礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年10月29日
 
「キリストと共に死に、生きる」
ローマ書連講(17)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙6章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
 11  あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
(ローマ6章11節)

 
はじめに
 
 
前回は、神の恵みの届く範囲について、パウロが述べていることに目を留めました。罪の及ぶところはどこでも、どこまでも恵みが及ぶのだ、という驚くべき真理を学びました。今回は、この真理が生むであろう質問から始まります。
 
A.「罪の増す所に、恵みも増す」という真理の誤解(1-2節)
 
 
1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
 
1.クリスチャンは罪を犯し続けるのが当たり前か?
 
 
罪が増し加わるときに、恵みも加わる、という真理を明らかにした後で、パウロは心配になりました。もしそうならば、罪の中に留まるのも悪くはない、いや、積極的に罪をもっと犯せば、恵みが分かるようになる、という考え方をする者がいないだろうか、と。実際、そう考える人もいたようです。今でも、「クリスチャンといえども人間だから、罪を犯すことは仕方がない。およそ、罪を犯さない人間はない。」といいながら、「毎日罪を犯し、毎日悔い改めるという繰り返しが信仰生活だ。」と考えているクリスチャンが案外多くいます。聖書は本当にそう言っているのでしょうか。全く違います。ヨハネは、「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」(第一ヨハネ3:9)と語ります。ここで引用したのは新改訳第二版ですが、これは文字通りの訳ではありません。第三版は直訳に近く「罪を犯しません。・・・罪を犯すことが出来ません。」となっているのは大進歩です。第二版の訳者は、罪から逃れる可能性を信じ切れなかったのでしょう。私達は聖書を神の言葉と信じています。私達の経験としては難しいから、聖書の解釈を柔らかくしようと曲げてはいけません。聖書の水準に私達の経験が合うように祈るべきです。主はそれをなしてくださいます。
 
2.とんでもない!
 
 
さてパウロは、このような質問に対して、「とんでもない」「ぜったいにそんなことは有り得ない」と強く否定します。「絶対にそんなことはありません」という元のことばは、「メー ゲノイト」で、完璧な否定形です。パウロは言います。クリスチャンとは、罪に対して死んだ人のことを言う、罪に対して死んだはずの人が、どうして、罪の中に生きることがありえようか、と。
 
B.バプテスマによる説明(3-10節)
 
 
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
 
バプテスマの本当の意義を知らない?
 
 
ここでパウロは、ローマ人クリスチャンが、既にバプテスマを受けている事実に目を向けさせます。「知らないのですか」という表現は、バプテスマを受けているのに、その意味を十分に把握していないのではないか、という叱責が含まれています。さて、パウロは「バプテスマの意味」について以下のことをあげて説明します。

バプテスマとは、バプテイゾー(浸す)という動詞から来る名詞形で、水で浸す儀式のことです。特に、聖書の中で出てくるバプテスマは、キリストを救い主と信じ、救いに与ったものがその信仰の告白として、また証として受ける儀式のことです
 
1.キリストの名によるバプテスマ
 
 
「キリスト・イエスにつくバプテスマ」(3節)とか、「キリストにつぎ合わされて」(これは植物の接木のイメージ)(5節)という表現が使われています。私達がキリストと信仰によって一体化する、キリストに属するものとなるという意味です。それを二つの面からパウロは解説します。彼と共なる死と、彼と共なる復活です。
 
2.キリストと共に死ぬ
 
 
勿論「共に死ぬ」という言葉で、何か肉体的な変化を期待しているわけではありません。キリストの十字架が私のためであったという頷きからもう一歩進んで、キリストと共に十字架についたのだという個人的な頷き、信仰の納得が意味されています。それを詳しく言いますと、

1)罪の奴隷でなくなる(2,6,7節):罪を犯そうと思う人はいないけれども、犯してしまう、善を行いたいと思っても行うことが出来ない、つまり、願いとは違った方向に私達が引きずられて行くことが、奴隷状態です。そこから解放され、罪に打ち勝つ力、善を行う力と自由が与えられるのです。

2)古い人が十字架につく(6節):私達の罪に毒された部分が死ぬことを表わします。私達の人格・個性がみんな壊されてしまって、自分が自分でなくなるほど、死んでしまうわけではありません。もし、そのようなことを意味するとすれば、これは不自然な人間を作ることになります。ややもすると、「キリストと共に十字架につく」という言葉が独り歩きして、自我そのものを殺す、つまり、人間性豊かな自我まで含めて殺してしまって、自分で考えず、健全な感情と意志までなくすことが理想だとかいったような、極端な考え方や教え方をする人もいます。そうではありません。ここでの死は、「罪についての」自分の死なのです。「わがままの自我」の死なのです。これは可能であり、必要なのです。

