礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年10月15日
 
「神の謙遜の道」
第一礼拝
 
ジム・ハリマン博士
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(通訳:竿代照夫牧師)
 
ピリピ人への手紙2章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
 6  キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
 7  ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
 8  キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)

 
はじめに
 
 
【聖書:ピリピ 2章1-11節】
1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 
人が全能者について考えようと試みるとき、彼は自分の心が有限であることに気付きます。疑いもなく、最も知的な人間であっても、神を類推することは不可能です。

パウロは、この考え方をローマ11:33、34の中で詳しく述べています。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。」というのは、私達は、誰にも比べることの出来ないお方について語っているからです。神の栄光や神の全体像について述べるのはとても無理であります。

しかし、私は一人の男が汚いローマの牢獄で、粗っぽい羊皮紙の上に身を屈めている姿をみます。聖霊の感動によってパウロは、マケドニア州・ピリピのクリスチャン達に宛てて手紙を書いています。迫害の傷跡がパウロの肉体に現れていましたが、彼は自分の救い主に対する奉仕の美しい徴と考えました。この男、パウロは全能者の姿を5〜8節の中に記しています。「5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」この言葉を聞いたら、一番頑固な罪人でも謙らせられます。

この御言葉を読むとき、私は、誰も想像できないような方法で、人類の救いを成し遂げようとなさった神の姿に感動を覚えます。神が人間の姿を取り、恐ろしい死に方をなさったという考えは、とても本当とは思えない物語です。それが真実でなければ、こんな話しを作り出すことはありえません。
 
前 提
 
 
天地宇宙とその中のあらゆる物を造られた神が、同時にご自身がその上で死ぬべき十字架を計画された事実をまず提示いたします。主は、人類を救うために謙遜の道を歩むことを選ばれた神です。

このメッセージを提示するに当たって、神が人と共同して行われる行動の絵を暫く置いておいて、神が嘗て行い、そして私のために、また、あなたのために今も行いなさる献身的行為という個人的側面から観察したいと思います。神の行為を観察し、そして、それを私達が歩んでいる道の光とし、彼の足跡に従うための動機付けとしたいと思います。

私達の信じている神は、謙遜の道を歩みなさったお方です。「それは一体何を意味するのか、何をあなたは言おうとしているのか?」と皆さんはお問いになるでしょう。私達がしなければいけないことは、神がどの様な所から降りてきてくださったかを見ることです。そうしますと、神が取りなさった道について、聖書の中で謙遜のパターンがあるかないかを言うことが出来ましょう。

神を正しく見るために、私は今まで私達が示唆してきた事柄を再強調しなければならないと思います。まず第一に、神が天地の創造者であるという聖書的神観念を認めねばなりません。
 
T.神は天地の創造者である
 
 
A.主権者・創造者
 
 
神のみが絶対主権を持ちなさいます。神は創造者です。イザヤはこのことを40章12節で美しく述べています。彼は、神について「手のひらで水を量る」方として表現しています。丁度、全能者をして七つの海をその手のひらで量っておられるかのように擬人化している訳です。しかし、イザヤは、それ以上に進んで、「手の幅で天を推し量る」方であると述べています。

序ながら、私の手幅は22cmです。そして、15節では、諸国民と神とを比較し、「国々は桶の一しずく、はかりの上のごみ」であるといっています。空っぽのバケツに雨粒が一滴落ちてきたと想像してください。その一滴くらいの大きさが、神との比較におけるアメリカ合衆国なのです。創造者なる神の大きさはそのようなものなのです。
 
B.三位一体の神
 
 
神は創造者であるだけではなく、三位一体の神です。この事実は、このメッセージを進める前に、はっきりと確認しなければなりません。ご存知のように、神はご自身の中で自己完結的なお方でありましたし、今もそうであられます。

神によって造られたすべてのものは、自己完結的である神ご自身から溢れ出たものと見ることができます。神は交わりの神であるということが出来ます。というのは、三位一体とは、交わりを意味しているからです。天において御使いたちが造られるよりずっと前に、父なる神は子なる神、聖霊なる神と交わりを保っておられました。神は言い表すことが出来ないほどの栄光の輝きの中におられました。神が人間を創造なさったのは、寂しかったので自分を慰めるためになさったというのではありません。反対に、神は私達が今日見るすべてのものを、ご自身の内側に持っておられた躍動的な交わりから溢れ出たものとしてお造りになりました。

