礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年11月12日
 
「新しい御霊によって仕える」
ローマ書連講(19)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙7章1-6節
 
 
[中心聖句]
 
 6  私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
(ローマ7章6節)

 
はじめに
 
 
1.先回は、テキスト:「あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて義の奴隷となったのです。」(6:17,18)との御言葉を中心に、罪の奴隷から義の奴隷となった大きな変化について学びました。念のため、一つの奴隷状態から別な隷属状態に移ったのではありません。義の奴隷は、私達の選択の結果であり、愛をもって仕える愛の奴隷でもあります。

2.さて今回は、この変化を別な譬えで、しかも別な角度から扱っている7章に入ります。それは夫婦の譬えです。テーマは、律法です。このローマ書、そしてガラテヤ書では、律法というものが主なテーマとして登場します。なぜなのかという背景を少し説明いたします。

1)律法の賦与:出エジプト直後、シナイ山において十戒を基礎とするさまざまな規定が、「律法」(トーラー)という形で与えられました。これは、イスラエルの基本法でもあり、その意味では今日の憲法のような役割を果たしていました。

2)律法の内容:律法は大きく分けて、@神に対する人のあり方を示すものとA人と人との間のあり方を示すものとで成り立っています。@については更に私達の心のあり方を導くもの、神に対する礼拝の仕方を規定するものとに分かれます。Aについては、いわゆる民法的な相互関係を規定するもの、刑法的な犯罪行為を規制するものなどで成り立っています。そのほか、食べ物についての決まりとか、祭日についての決まりなどがありますが、それらは皆礼拝の民としてイスラエルのあり方を示すものです。

3)律法の精神:それを一言で言い表しますと、「これを行いなさい。そうすれば生きます。」となります。人間としての正しい生き方を教え、それに歩むように私達を導くのが律法です。

4)律法の限界:人間は、正しいことを知るだけでは不十分です。いやむしろ、それによって自分がどんなに無力な人間かをいやというほど知らされるだけでしょう。そこにこそ、福音が入ってくる必要と余地があるのです。

5)律法が齎した課題:パウロ時代、そして主イエスの時代の大きな問題点は、「律法主義」と呼ばれるものでした。律法は神の賜物、良いものではあるのですが、それが一人歩きして、律法さえ守っていれば神は祝福してくださる筈だ、という信仰にすり替わり、それが形式主義や偽善を生んでしまいました。自分の努力を強調するガンバリズムもその弊害の一つです。さらに、律法を知らない「異邦人」を蔑む差別主義ともなりました。もっと根本的に悪いのは、クリスチャンとなった異邦人に対して「割礼を受けて宗教的にユダヤ人になりなさい。そして、律法をしっかりと守って、救いを全うしなさい。」という律法主義者がパウロの伝道の後から後から追いかけて、折角単純に信じた異邦人クリスチャンを惑わしてしまったのです。この問題が、これから学ぶ7章の背景にあったことをぜひ覚えておいていただきたいのです。
 
A.律法という「夫」から解放される(1-3節)
 
 
1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。―― 2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
 
1.律法という「夫」
 
 
パウロはここで、人と律法との関係を、「律法」という名前の夫に縛られた妻に譬えます。2千年も昔の亭主関白時代のことですから、この譬えはみんなにピンと来たことでしょう。日本でも一昔前は、「お茶」「風呂」「飯」の一言で妻は楚々と従ったものです。それと同じように、神の民は、きまりから決まり、規則から規則という具合に縛られていました。それをパウロは、ユーモアを交えて、ミスター・ロー(律法)に縛られたミセス・ローと自分たちを表現したのです(別図@)。

(図@)

ただ「律法によって(律法という)夫に結ばれています。」というのはちょっと分かりにくい表現です。厳密に言うと、1節の「律法」は、イスラエルの民に神が与えなさった律法(トーラー)のことです。2節の「律法」は、トーラーにも記されているが他にも実践されている一般的な社会のルールのことです。そのルールから言えば、夫が生きている間は妻は夫に縛られているというのです。封建社会では、当然そうでした。そして、その夫とは、決まりを押し付けてくる律法という名前の暴君である、とこういうことなのです。旧約聖書時代には、神の民はみな律法の下にあり、律法に縛られ、律法で裁かれる不自由な状況にあったのです。
 
2.「夫が死んだ」
 
 
キリストによって、律法という夫が死んだ、ということは次の文節で説明されますが、3節はまだ仮定の話しとして、夫が死んだら妻は再婚の自由が与えられるという一般的な話しをしています。もちろん、パウロも、そして私も、どこかの夫婦を頭に描いて、あの奥さんは可愛そうだから自由にしてあげたいといったような具体的な話ではありませんから念のため。(本当は、そんなケースは沢山あるのですが、これは別な問題です。)
 
B.新しい「夫」キリストに結ばれる(4節)
 