3)罪の体が滅びる(6節):罪からの解放と同じ真理ですが、より具体的・徹底的な表現です。ここで体が滅びるといっているのは、体そのものが死ぬことではありません。罪を犯してしまう仕組み、傾向性が打ち砕かれることを意味します。この言葉から、「キリスト者は罪を犯す可能性からも全く救われる」という教えを導き出す人もいますが、それは行き過ぎです。確かに、罪を犯すシステムが破壊される訳なのですが、自由な意思を持った人間として留まる限り、そのシステムを復活させる可能性は絶えず存続します。

4)ただ一度死ぬ(10節):これはキリストご自身がただ一度で完全な贖いを成し遂げたことを意味しています。この「ただ一度」という言葉は、回数の問題だけではありません、一度で完璧なという意味を持つ「エファパックス」という言葉が使われています。何度か、少しずつきよめられていく、という考え方が、クリスチャンの中にもあります。これはある意味で事実です。でも、聖めが基本的な神との関係、つまり、心を尽くして神を愛する心をもつことを意味するものと考えますと、それは段々そうなっていくというよりも、キリストの贖いの事実を受け入れるその時点で成就するととらえるのが自然でありましょう。
 
3.キリストと共に甦る
 
 
1)いのちにあって新しい歩みをする(4節):今までの自己中心の生き方から、神を中心とし、神を喜ばせることを人生目的とする生涯に入ること、それも、このような生き方をするべきだという律法主義的な頑張りではなく、その生き方が私達の生き様となる、自然態の生き方となる、ということです。この言葉は、命の新しさに歩む、と直訳できます。新しく生まれ変わった人間として歩むということです。さらにこれは、コロサイ3:10で「新しい人を着る」と表現されていることと同じ内容です。この新しい人とは、罪に汚染された「古い人」との対比で使われており、私達が創造の始めに持っていた聖と義の形への回復であり、日々新たにされて、キリストに全く似たものとなるまでに成長していくものです。

2)神に対して生きるものとなる(10,11節):神を喜ぶこと、神を喜ばせること、が私達の生き様である、ということです。もっと具体的に言いますと、常に喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝する人生ということです。感謝に溢れた人生、賛美に溢れた人生、愛に満ち溢れた豊かな人生ということです。先週の祈祷会で、相原先生が、「溢れるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ2:7)という単純で、実際的で、確信に満ちた説教をしてくださいました。本当に感謝に満ちた生涯とは、努力目標ではなく、神に対して生きるものの自然な、そしてすばらしい生き様です。
 
C.締めくくりの勧告(11節)
 
 
11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
 
1.信仰の計算を!
 
 
思いなさいという言葉は、ロギゾマイ(計算する)という会計上の言葉が使われています。キリストの十字架上の贖いが完全なものであり、それが私のものであるということを、感覚の問題を乗り越えて、信仰によってしっかりと受け取ることです。信用のある人から小切手を頂いたとしましょう。私はその小切手によって、収入の欄に、入金済みと記帳してしまいます。キリストの十字架の効果は、一番信用のある小切手以上の確かな保証です。それを、そのまま、私の罪は赦され、きよめられていると頷き、受け取ることは何も難しいことではありません。
 
2.画然とした決断と告白
 
 
もう一つ、この動詞についていえることは、これがアオリスト時制という、転機的な行動を意味しているということです。これを読んでいるローマ人クリスチャンのことを考えてみてください。彼らは既にバプテスマを受けています。しかし、その意味している罪への死、神への生という現実を十分には把握していない嫌いがありました。ですからこそ、パウロはここで、バプテスマの本来意味していることを、しっかりと捉えなさい、しかも、画然とした決断と告白を持って、といっているのです。今日まで、罪との戦いで、勝ったり負けたりのクリスチャン生活を送ってきた方はありませんか。今までそうであったとしても、今この瞬間に、キリストの罪に対する完全な勝利を私のものとします、というはっきりとした信仰を告白してください。その通りになります。
 
3.その信仰に立ち続けること
 
 
信仰は、継続に意味があります。あるときに信じた気持ちになって、その後で疑ってみるというのは信仰ではありません。信じるという言葉の意味は、自分を委ねて全存在をあるものに寄りかかることです。とすれば、信じた後に疑うということは有り得ません。実際に、私の体験を申し上げると、聖会に出て、聖めの信仰に立っては倒れ、立っては倒れという繰り返しをしておりました。正直、そのような自分に疲れ、諦めさえ感じるようになりました。そのときに蔦田二雄先生から、単純に信仰に立ち、立ち続けなさいとご指導を頂きました。その時、素直にそれに従い、このローマ6:11のことばに立って、信仰を告白し、さらに、もう二度と疑うことなく、やり直しをしませんと付け加えました。勝利が与えられました。
 
終わりに:ローマ6:11の信仰に立とう
 
 
今日この場におられる全ての兄弟姉妹が、ローマ6:11の信仰に立ち、その信仰によって歩み始めるように、歩み続けるように祈ります。
 
お祈りを致します。