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A.二つの支配原理(12-14節) |
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12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。 |
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1.体に関する三つの勧告 |
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この文節は、三つの命令形で成り立っています。 |
(情欲に)「従うな」 |
(手足を罪に)「捧げるな」 |
(手足を義の器として)「神に捧げよ」 |
です。 |
1)体に焦点: 対象となっているのは、私達の「体」と「手足」(文字通りの意味は体の各部分を指す「肢」)です。キリスト教は魂のことを強調するから、心とか霊を捧げなさい、と言われそうですが、パウロは「体」といっています。私達のこの五体のことです。幾つか理由があります。 |
この五体こそが、私達の生活の場です。心は神に捧げるときれいなことを言って、体を用いて罪を犯すことがあってはなりません。体の使い方を含めた私達の日々の生活が、神に喜ばれるものとなるべきなのです。新改訳で「不義の器」「義の器」と訳されている「器」(ホプロン)とは、「武器」という意味が強いのです。罪の手に陥ると不義の支配を維持するための武器となり、神の手に陥ると御国を広げる武器ともなります。 |
もう一つ、体が罪の道具として用いられることがとても多いからです。聖書は体そのものを罪あるものとは言っていません。体は神に造られた良きもの、美しいものです。肉体の中に罪が宿る、或いは肉体的なことを強調すること自体が罪だ、という考えを聖書は示していません。ただ、心が神から離れると、この肉体が厄介な罪の道具になります。肉体を通して誘惑もやってきます。その意味で、罪に対して死と計算した(11節)はずの信仰者が、再び、罪の支配に入るべきではない、とパウロは言います。信仰によって罪の死を計算したら、自動的に罪の支配から逃れるから、安心していなさい、というのは問題を単純化しすぎます。信仰によって罪への死を計算したのだから、より一層、罪と意識的に決別しなさいと勧めているのです。「死者の中から生かされた者として」というのは、「死者の中から生かされた者であるかのように」というのが直訳です。信仰は罪への死と、神に対する復活を導くのですが、それを堅いものとするためには、積極的に私達の体を罪への奉仕から離して、神への奉仕にと導く姿勢が必要なのです。 |
2)罪と意識的に決別しなさい:これに関連してもう一つ指摘したいことがあります。13節の(罪に)「捧げるな」と(神に)「捧げなさい」という二つの言葉は、同じ動詞ですが、時制が違うということです。前者は、罪とは厄介なものとして私達の生涯につきまとうものであるから、継続的に罪から切り離しなさい、という意味での現在時制ですし、後者は画然たる決意を持って神に捧げなさいという意味でのアオリスト時制なのです。細かいことをほじくるようですけれど、聖書は実に細かいところに気を遣って書かれていることの証明です。 |
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2.罪の支配から恵みの支配へ |
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私達が罪に支配されているというのは、好むところの善を行えない、逃れたいと思っている悪から逃れられない、という奴隷状態(ローマ7:23、ヨハネ8:34)を指します。私達が信仰によって主イエスに結びつくとき、違った原理が私達の生涯を支配するようになります。それは「恵み」です。これが罪と対比されているのは面白いことです。罪ならば義を対比させるべきなのですが、パウロは恵みだ、というのです。つまり、罪の奴隷状態から逃れた私達は、別な奴隷状態に入るのではなく、神の豊かな恵みに包まれた自由な空気が支配する場所に導かれるのです。パウロがこの場所で意味している「恵み」とは、殆ど自由と置き換えることが出来ます。何かに縛られて善を行うのではなく、神の豊かな恵みが注がれる自由な空気の中で、自発的に善を行うのです。 |
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B.二種類の奴隷(13-19節) |
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15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。 |
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1.恵みは罪を許容するか?否! |
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恵みの下にある自由なものとしてクリスチャンを描くと、またへそ曲がりな質問が出てきます。律法という束縛からはなれて、神の豊かな恵みの太陽が注がれる自由な世界に導かれたのだから、でたらめな生活をしようという考えが生まれるのでしょうか(13節)。ある人は、自由と放縦を履き違えて、こんな考えを持ちます。しかし、私達が物事の本質をしっかりと見極める限り、こんな履き違えがおきる筈がありません。それが、14節の「あなた方は知らないのですか」という書き出しの意味です。そこから始まって、二種類の奴隷が対比的に描かれます。 |
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2.罪の奴隷 |
