ジョイフル・アワー メッセージサマリー
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。
2006年11月5日
新約聖書 ヨハネの福音書から
「内から湧き出る泉」竿代 照夫牧師
ヨハネの福音書 4章1−19、25−26節
中心聖句John 4:13-14 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 (ヨハネの福音書 4章13-14節) |
A.はじめに
今日はよくおいでくださいました。
この集会のパンフレットに、メッセージのタイトルとして、「内から湧き出る泉」と書かせていただきました。
私達が住んでいる時代はポストモダンと呼ばれていますが、その特徴の一つは、エンターテイメントを求める時代と指摘されています。
何か楽しいこと、面白いことはないかなとイベントからイベントを渡り歩いているのが人生と思っている人が多いのです。でも、面白いことを求めて何かをしたり、見たりしても、それが終わると虚しくなって、次のイベントを求める、ということを繰り返していることが意外に多いのです。
そんな人生を送って心の虚しさを感じていたときに、キリストに出会って、外からの刺激ではなくて、「内から湧き出る泉」を発見した一人の女性がいました。ヨハネの福音書4章に記されている出来事なのですが、それをお話し風にご紹介したいと思います。私と一緒にお付き合いください。
B.サマリヤ人のデビーさん(サマリヤの地図)
今回紹介する女性は、聖書では「サマリヤの女」としか記されていません。名前なしには話しにくいので、私が勝手につけることにしました。サマリヤ生まれのデビーさんとしておきましょう。
サマリヤというのはキリスト時代、パレスチナの中部を指していました。北がガリラヤ、南はユダヤというユダヤ人が住んでいた地方に挟まれた地域です。
サマリヤにはサマリヤ人が住んでいました。その昔、北王国イスラエルがアッシリヤに滅ぼされたとき、アッシリヤがイスラエルを骨抜きにしようと沢山の外国人を送り込み、強制的に混血させたのです。ユダヤ人の血が混じっているが純粋ではなく、宗教的にも、ユダヤ教には似ているが少し違うという微妙な国民でした。
似ているが少し違う、という関係は全く違うよりも始末の悪いもので、純粋を誇るユダヤ人からは軽蔑されていました。サマリヤ人もユダヤ人に敵対心を持っていました。
ですから、北のガリラヤにいるユダヤ人が南のエルサレムに巡礼などをするとき、サマリヤを通らないで、ヨルダン川を二度渡って遠回りをして往復するのが普通でした。こんな事が、今日の物語にも反映されてきます。
さてデビーさんです。小さいときは、 昔からの伝統に従って厳しいしつけを受けて、礼拝にも出席し、神に従おうという健気な気持ちを持っていたようです。
でも、どの段階からかは分かりませんが、親しい男性との付き合いに生き甲斐を感じるようになりました。当然、周りの保守的な社会秩序からはのけ者にされ、村の者達のひそひそ話の対象となりました。
でもデビーさんは、愛こそ人生だ、愛し合うことで本当の幸せが生まれるはずだと信じて、周りの声も気にしないで、恋の中に生き続けました。
しかし、現実は甘くありません。自分は真実に愛しているつもりでも、男は遊びとしか考えない、愛に応えてくれない、そんな失望を味わいました。
今度の人は真実そうだ、と思っても長続きせず、暫く一緒にいては別れる、そんな経験が続きました。
そのうち、自分は真剣だったと思うその自分にも限界を感じ、「もうどうでもいい」という投げやりの気分が支配し始めました。
いま一緒にいる男性も実は6人目、それも、愛があってではなく、惰性で一緒にいるだけで本当の幸せからは遠いけだるい毎日を送っていました。
C.不思議な男との出会い(井戸辺の絵)
デビーさんは、日課である水くみにでかけました。昼過ぎに水くみに行く女なんて村にはいません。私が長年いたケニアでもそうですが、みんな朝早くか、夕方と決まっていたのです。
でもデビーさんは昼間に決めていました。その方が誰とも会わずに済んだからです。その日も陽射しは暑く、いつもの物憂い気分で出かけました。すると、いつもと様子が違います。
「おや?だれもいないはずの井戸辺に誰かがいる、しかも見るからにユダヤ人とわかる男性が・・・」