特に、人間をお造りになったとき、神は被造物のレベルまで降りてきてくださり、日の涼しい頃、人とともに歩みなさいました。
 
C.創造の前の「会話」
 
 
さて、私達が話しを進める前に、人間を創造し、星々を宇宙空間に散りばめる前に何が起きたかを忘れることは出来ません。

これは想像の域を出ませんが、こんな会話が三位一体の神の間に交わされたことでしょう。「さあ、人間というものを造ろうではないか」すべてのことを最初から知りなさる神は、人間の堕落についての予知をもっておられたことでしょう。そして突然、贖いの計画について話し始まったとき、会話の中に厳粛な瞬間が訪れました。子なる神が父なる神と聖霊なる神をご覧になって言われました、「もし私達が人間を自由意志を持ったものとして造るのならば、人の贖いのために私が代価を払いましょう。」と。そしてその厳粛な決定がなされたのです。黙示録13:8には、世の基が置かれる前からほふられていた小羊について記されていますように、キリストの贖いは、後から考え出された方策ではなく、最初から練られていた計画だったのです。

兄弟たち、創造の始めから、神は人間を救うために下向きの謙遜の道を取る決意をしておられたことを覚えましょう。

人間の堕落をご覧になるのに、永遠の神が、高いところからそれをご覧になって、我関せずという態度を取りなさることは、如何に容易であったことでしょう。天こそは神の御住まいであり、御使いたちが神の思うまま彼に仕えていました。ですから、人間ごときの問題で、何で手を汚す必要がありましょうか。

創世記6:6は、神が人間を造られたことを後悔なさった、と記していますが、その神はご自分の決意を貫き、被造物のレベルに降りてきて、「その手を汚し」なさったのです。

このようにして、長い苦難の歴史が始まります。

私達が聖書を読みますとき、次の事実を認めないわけにはいきません。つまり、創造の物語において神は、天から降りてアダムと共に歩んでくださっただけではなく、
 
U.旧約における神の謙遜
 
 
神は、旧約聖書の多くの箇所にその歩みを伸ばしなさり、ご自身を人に現しなさいました。栄光の神が人間存在のレベルにまで降りてきてくださり、ゆっくりとではありますが、ご自分の性格を啓示なさいました。そしてそれは、なんと痛みの伴う課程であったことでしょう。
 
A. 人間の神への反逆
 
 
神が人間との接触を始めなさったその時点から、神はあらゆる側面での反抗に会わねばなりませんでした。

アダムとエバの堕落からカインとアベルの物語、そして洪水に至るまで、創世記のすべてのページは反逆の記事で埋められています。それでも十分ではありません。私達は、バベルの塔における半逆を見ます。それは、出エジプトにおいて、神の民が神の御心にことごとく背き、それを侮り、金の子牛の礼拝に至る姿を見ます。「神はどうして私達に我慢をなさるのだろう?」と疑問を抱かざるを得ません。そして、神ご自身も同じ疑問を抱きなさるだろうと思います。

というのは、聖書の中には、人間の反逆と罪深さの故に、神が落胆し、挫折して、全部をやり直したいと願っておられる姿を多く見るからです。神は地上に正しい人を捜し求めなさったのですが、ノアとその家族だけを見つけて、彼らを通してフレッシュなスタートをなさろうと思いなさったのです。

同じような失望感は、神がモーセに律法を与えなさったシナイ山でも見ます。その時、民は山の麓で刻まれた子牛を拝んでいました。「今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」(出エジプト記 32:10)

しかしモーセは国民のために神に訴え、彼らのためにとりなしをします。神は、人がその御心を変えることを許しなさいます。「そこで主は、その民に下すとおおせられた災いを思い直された」(出32:14)
 
B.神の人類救いの計画
 
 
しかし、私達のあらゆる反逆にも拘わらず、神は荷造りをして舞台から去ってしまうことはなさいませんでした。私達が受ける印象としては、神はどんな犠牲を払っても次のことを成し遂げようとなさったということです。

人間が堕落したとき、神はノアを通して再出発なさろうとした。

人間がその誇りの故に塔を建て始めたとき、神は彼らの言葉を乱して彼らを謙らされなさいました。

それから、神はアブラハムを呼び、彼を多くの国民の父とすべき契約を結ぶことによって再出発されました。

さらに、アブラハムの子孫たちを通して、エジプトの地において神がケアしなさる民を起こしなさいました。

ヨセフが神の民を守り、さらにモーセが彼らを約束の地に導いたかという物語は、みなさん良くご存知でしょう。

重ね重ね神に反逆したイスラエルの民をどのように神が扱いなさったかの物語を読むと、私達は目が回りそうになります。そこで神は彼らを神に戻すために、士師たちを送りなさいました。オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラ、ギデオン、あびめれく、トラ、ヤイル、エフタ、イブサン、エロン、アブドン、エリ、サムソン、サムエルがそれです。王たちがそれに続きますが、その何人かはとても罪深い王たちで、何が彼らの中にあったかを疑問に思うほどです。