 
4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
 
1.律法に対して死ぬとは
 
 
4節に入ります。3節で仮定として話したことは、キリストにあって現実となりました(別図A)。「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。」とは何を指すのでしょうか。「からだ」として意味されているのは、当然、キリストの十字架の死であります。ですから、ここは十字架によって、私達は律法のある部分とは関係がなくなったのだ、と語っているのです。律法の終焉ということについて、更に詳しく、パウロの手紙全体から探ってみましょう。

(図A)

1)律法の「儀式的規定」の終わり:エペソ2:14-16でパウロは、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。・・・敵意は十字架によって葬り去られました。」と言っています。様々の規定とは、特に儀式的な規定で、それが指差しているキリストという実体が現れたために、細かい規定は不必要になったのです。
コロサイ2:14-22は、この真理をより詳しく説明します。)「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。・・・16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。・・・20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、21 「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」
エペソでは「さまざまの規定から成り立っている戒めの律法」が、それを持つユダヤ人と持っていない異邦人との違和感(敵意)を増幅させるものであり、それが十字架によって破棄されたと強調されています。コロサイでは、律法の中に記されている礼拝の規定、食べ物の戒律などは、キリストのために私達の心備えをするための準備的なものであって、真打であるキリストのご登場によって、その準備的な律法は使命を終えて、「死んだ」のです。

2)律法の要求する罰がキリストによって満たされた:さらに、律法に死ぬということは、律法によって定められる罪と罰からの解放を意味します。キリストが十字架の上で、その罰を十分に受けてくださったからです。ガラテヤ3:13でパウロは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」と言っています。さらに、ローマ10:4では、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」とも言われています。

3)律法を守って救われようという自己義の死:これは、律法によって救われると思っている「自己義」の死でもあります。ガラテヤ2:19でパウロは、「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

4)律法を守ろうとする「肉の」(人間的な)努力から解放される:ガラテヤ5:18でパウロは、「御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」と言い、その律法を守ろうとする同じ「肉」が結局、罪の泥沼に陥ることを続く節で指摘します。「19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

付け加えますが、律法は決して悪者ではありません。律法の中心的な精神である、神への愛と隣人への愛は、旧新約を通じて、すべての人の歩むべき規範です。そして、それは、キリストの贖いによって成就したのです。だから私達は決して律法を無効にはしていません。ただ、律法の束縛的部分から解放されているのです。
 
2.キリストと結ばれる
 
 
さて、私達は、律法という難しい・厳しい頑固な夫から解放され、新しい夫にプロポーズされ、結婚しました。「それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」この新しい夫は、私達を鞭や脅しを持って従わせるお方ではなく、真実で、行き届いた愛をもって私達を顧み、助けてくださる、頼りがいのある夫です。

聖別会などでよく紹介される例話がありますね。厳しい夫にジョブ・リストを与えられ、それが実行できなくて、いつも叱られ、おどおどしていた妻が、夫の死後再婚した話です。ある日掃除をしているときに前の夫の残したジョブ・リストを発見します。懐かしくて、チェックを始めたら何と、全部OKだったのです。それは脅かしで行ったからではなく、新しい夫の愛に応えるために自然に行えていたからです。

この夫に結びついていると、丁度愛に満ちた結婚生活が可愛らしい子供を生むように、私達も実を結ぶことが出来るのです。これは、ヨハネ15章に記されている葡萄の木と枝との譬えでも明らかです。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)どんな実でしょうか。それはキリストらしい品性という実です。赤ちゃんが、親に似るように、キリストとの結合はキリストらしい品性を生みます。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22,23)
 
C.律法に死ぬという意味と現実(5-6節)
 
 
5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。6 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
 
1.律法と罪と肉の三点セット
 
 
肉とは神を離れた人間性のことです。律法は、神の定めですが、神の力を離れてそれを守ろうと努力するとき、却って罪を助長してしまいます。このメカニズムは次の文節で詳しく説明されますので、来週に致します。いずれにせよ、神を離れて良きことを行おうという努力は、健気ではあっても虚しいのです。そして、先回も説明しましたように、律法・罪・肉の三点セットの結末は死であります。
 
2.新しい御霊によって仕える
 
 
しかし、「今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」と記されていますように、律法主義的な生き方ではなく、活ける御霊によって喜びを持って主に仕える生活に入れられました。ここでの比較を幾つか見てみましょう。

1)古い文字(律法)vs新しい御霊:「聖霊の生み出す新しさと自由」すなわち、りっぽうのように外側からの強制的な力によってではなく、内的に聖霊による自由な心、喜びを持って他に仕える者とされるのです。これは、キリストの心でもあります。キリスト者とは仕えるために世に来られ、己を虚しくして従われました。その心を心として歩むことが出来るのです。第二コリント3:6に、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」とありますように、生かす御霊に仕えているのです。

2)束縛vs解放:いやいやではなく、解放された自由な心をもって主に仕えます。

3)恐れvs喜び:これをしなければ叱られる、という恐怖からではなく、神を喜び、神に従う愛をもって仕えるのです。
 
おわりに
 
 
御霊によって主に仕えるとは、何とすばらしい恵み、喜びでありましょうか。今週も、この心をもって主に仕え、周りの人々に仕える一週間でありますように。
 
お祈りを致します。