聖書が語るアガペーの愛はありません。人間の愛は限界があります。見返りを求める愛です。価値あるもののみに注がれる愛です。その根底に自己中心があります。

しかし、神の愛は己を捨てる愛、価値なきものに注がれる愛、見返りを求めない愛です。どうしたらその愛を共有できるのでしょうか。それは、神によって作りかえられ、愛を注いでいただく以外にありません。コーリー・テン・ブームの証の中に、どうしても愛せない相手にぶつかり、微笑もうと思っても顔がこわばり、握手しようとしても手が縮こまってしまった経験を物語っています。その時、彼女は一瞬祈りました。「神様、どうか今、あなたの愛を注いでください!」神は祈りに答えて、電流のように彼女に愛を注ぎ、愛しがたい人に笑顔をもって握手をすることが出来たそうです。神は今も同じ業をしてくださいます。
 
B.神の愛の豊かさ(6-11節)
 
 
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
 
前の文節で述べた神の愛のすばらしさが詳しく述べられます。
 
1.受けるのに値しないものに注がれた愛
 
 
6節から10節までの中に、私達のかつての姿が4つの面から示されます。

1)弱かったとき(6節):この弱さとは、肉体的な弱さのことではなく、精神的・道徳的な弱さのことです。正しいことを行えない弱さ、悪いことを止められない、そういった弱さのことです。自分で自分を救うことが出来ないという弱さです。

2)不敬虔なもののために(6節):神を畏れない態度・言葉・思いのことです。私は神なんかいらない、という人はいませんか。キリストは、そんな人のためにも死んでくださったのです。

3)罪人であったとき(8節):聖書で言う罪とは、的を外すこと、あるべき姿から逸れてしまうことです。

4)敵であったものに(10節):神が私達を敵対視なさったのではなく、私達の側で罪の故に敵対関係に入ってしまっていた、ということです。

このような、愛する価値のないものに、神は愛を表されました。6節は「キリストは定められた時に・・・死んでくださいました。」キリストの贖いの死が、私達のためであったことを示します。このことは、正に、有りうべからざることです。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。」他人のために死ぬという美しい犠牲的行動は、ごく稀に起き、そしてそれがニュースにはなりますが、普通の状況では滅多にありません。百歩譲って、「情け深い人のためには」進んで死ぬ人がもう少し多くはいるでしょうが、それとても例外的です。ですから、誰かのために死ぬという行動は、本当に有り得べからざることです。それほど、私達の愛というものは、対象の価値・魅力によって生まれるものです。

そんな人間の愛と対照的に、キリストの十字架の死の意味が光ってきます。「8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」価値あるもののために死ぬことはあるかもしれないが、価値なきもののために死んでくださった、その恵みを思うとパウロの心は感謝で一杯となります。パウロ自身が、キリストに逆らい、教会を迫害していた人間だったからです。

神のこのように大きな愛が私達罪人を義とした訳ですから、その当然の帰結として、私達は神の裁きから逃れることを確信してよいわけです。神の裁きから逃れるとすれば、永遠の命に与ることも確かです。ここで言われているのは、救いに対する確信です。こんな価値のないものに表されたのが神の愛であるならば、豊かな赦し、永遠の命も確信してよいのです。私達の中に、どこか神の裁きを恐れている部分がありませんか。こんなダメ人間だから救われっこないと心の底でひねくれている部分がありませんか。神の愛の大きさに目をつけましょう。
 
2.神ご自身を喜ぶ(第一ペテロ1:8)
 
 
その神の愛の大きさに目を留めるだけではなく、神の愛を喜ぶ、神を喜ぶものとなります。神を喜ぶ、とは神が与えてくださったものを喜ぶということより、一歩進んだ交わりの状態です。神ご自身を喜ぶことです。

子供が小さいときは、クリスマスの喜びはプレゼントでしょう。誰がくれるかというより、プレゼントそのものが喜びです。でも大きくなると、そのプレゼントの送り主の愛を感じて感謝するようになります。もっと進むと、プレゼントなんかくれなくても、その人がいるだけで嬉しいという関係になります。ちょうど、心から愛し合っている夫婦のようなものです。

神との交わりを喜ぶ、神に聞くこと(御言葉に聞くこと)を喜ぶ、神に語りかけること(祈ること)を喜ぶ、神がどんなに大きなすばらしい存在であるかを喜ぶ、神のみ守りを喜ぶ、という経験です。すばらしい喜びですね。詩篇の作者が「私の最も喜びとする神」(詩篇 43:4)と語っており、また、ペテロが、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(第一ペテロ1:8)と語っている通りです。この喜びを味わうのは、本当に私達が弱かった、不敬虔であった、罪人であった、という深い自覚から生まれます。その感謝が、神を喜ぶバネになります。
 
終わりに:私達の信仰生活の動機は?
 
 
率直にお伺いします。あなたは、神を喜んでいますか。それとも、義務として礼拝に出席し、おつとめとして日々のデボーションを持ち、苦痛だけれども周りがやっているから奉仕をなさっていませんか。どうか、信仰生活の要素に義務感がひとかけらでもありましたら、それは、パウロがとらえ、私達に勧めている信仰のあり方ではありません。神を心から喜ぶものとなりましょう。
 
お祈りを致します。