礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年11月19日
 
「律法が死を齎(もたら)す?」
ローマ書連講(20)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙7章7-16節
 
 
[中心聖句]
 
 9  私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
(ローマ7章9節)

 
はじめに
 
 
1.先回は、テキスト「今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(7:6)との御言葉を中心に、律法主義という厳しい夫のような束縛から解放されて、愛に満ちた新しい夫であるキリストに喜びをもって仕える生涯に変えられた、すばらしい恵みについてお話しました。

2.今日はその続きです。律法というものがどんなものか、どんな働きを心の内に行うかについて、より深い分析がなされます。パウロの文章の特質でもあるのですが、この文節は特に、同じ真理が行ったり来たり、繰り返し説明されていますので、パウロに対して僭越ではありますが、私なりに項目的に纏めて見たいと思います。
 
A.律法の効用
 
1.罪をどんなものかを明確に示す。
 
 
7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
 
7節に「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。」という質問は、律法が罪と死を齎すという5節の声明を受けてのものです。さらに、律法・罪・肉は三点セットとして密接に結びついていると、先週お話しました。それでは、律法は悪いものなのでしょうか。「絶対にそんなことはありません。」とパウロは断定します。そして、「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」と律法の効用を示します。

私達は鏡というものがなければ、自分の姿を見ることができません。私達の顔が汚れているかいないか、髪が整っているかいないか、鏡によってありのままをみることが出来ます。それによって、自分を正し、人の前に恥ずかしくない格好で出ることが出来ます。丁度それと同じように、律法は私達に対する神のご期待をそのまま示します。その律法によって、私達は自分が神のご期待に適ったものかどうかを自己評価できるようになるのです。

ここで言われている例は、十戒の中の最後の掟である「汝、貪るなかれ」です。もちろん、十戒を知らない人でも、貪欲であって良いと思っている人は稀でしょう。しかし、十戒で改めてそれが貪欲は罪であり、むしろ、神の与えて下さるものをもって満足しなさいという聖書の教えを示されるとき、ああ私は貪欲な人間だ、それは良くないことだとはっきりと頷くことが出来るのです。それが律法の効用です。
 
2.神のみ旨を伝える
 
 
12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
 
12節では、律法は聖なるものと二度も強調されています。14節には、「霊的なもの」とも記されています。そして、「それらは正しく、良いものです。」とも付け加えられています。これらを一言で言えば、律法は、神に起源があり、それゆえ、聖く、霊的で、正しく、良いものなのです。

1)聖:聖いのは神のご性質です。それが神の律法に反映されています。例えば十戒の第三戒、「あなたの神の名前をみだりに称えてはならない。」がそれです。律法は、神が聖くあられるように聖いのです。

2)霊的:神は霊なるお方です。十戒の第二戒は「刻んだ像を作ってはならない(神は霊的なお方だから)。です。そこに神の霊的なご性質が反映されています。律法は霊的なものです。

3)正:神がどのようなお方か、その神に受け入れられるためには、どんな生活態度でなければならないかをはっきりと教えてくださいます。

4)善:私達の生活を幸福に導くためのものです。

この律法を通して、私達の思いや言葉や行動が、神に御心に適ったものか、正しいか否かを示されるのです。
 
B.律法の副作用
 
1.罪を「増幅」させる
 
 
8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
 
さて、律法は罪を示すだけでなく、それを増幅させる、とパウロは言います。8 節に、「罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。」と。この表現は、眠っていたライオンが(律法というきっかけで)目を覚まし、飼い主を殺してしまうというイメージです。律法は罪を意識させますが、それによって罪がなくなるかというと左にあらず、一旦示された罪が力を得て、私達を死にまで追いやるほど、ダメージを与える、というのです。これはとても分かりにくい逆説なのですが、実際には真理です。

ちょっと譬えはピッタリしませんが、今日問題になっている、酒飲み運転を例に挙げましょう。「酒飲み運転はいけない」と罰則を強化しても、一向に酒飲み運転は減りません。政府が声高に酒飲み運転の悪を強調しても、罰則を強化しても、酒飲み運転をする人に効果は少ないだけでなく、逆効果さえ生みます。「政府がこれだけ宣伝をしているのだから、やっている人は大勢いるに違いない。ならば、私も大勢のひとりとして、やったって構わない。」「決まりというものは、破るためにある。ダメといわれれば言われるほどやってみたくなる。」まあ、ケースは色々でしょうが、律法の決まりは、人間を悪に追い込み、その罰としての死を齎す、とパウロは言うのです。

「これはいけません」といわれると、益々やってみたくなる、そこに人間の心のねじれた性質があります。罪の本質は自己中心です。律法がそこに入り込みますと、自己中心が益々硬くなって、結果的に罪の増幅になる、という具合です。/td>
 
2.人を霊的に殺してしまう
 
 
律法が来たために、罪が意識され、増幅され、活発に働くことによって、死(神との断絶という意味での霊的な死)が結果することを 9−11節は、より詳しく説明します。「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。」まるで、律法が悪者のような言い方ですが、注意深く読むと、律法そのものが悪いのではなく、人間の罪がもともと根深く存在していて、それが意識され、活性化されるきっかけを与えたのが律法である、ということが分かります。
 
C.罪が根本的問題
 
1.人間のうちに住む原罪が問題
 
 
13節は、これをはっきりと言明します。「では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」と。人の心に宿っている原罪が問題なのだ、というのです。

また譬えでお話ししましょう。今、談合事件で多くの知事さんやお役人、業者の人々が逮捕されています。談合はいけない、ということは誰でも分かっています。それに対する罰則が強化されていることもみんな知っています。でも止まないのです。それは日本の社会に、談合体質が根強く残っているからです。一辺の法律程度で、この体質が変わるものではありません。神の律法と、人間の原罪の関係も全く同じです。
 
