プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。
2006年11月19日
試練を乗り越えるM
「都落ちの経験」竿代 皓子牧師
サムエル記第二 16章10-12節
中心聖句2Samuel 16:10-12 王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』といわれたからだ。誰が彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。 たぶん、主は私の心を御覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」 (サムエル記第二 16章10-12節) |
A.はじめに
皆さんこんにちは。このプレイズ・ワーシップのまえは献堂三周年記念礼拝でしたが、中目黒教会ができる前の主都中央教会に、副牧師として奉仕をした時期があります。
いまから三十年前のことでしたが、教団による任命で仙台教会牧師となったとき、ご近所に挨拶しました。
その際、「仙台へいかれるのですか。都落ちですねぇ」と言われました。
最近では転勤は特別なことはありませんでしたが、当時はそう思われたのでしょう。
この御言葉はダビデ王が自分の息子アブシャロムの謀反によってエルサレムから裸足で逃げ出している時、先のサウル王一族の一人が言った口汚い呪いの言葉に対して、ダビデが言った言葉です。 その言葉は、16章7-8節です。
シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。
主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」
ダビデ王の置かれている立場を考えると、私などは、ただただ感心してしまいます。大変余裕のある、十字架につかれたイエス様のお言葉と共通することがありますが、多くの教訓を私達に教えてくれる、ダビデの信仰から出た言葉です。今回はここから学んでまいりましょう。
B.背景
ダビデはイスラエルの第二代目の王として紀元前1010年から970年頃までの40年間、イスラエルを統治しました。先王サウルの迫害から逃れ、はじめはヘブロンを中止とした南部の王として7年半統治後、サウル王家との確執も終わり遂に全イスラエルの王となります。
王国の確立とともに気の緩んだダビデは、バテ・シェバとの姦淫、その夫ウリヤの殺害という大きな罪を犯し、その結果彼は罪を赦さるものの、神の厳しい裁きをも受けることになりました。
C.預言者ナタンによって告げられた裁きの内容
12章10-12節にあります、ナタンによって告げられた裁きの内容ですが、
1)剣がいつまでもあなたの家から離れない。(10節)
2)あなたの家の中から、あなたの上にわざわいをひきおこす。(11節)
3)妻たちが取り上げられ、あなたの友に与えられ、その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。(11節)
とあります。何と厳しい内容でしょうか。輝かしかったダビデの人生は、この罪を境に多くの苦難に直面するようになります。
D.息子達の争いとその謀反(サムエル記第二13章-16章)
では、ナタンの預言どおりに起こった悲劇を見てみます。
1)長男アムノンによる三男アブシャロムの妹、タマルヘの暴行
2)アブシャロムのアムノンへの復讐による殺害
3)アブシャロムの逃亡と帰還、父ダビデ王との表面的和解
4)アブシャロムの謀反と王位の簒奪(「この謀反は根強く、アブシャロムにくみする民が多くなった(15章12-13節)。」)
一連の出来事に関わるアブシャロムですが、彼の母マアカはゲシュル(ガリラヤ湖東方の国)の王タルマイの娘で(3章3節)、彼の容姿の美しさは
「イスラエルのどこにもアブシャロムほど、その美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非のうちどころがなかった。年の終に重いので毛を刈ると200シェケル(2.6キロ)もあった。」
といわれています。
性格は冷酷、狡猾且つ勇猛果敢な性格で、エルサレムに入ったのち、王位継承者としての権威を示すために、16章22節にありますように、
・・・全イスラエルの目の前で、父ダビデの残したそばめたちのところに入った。
とナタンによって預言されたことを実行した人物となりました。
この結果、ダビデ王は都落ちせざるを得なくなったのです。
E.ダビデ王の都落ちの様子
都落ちしたダビデはどうしたでしょうか。
1)まず、素早い決断によってエルサレムを脱出しました。エルサレムを親子の決戦場とすることを避けたといわれています。
2)彼は、忠実な部下や祭司達の忠誠を受けていました。忠実な人物達を敵方に残し、情報を得たり、撹乱する賢さを備えていました。
3)深い悲しみをもっての逃亡でした。15章30節にありますように、
ダビデはオリーブ山を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。
という状況でした。
F.ダビデ王の言った言葉と心情
では、ダビデの心境を、サムエル記15章と16章から見てみます。
「私は主に対して罪を犯した。」(12章13節)
・・・「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださろう。
もし主が、『あなたは私の心にかなわない』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」(15章25-26節)
3)・・・「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』といわれたからだ。誰が彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」
・・・ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(16章10-12節)
これらのダビデの言葉から、彼がどのように受けとめ、解決していこうとしているかがわかります。すなわち、
1)自分の子に背かれるという現実の中に、悲しみつつも事実として受けとめ、身を守る手段を冷静に講じている
2)全ての出来事を、主の恵みと摂理に委ねている
3)自分の問題に他人を巻き込まず、シムイの呪いの背後に、主の摂理を信じ、正しい心で、正しい裁きに委ね、勝利を確信している
姿をうかがうことができます。
悲しみの深さに応じた、主への深い信頼の姿をダビデから学びます。そして、主は本当にそのダビデの信仰に答えてくださいました。この信仰がこれらの余裕ある言葉となったのです。
アブシャロムの死というもう一つの悲しみを彼は味わわなければなりませんでした。罪の実は刈り取ることになるのです。この出来事を通じて、私たちは警戒しなければなりません。
最後に、「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌」という題の詩篇3篇をお読みして、サムエル記のシリーズを終わります。
主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。
しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む者。私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。
私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私は取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の 歯を打ち砕いてくださいます。
救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。
次回からクリスマスについてのメッセージになります。待ち望みつつ、聖書からのことばを一緒に学びたいと思います。お祈りいたします。
Message by Hiroko Saoshiro,paster of Nakameguro IGM Church
Compiled and edited by K.Otsuka/November 19,2006