礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年10月22日
 
「恵みが支配する」
ローマ書連講(16)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙5章12-21節
 
 
[中心聖句]
 
 20  罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
 21  それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
(ローマ5章20-21節)

 
はじめに
 
 
前回は、信仰によって義とされることがどんなに素晴らしいものかを学びました。特に、「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(5:5)から、私達を赦し、作り変える神の愛が注がれていることを、感謝とうなずきをもって学びました。

今回は、もう一歩進んで、神の恵みの届く範囲について、パウロが述べていることに目を留めます。
 
A.罪の支配vs恵みの支配(12-16節)
 
 
12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
 
1.罪と死が入り込んだ
 
 
12節は「そういうわけで」から始まります。このそういうわけとは、これまで述べてきた罪と救いに関する真理の全てを語ったものです。すなわち、人は皆罪人であり、自分で自分を救うことが出来ないこと、神はその限りない愛の故に,御子キリストを世に降し、罪の全てを贖ってくださったこと、人間は誰でもただキリストの贖いを信じる信仰によってのみ救われること、更に、その救いとは、私達をキリストに似た品性に作り変える大きな動力を持っていることを全部ひっくるめた言い方です。パウロは,この宇宙大の戦いを,大将の有り方が決定する、といっているのです。

戦いというものは、多くの場合、敵の大将をどうやって討ち取るかが鍵です。数の上からは圧倒的に不利であった尾張の織田信長は、桶狭間で奇襲をもって今川義元の首を取り、天下の帰趨を決定したことは、あまりにも有名な実例です。

罪と死は、一人の人、人祖アダムによって人類に入り込んでしまいました。「入り」という言葉を使っていますが、これは、罪も死もアダムには異質なものであったことを示します。今は、罪を犯すことが人間性の中に組み込まれているような感がしますが、本来そうではなかった、ということを心に留めねばなりません。

この文節でパウロが言おうとしていることを捕らえるために、論旨を箇条書きにしてみました。

1)アダムにおける罪の始まり:アダムは、罪を犯したために死ぬべきものとなった。

2)罪と死が子孫に継承:アダムの子孫も、罪の性質を受け継ぎ、罪を犯すものとなった。

3)律法は罪意識を鮮明にする: 罪とは、律法によって意識されるものであるが、アダムからモーセにいたる(律法賦与以前の)期間の前に生きていた人々にも心の中には律法が与えられており、それに反する行為を行った罪人であることには変わりない。

4)罪は死を齎した:アダムからモーセにいたる人々も、その罪の故に死ぬべきものであった。

さて、ここでアダムの堕落の物語を復習しましょう。創世記3章をお開きください。

1節a:さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。<この蛇自体が呪われた動物ということではなく、蛇を通してサタンが働きかけてきたと新約聖書は解説しています(黙示録12:9)。>

1節b:蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」<ここにサタンの狡猾さが伺えます。神はこのような命令をしておられないのに、恰もケチ根性から禁断の木を定めたように、悪意への誘いを行っています。今日でも、XX教会の○○先生がそんなことを言ったのですか、という風に、悪意の注射をする人がいます。そして、こういう噂話は免疫の出来ていない魂には、実に効果的な注射なのです。>

2-3節:女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」<ここでも神の命令に関する歪曲があります。神は触れてはいけないとは言っておられません。死ぬかもしれないともおっしゃっておられません。必ず死ぬとおっしゃったのです。>

4-5節:そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」<神のように賢くなれる、これはなんという大きな誘惑でしょうか。これこそ罪の本質、自己中心主義、自己拡大主義そのものです。>

6節以下は読みませんが、神と人との亀裂は決定的なものとなります。そして、その結果人は「死ぬべきもの」となったのです。飛びまして、

19節:あなたは、顔に汗を流して糧を得ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」<これで死が人類に入り込みました。>

創世記 5:3「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。」<アダムの形に子供が生まれたと記されている箇所です。罪の性質もその子供達に伝達されてきました。>
 
2.恵みはそれを逆転した
 
 
罪が人類に入り込んできた過程と、恵みが入り込んできた過程とは類似点もあり、相違点もあります。

類似点:@一人の人によって齎された、Aすべての人に及んだ、Bその影響は深刻なものであった。

相違点:@恵みの齎すものは、溢れるばかりの神の賜物である、A恵みの賜物はすべての罪を帳消しにする、罪は小さなものであっても、神の裁きに相当する。
 
B.恵みの豊かな支配(17-21節)
 
 
17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
 
罪と恵みとの比較、というテーマが、この文節ではより深く考えられています。
 
1.恵みの支配はより深く広い(17節)
 
 
罪は一人によって全世界に広まったように、恵みもまた、一人の人(イエス・)キリストの行為によって、全世界に広がりました。アダムから人類が生まれたと同じく、キリストは、第二のアダムであり、信仰によって生きる新人類の創設をなさったのです。
 
2.キリストの贖いは義認を齎した(18節)
 
 
私達はキリストの贖いの故に、既に義と認められています(18節)。実は、18節の声明は、12節の「・・・と同様に」を受けています。12節後半から17節は、パウロ得意の脱線です。脱線ではありますが、貴重な脱線です。
 
3.罪が増加しても、恵みはそれら凌駕する(19,20節)
 
 
この言葉は、ノアの箱舟を連想させます。大雨が降って、水かさがどんどん増してきても、箱舟の中の動物たちやノアの家族は、全く心配が要りませんでした。箱舟の外側は防水加工がしてあって、水が漏れないようになっていました。ですから、水かさが増せば増すだけ、箱舟はうくことが出来たのです。私達の側で、どんな大罪を犯したとしても、主の恵みは常に豊かです。マナセというイスラエル歴史始まって以来の悪王がいました。そのマナセが一時捕虜の憂き目に遭ったのです。その時マナセは、大いに謙り、神に訴えました。神はマナセの祈りに答えて、彼を救い出されたと記されています。マナセの神は、憐れみに満ち、恵みにあふれ、その人の功績ではなく、その人の砕かれ方を見る方であることを教えてくれるものです。
 
4.恵みの賜物は、永遠の命(21節)
 
 
神の恵みの賜物は、永遠の命であります。永遠とはなにか、生命とはなにか、これまた大きすぎるトピックですので、次回以降に考察したいと思います。 
 
終わりに
 
 
恵みによって生きることは、クリスチャン生活の鍵です。私達は徹頭徹尾神の恵みによって救われ、活かされ、支えられ、導かれているものだ、ということを頭で分かっていても、実際の生活では、その観念は隅っこに追いやられて、結局頼れるのは俺一人だ、という感覚でビジネスを行ったり、家庭を切り盛りしたり、受験勉強をしたり、という具合に現実に埋没しがちです。わが恵み汝に足れり、とのたまう主を仰ぎましょう。主にのみ頼り、主にすべてをささげて、天国への道を進もうではありませんか。
 
お祈りを致します。