しかし神は決してあきらめませんでした。次から次から預言者を送り、イスラエルの民をご自分の許に立ち返らせようとなさいました。しかし彼らは預言者たちを嘲笑い、馬鹿にしました。それらも、神は耐え忍ばれました。

なぜ、神は耐え忍ばれたのでしょうか。答えはこうです。神は、人類の救いの計画を決定しておられたので、ご自分を抑え、私達を贖うために謙遜の道を歩まれたのです。

結局神は、イスラエルの民を捕囚の憂き目に遭わせ、彼らが目を覚ますための懲らしめとなさいました。

フィリップ・ヤンシーがその著書でこう言っています、「神の失望というアイデアは、イザヤの生涯の中で、神がどのように感じなさったかを要約したものです。短い、しかし、洗練された文章が神の見方を要約します。『彼らの悩みのときには、神も共に悩みなさった。』と。神はその御顔を隠しなさったかもしれないが、かれの顔は、涙に濡れていたのです。」

それから、ぼろぼろになった帰還者たちがエルサレムの神殿や壁を建てました。しかし、それらはソロモンの栄光に比べて何という惨めなものであったことでしょう。

最後に、神は旧約聖書を閉じ、約四百年の沈黙期間が訪れます。しかし、日の出の前には日没がなければならないように、神は旧約聖書を閉じ、新約聖書における次の段階の謙遜に道を譲られました。このようにして、旧約時代において、神がいかに人間の現実世界の中に降りてきてくださった事実を見ました。
 
V.新約における神の謙遜
 
 
さてこれから、私達は新約聖書における、神の人間的な存在の状況へと進んでいきます。
 
A.神の受肉
 
 
三位一体の第二のメンバーである神の受肉が宇宙を驚かせた事実を見ます。

天の御使いたちがそれを聞いたとき、彼らは言葉も出ないくらい驚きました。きよい神ご自身が人間のレベルに身を低くし、被造物の一人になられるとは!

悪霊たちもサタンも創造者がそのご計画を示し、誰もが見ることのできる人間となられたことをとても信じられない気持ちで眺めていました。
 
B.神がマリヤの子供になられた!
 
 
神が旅をなさった謙遜の旅の距離を見てください。 もう一度言わせてください。神がマリヤの子供になられたのです!

1996年7月22日、私の子供のアイザックが生まれました。午前7時53分、体重4キロ、身長51cmでした。すべての乳幼児は弱い首の筋肉と小さな口を持って、ひたすらミルクを飲みます。アイザックが生まれたのは、月曜日で、木曜日には家に帰りました。そして金曜日には当時4歳であった姉のダイアナが弟を持ち上げ、肩に背負ってぶらぶら揺らしました。アイザックの頭が前に後ろに揺り動かしました。これには肝を潰しました。幼子は全く助けなきものです。

みなさんは、全能者がそれ以上に進まれた程度を信じることが出来るでしょうか?
 
1.貧しい階級に生まれなさった

イエスは、マリヤの子として生まれました。それは、どんな社会階級の人であっても、「あの人は私とは別格だ。なぜなら、かれは貴族階級にうまれたから。」と指差すことのないために。そうです。かれは貧しい生まれでした。ユダヤ地方の山際に掘られた洞窟の中で生まれなさいました。今の状況にたとえると、臭い、小さな牛舎です。女中さんも、執事も、運転手もいない状況です。

アレキサンダー大王ならば、そんな物語は一笑に付してしまうでしょう。ローマ帝国の皇帝たちもそうでしょう。英国の王様たちも「そんなことは信じられない」というでしょう。どの国の政治指導者も、「僕はそんなのいやだ。」というでしょう。

しかし、キリストはそうされたのです。謙遜という下降のステップを取られました。それはコルカタの物乞いであっても、彼を見て望みを抱くことが出来るようにとの意図からでした。ヤンシーは独特の方法で、イエスの誕生を表現します。「御子は動物たちの間に夜、生まれなさった。動物たちの暖かい息と、湯気の立つような糞の只中で。そしてその夜の光景は決して再現されなかった。神を信じるものは、再現されるような形で信じるわけではない。彼らが馬小屋を一度でも見るならば、イエスがこれからどれだけ更に謙遜の道を歩まれるか、人間の救いのためにどれだけ低くなられるか、想像も出来ないに違いない。」(「神への失望」より)