2.「パウロ」のディレンマ
 
 

1)罪の下にある私

律法は、私達を罪から解放するのではなく、罪の下に隷属してしまいます。14節を読みましょう。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」重ねて言いますが、律法が悪いのではなく、人間の心にしっかりと根を下ろしている罪の性質が悪いのです。

2)自分の願いに反して行動する自分

律法が突きつけるのは、罪の力に引きずられている自分です。15−17節は、「自分の願いに反して行動する自分」の惨めな姿を告白しています。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」こう見ると、悪いのは自分ではなく、自分の中に異質なものとしてがん細胞のような罪がいて、それが悪さをするのだ、というような印象を与えます。幼児を殺して死刑判決を受けた人が、私は悪くない、サタンが私に入り込んで悪さを引き起こしたのだ、と裁判のときに強弁したのと似ています。しかし、パウロは、自己責任を放棄する意味で、自分と異質な「罪」に道徳的な失敗の責任を押し付けているのではありません。罪は自分の中に深く入り込み、自分存在の一部になり切っているのです。もっと言えば、罪の本質は自己中心ですから、罪と自分とは殆ど一緒です。
 
D.この「私」とは本当にパウロのことなのか?
 
 
さてこの文節で、どろどろした罪の深みにのた打ち回っている深刻な告白があります。それをパウロは一人称単数の「私」で表わしています。それも過去形ではなく、現在形です。これを書いていた紀元56年ごろのパウロが、自分の内面を吐露して、このような書き方をしているのでしょうか、違うのでしょうか。これについては諸説ありますので、それらを紹介した後に、私の見解を申し上げます。
 
1.「私」の解釈
 
 
先ず「私」という一人称単数の表現について、これは、パウロ自身のことでしょうか、それとも人間一般を表わす文学的表現なのでしょうか。両方の解釈は可能です。

1)私=パウロ説:「私」と書いてあるのだから、パウロ自身のことだ、それだけだ、と単純に捉えることも可能です。特に7章後半の心理的葛藤は、経験したものでなければ出来ないほど、真に迫っています。

2)私=「人間一般」説:また、「私」という言い方が、常に筆者自身の体験ではなく、「私達」という言い方で人類一般のことを指すと同じような意味で、人類一般のことをさす、ただ、単数にしたほうが劇的だ、とも考えられます。特に、「私はかつて律法なしに生きていました」(9節)というのはパウロの経験ではありません。

私の見解は、パウロの(かつての)個人的経験が相当程度反映はされているものの、これは人間一般を意識しているというものです。
 
2.霊的葛藤の時期
 
 
次に、この霊的葛藤は何時のことを指しているのでしょうか。

1)「救われる前の状態」説:ある人は、救われる前ではあるが、聖書のメッセージを聞いて罪を意識し、その御言葉の光によって、罪責感に打ちひしがれ、救いを求めている姿と考えます。アウグスチヌスの「告白録」などは、その適例でしょう。その一節を紹介します。かれは自分の肉欲に打ち負かされた惨めな生活を示されこう語ります、「だが私は全く哀れな青年で、ことに青年期の初期は惨めでありながらも、あなたに貞潔を求めて、『私に貞潔と節制とを与えたまえ。でも今すぐにではなく』と言った。」「今すぐにでなく」というところが彼らしいですね。今祈りが聞かれて肉欲の病気が治るのが怖かったからです。主は彼の祈りに答えて、暫く後に回心の恵みを与えてくださいますが・・・。

2)「救われたクリスチャンの葛藤」説:ある人は、そうではない、これは「救われた後」のクリスチャンの心の葛藤を指すのだ、と考えます。現在形であること、救われる前は、罪を示す光が弱かったが、強い光が与えられて、自分の罪深さを救われる前よりも一層強く罪が示され、苦しみ続けている姿と考えます。この人々は、クリスチャンといえども罪から完全に救われることはない、むしろ、罪深さを一層自覚し、それによって自分がますます謙って神により頼むようになるのだから、罪が継続してもいいのだ、と言います。実は、インドの神学校で「ローマ書釈義」を教えてくださった英国人の教授で、世界的にも名前の知られた方がこの立場を取りました。私は質問しました。「なぜ先生はその立場を取るのですか。」と。先生は、「私の今の心の状態がそうだからだ。」と答えられました。私は更に質問しました。「自分の経験を聖書解釈の基準にしてよいのですか?」先生は沈黙されました。幸い、次の週の授業で先生は、ご自分の解釈を修正して下さいました。

私はこう思います。「基本的には、律法によって覚醒された魂の状況を指す。これは、救われた後にも、完全に委ね切っていない魂の経験として残る。」と。そして完全な解決は、7:25、8:1に示唆されています。これは次回以降に委ねます。
 
おわりに
 
1.内面的葛藤と正直に向き合おう
 
 
私達は、神の律法が私達を鏡として照らすとき、隠れたり、ごまかしたり、忘れたりという卑怯な態度を取らずに、自分の心の実質に真正面から向き合いたいと思います。それはいやなことです。つらいことです。でも、それは解決の第一歩です。
 
2.神が与えなさった解決を信仰によって受け取ろう
 
 

私達の内には良きものは一つもなく、頭の先から爪先まで腫れ物で爛れたようなものですが、キリストの救いは完全であり、徹底的であることを確信しましょう。そのキリストに自らを委ね、信じ切り、より頼み続けましょう。それだけが勝利の道であり、しかも絶対の勝利の方程式であります。
 
お祈りを致します。