きりりとした顔で、清潔さがその雰囲気から感じられました。いろいろな過去を背負っているという負い目を持っているデビーさんは、なるべく目を合わせないようにそっと井戸に近づいて、水を汲もうとしました。その時、その男性が、
「奥さん、私に水を飲ませて下さいませんか。」
と話しかけたのです。デビーさんは、心臓が止まりそうなくらい驚き、どもりながら答えました。
「あ、あ、あなた、ユダヤ人?しかも見知らぬ男性が女性に声をかけるなんて、ちょちょ、ちょっと失礼じゃありません?!」
この男性はイエスというラビでした。普通のユダヤ人はサマリヤを避けるのに、この人は変わっていて、堂々とサマリヤの真ん中を通過しようとしていました。しかも見知らぬサマリヤ女性に話しかけるなんて、もっと変わっています。
D.命の水の魅力(心から湧いてくる水の絵)
見知らぬ男性は答えました。
「失礼はお赦し下さい。でも、申しあげますが、あなたは、この私が誰かおわかりになると驚きますよ。私は命の水を与える、そんな者なんです。」
男性の声は涼やかで、しかも威厳がありました。デビーは突っ込みました。
「命の水を与える者・・・?だって、あなた、いま水をくれとおっしゃったでしょう。桶も持たないあなたが、どうして私に水を下さるって言うんですか。矛盾してません?」
「私が言う水は、普通の水じゃないんです。この水なら、飲んでしばらくするとのどが渇くでしょう。人間は悲しい生き物ですね。飲んでは渇く水を求めて、あちらこちらさまよっていますね。
でも、私が与える水は、その人の中で泉のようになって、内側から水がいつまでも湧いてくる不思議な水なんです。」
「うそ、ほんとに?! そんな水、あるんですか。便利です。私にぜひください!」
E.心刺される質問(心を見通すレントゲンの絵)
「水を上げる前に条件があります。あなたの夫を連れてきなさい。」
「ちょっと待って。私には夫がいません。」
「・・・本当のことを仰いましたね。あなたはつきあっていた男性がいたが、捨てたか捨てられたかで、いま同棲している人とは、結婚していないのではないですか?」
「先生、そこまでお見通しのあなたは一体誰なんですか? ユダヤから救い主メシアが来るという言い伝えを聞いていますが・・・、まさか、あなたがそのメシアではないでしょうね?!」
「まさに、あなたの言うとおりです。」
デビーさんは、自分の過去の人生に対する恥ずかしさと、過去の自分、そして現在の自分を見通しながらも、そのままの姿で自分を受け入れて下さる大きな暖かい存在を見つけた嬉しさと入り交じった大きなショックを受けました。
「あなたの夫を連れてきなさい。」
という言葉は、デビーさんには一番痛い言葉でした。彼女が幸福を求めながら得られないその問題点を、真正面から刺されたような気がしました。
痛かったのですが、それは心地よい痛さです。傷を広げるような痛さではなく、傷を指摘しながらもそれを癒し、包んで下さる暖かさでもありました。
F.人々への宣伝(明るい顔で皆に伝道しているデビーさんの絵)
水を運ぶはずの瓶をそこに放っておいて、デビーさんは町へ飛んで行きました。
「皆さん。聴いて下さい。私の恥ずかしかった過去をみんな見通す不思議な人が井戸辺にいます。この人は私の心を造り替えてくれました。このひとこそ、待ちに待っていたメシアだと思うんです。みんな見に来て下さい。」
会うだけでもいやな気持ちがした町の人々に対する恐れがなくなって、この自分の発見を一人でも多くの人に伝えたいと思いました。
どんな発見でしょうか。あの井戸辺に座っている男性こそ、待ちに待っていたメシアなのだという発見です。大勢の人が井戸辺に押し掛け、そしてイエスをキリストと信じました。
デビーさんの物語はこれで終わりです。 デビーさんに命の水の存在を知らせたユダヤ人のラビ−イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わりません。
私達にこんな形で出会って下さり、私達を大きな愛の力で造り替えて下さいます。
今度はここ、今度はあそこと楽しみを求めて渇いている人生ではなく、「内側から湧いてくる泉」をもった人生へ、自己中心から愛の人生へ、変えられたいと思いませんか。
その変化は、私達がイエス・キリストに近づきさえすれば起こるのです。お祈りいたします。
Message by Isaac T.Saoshiro,senior paster of Nakameguro IGM Church
Compiled and edited by K.Otsuka/November 6,2006