2.言われなき非難

キリストは貧しさの中に生まれたというハンディだけではなく、私生児として生まれたという烙印を押されながら成長したのです。この言いがかりは、キリストが成人になっても付きまといました。ヨハネ8:41を見ると、パリサイ人が、イエスを不品行の結果として生まれたと非難しています。これこそが、天の神が選ばれた道でした。それは、遊女の子供たちであっても、キリストの中に希望を見出すことが出来るためです。

こうした生い立ちのハンディは別として、彼の容貌に、何か魅力的なものがあったでしょうか。神が私達の真ん中におられるという印象をあたえるような概観があったでしょうか。この点でも、全能者は、人間的な肉体美を備えなさることはありませんでした。オリンピックのランナーは、人間の肉体美を具現しています。私達が彼らを見ると「ワオ」と叫んでしまいます。私達のうちのあるものは他の人々よりも有利な点を最初から持っています。確かに、神はご自身をかっこよい人間として現して、人々がこの人は指導者だと印象付けることも出来なさったはずです。

イエスの取られた謙遜の外観を750年前に幻で見たイザヤは、彼はビューティコンテストのために生まれたのではない、と言い切りました。事実、彼はわざとこの醜い人として生まれました。それは、地上のすべてのものが彼を見て、将来に対して希望を持つことができるようにとの配慮の故でした

イザヤは、53章においてこのようにキリストを紹介しています「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(2,3節)特に、英語の新欽定訳では、「ビューティは一つもなく・・・」と翻訳しています。彼は、ハリウッドタイプのハンサム男ではありませんでした。仮に、イエスの時代にナザレの町を歩いたとしても、目立った存在としてのイエスを見つけることは不可能でしょう。

もっと言いますならば、キリストは、その生涯において嘲笑、不信、反対に直面し、悪魔からの厳しい誘惑に曝され、彼が最も助けを要した危機の時に彼の友に捨てられたのです。

さらに、キリストは尊厳をもっての死に方ではなく、極悪人のために取って置かれたような死に方をなさいました。彼はその姿が醜くなるほどの懲らしめを受け、そして木の十字架に釘付けられました。このような死に伴う辱めとは、社会の最下層の人々のためのものでした。私達の時代に当てはめると、電気椅子による死刑のようなものです。「ああ十字架、ああ十字架・・・」と歌う代わりに「ああ電気椅子、ああ電気椅子・・・」と歌ったら、おぞましいことです。イエスは、そこまで私達のために降りてきてくださったのです。

それから、キリストは借り物の墓に埋葬されました。ドッティ・ランボの歌がここを良く物語っています。「彼は、彼の行く先は寂しいゴルゴタの丘であることを知りながら天の輝きを去り、そこで私のために命を捨てられた。もし愛がなければ、海は干上がり、空には星がなくなり、雀も飛ぶことはないだろう。愛がなければ、天国は神話に過ぎなくなってしまう。こんな歌だって歌えなくなる。」受肉とは、神が下降線を取りなさる明確な第一歩でした。その下降線とは、謙遜の道でした。
 
終わりに
 
 
なぜ、神はこのような道筋を取りなさったのでしょうか。天における輝きから始めの人アダムと一緒に歩きなさり、そして、十字架の釘付けに至る道筋、それは神の謙遜の現れでした。
 
キリストは、私達に永遠の命に至る方程式を示して、それに従うようにと期待しておられるのでしょうか。

もしそうでしたら、私達は、この世の人生を傲慢と誇りを持って生きていく権利なんかがあるのでしょうか。

全能者が既に謙遜の道を歩かれたのです。私達がそれに従うのは当然でありましょう。ポール・アンカが作り、フランク・シナトラが歌った歌は「私はやりたいことをやった」というものでした。人々はスタンディング・オベーションをもってそれを歓迎しました。私達は上昇志向が大切と思っています。しかしそれは傲慢と誇りの道です。神が示しなさり、また、私達に期待なさっている道と反対の醜い絵です。

最後にご質問いたします。「あなたはどんな道を歩んでおられますか?」自分中心の道でしょうか?自分がやりたいこと、自分を満足させる、自己保身の道でしょうか?そうではなくて、聖霊は、自己中心主義や欺瞞からきよめぬいた心をもって歩むことを得させる働きをあなたのうちになさったでしょうか。謙遜の精神が皆さんの心に宿っておられましょうか?
 
お祈りを致します。