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私達のかつての状態が3つの言い方で表わされています。 |
1)自分の身をささげて罪に服従する(16節) |
2)罪の奴隷(17節) |
3)自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進んだ(19節) |
これらは、自分で選んで罪に仕えている、という自発性を示します。それは、自由意志の選択として、罪に仕えることにした、という責任を物語っています。 |
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3.義の奴隷 |
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これについても三つの言い方がなされています。 |
1)従順の奴隷となって義に至る(16節) |
2)罪から解放されて、義の奴隷となる(18節) |
3)手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進む(19節) |
この三つを比べて気がつくのは、罪から先ず解放され、義の原理に生きるようになる、そしてそれが聖潔に至るという一連の流れとして捉えられているということです。何かをしなくなったという消極的な変化だけではなく、神に積極的に仕え、クリスチャン生活のしっかりした目標を聖化にすえて進んでいくダイナミックな運動が私達のあり方なのです。ここで言われている聖潔(ハギアスモン)は、「きよめられること」或いは「きよめられた状態」をさす言葉です。この文脈では前者でしょう。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛すること、己のように隣人を愛すること、その真実な愛に私達の心が向けられることです。 |
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C .二つの結末(20-23節) |
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20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 |
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1.罪の奴隷の結末 |
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義について自由に振舞う、とは、本当の意味で正しいこととは関係のない振る舞いと言葉と思いを続けていた、ということです。それによって何か生産的な結果を得たでしょうか。何も得ません。得たものは、神との断絶を表わす「死」だけでありました。聖書で「死」とは、断絶を意味しますが、それは三つの場面で使われています。 |
1)肉体的死:肉体と魂が離別してしまうこと。これとても人間創造の始めからではありません。アダムが罪を犯したために、人間は死んで、その肉体は塵に帰るべきものとなったのです(創世記3:19)。 |
2)霊的な死:罪を犯した結果、神と生命的な交わりから断絶されること。これがエペソ2:1で述べられている死であります。 |
3)永遠的な死:神との断絶が、決定的・永遠的なものとなること。これは、一番深刻な死です。黙示録21:8で描かれている裁きの結果の死です。 |
私達が罪の奴隷となることによって、罪をせっせと犯し、その結果、ご苦労さまといって支払われる報酬は、こういった恐ろしい死なのです(23節)。 |
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2.義の奴隷の結末 |
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前段でも述べましたが、義に仕えて行くと聖潔という結実を得られ、その行く先は永遠の命です。 |
「聖潔に至る実」の「聖潔」(ハギアスモン)とは、先ほどの定義の後者、つまり、「きよめられた状態」を指すと思われます。それは、ガラテヤ5:22,23に記されている御霊の実と同じことです。つまり、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」のことです。これを求める道は、光栄に満ちたものです。 |
永遠の命について23節が述べている二つのポイントについてお話します。 |
1)それは、プレゼントとして:報酬との比較が大切です。永遠の命を追い求め、自分の努力、真面目さによって勝ち取るのではなく、神の恵みの賜物・プレゼントとして頂くだけなのです。すばらしいことではありませんか。 |
2)イエス・キリストにあっての賜物:「イエス・キリストにある」とは、彼の内に既に獲得されている命を共有することです。もっと易しく言うと、キリストと共に永遠に生きることです。いくら長く生きても、一緒にいる人が面白くなければつまらない長さとなりませんか。 |
もう一度、一番最初に示した対照表を見てください。この対照表には中間がありません。豊かな永遠の命の道と恐ろしい死の道の対象です。 |
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終わりに |
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私達は、この永遠の命を、素直に、感謝して、信仰をもって頂こうではありませんか。その命の豊かさの中に日々生きようではありませんか。 |
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