礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年11月26日
 
「内住の罪と向き合う」
ローマ書連講(21)
 
竿代 照夫牧師
 
ローマ人への手紙7章18節〜8章2節
 
 
[中心聖句]
 
 2  なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
(ローマ8章2節)

 
はじめに
 
 
1.先回は、7:9「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」を主要テキストとして、
@律法は、それ自体としては聖いもの、正しいものであり、
A私達の罪を示す鏡のような大切な働きをすること、
B同時に、罪を触発さえする側面を持つこと、
Cその結果深刻な心の葛藤を齎すこと、
までをお話ししました。

2.今日はその続きです。「パウロの」心の葛藤が包み隠すことなく告白されているところです。7章後半には、「私」と言う一人称単数の言い方で、現在の悩みが告白されています。この、「パウロ自身の」告白とも思われる部分について、先週私の解釈を述べましたが、念のため繰り返します。
1)この文節の「私」とは:「パウロの(かつての)個人的経験が相当程度反映はされているものの、これは人間一般を意識している」
2)霊的葛藤の時期は:「基本的には、律法によって覚醒された魂の状況を指す。これは、救われた後にも、完全に神に明け渡し切っていない魂の経験として残る。」と。
 
A.厳しい善悪の戦い(18-23節)
 
 
18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 
1.善への願い
 
 
パウロは、自分は善をしたいと願っていると、繰り返し言明しています。それらの言葉をマークしてみましょう。

18 善をしたいという願いがいつもある、
19 自分でしたいと思う善・・・したくない悪
21 善をしたいと願っている(嬉しく思っている)
22 内なる人としては、神の律法を喜んでいる

これらの言葉を纏めると、彼の心の中ではいつでも善への渇望がある、悪は避けたいと願っている、そしてそれを勧めている神の律法を喜んでいる、ということです。すべての人がこのようではないかもしれませんが、一般にこれは人間の素直な願望を示すものでしょう。
 
2.悪の力の強さ
 
 
パウロは、自分の善への願望と裏腹に、自分が悪の方に引きずられている状況を認めざるを得ません。その言葉にマークしてみましょう。

18 私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいない・・・善をしたいという願い・・・を実行することがない
19 善を行なわないで、・・・悪を行なっています
20 自分でしたくないことをしているの・・・のは、・・・私のうちに住む罪です。
21 私に悪が宿っている
22 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしている・・・。

纏めますと、

1)内住の罪が、私達の願いと異なる行動へと追いやる:内住の罪とは、アダム以来、人間性の一部として入り込んできたもので、簡単に離れ去るものではありません。「内住」と呼ばれるゆえんです。その内住の罪は、神の御心に敵対的です(23、および8:7「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」)。人間が生まれつき、反神的・自己中心的であるのは、生まれつきなのです。これは、ローマ書、ガラテヤ書では「肉」とも呼ばれます。肉とは、これは必ずしも、物質的な意味での肉体ということではなく、「神から離れたものとしての人間性」です。肉的な人間は、霊的な律法に従えません。むしろ、自己免許の主人である罪と協定を結びました。その協定によって、自分を罪の奴隷として売り渡したのです。私達はいわば罪の操り人形になったのです。自分が「行う」(毎日の生活で実践している)罪の元凶はここにあります。

2)罪の力は、善への願いに打ち勝つ:レギオンを思い出してください。かれは善への願いと裏腹に、墓場で日々自分の身を傷つけ、叫び声を挙げ、周りの人々にも迷惑をかけました。彼の内に宿っている悪霊に縛られていたのです。現われはどうあれ、私達はみな、罪の奴隷です。

3)善悪の心は、一つの人格の中で起きる:パウロの文章を読むと、善を行いたい自分と悪に縛られている自分とが分裂し、戦っているように見えます。これは正に分裂した人格です。ただ、この譬えには落とし穴があります。自分は善なのだが、そこにサタンが入り込んで悪さをする、という風に、自分の罪をサタンに責任転嫁をするための言い訳を与えるということです。でも、注意深くこの文章を読むと、悪を行っているのも、確かに自分です。自分というものの中に二つの勢力が戦っている、という風に捉えるのが自然です。
 
B.絶望と希望(24-25節、8章1-2節)
 
 
24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 
1.絶望
 
 
絶望を示すフレーズを拾うと

24 ほんとうにみじめな人間
24 死の、からだ(から救い出してくれるものはない)
25 肉では罪の律法に仕えている

纏めますと、

1)罪に負けた生活はみじめ:罪は、決して私達を幸福にしません。悪いことをしていると、カッコいいように見えることもあるかもしれません。でも、その心を良く断ち割ってみると、決して楽しいからしているのではありません。バイクの暴走行為をしているお兄さん達に聞いて御覧なさい。一時的には、カッコよく見え、好きなことをしているように、自分で感じることがあるかもしれませんが、本音を良く聞いてみると、こんなこと止めたいのに止められないという人々が意外に多いのが分かります。罪の生活はみじめでしかないのだということを知らなければなりません。

2)それは「死の体」と呼ばれる:罪を犯すとは、罪に隷属されている状態を示します。そして、それはローマで実行されていた、死刑の方法の一つである死体との束縛と似ています。死刑を宣告された囚人が、既に死亡した人間と括り付けられて、昼も夜も死体とピッタリくっついて生き続けるのです。死の毒が接触した皮膚から伝わってきて、囚人も間もなく死んでしまうと言う、残酷な刑罰です。それと同じように、罪を犯すものは、罪と死の毒が入り込んで、私達を滅びにと導いてしまいます。

3)悲痛な叫び:誰がこの死の体から救ってくれるのか、とパウロが悲痛な叫び声を挙げます。通常の方法では、ここからの解放はありえません。しかし、悲痛な叫びを挙げたこと自体が、救いへの第一歩なのです。ここでパウロは、内住の罪のために困惑し、何とかしたいと模索し、しかも、それが不可能である自分に絶望してのた打ち回っているのです。でも、そのような深刻な葛藤をしていること自体が、救いの近さを物語っています。このような戦いを経験したのはパウロだけではありません。宗教改革者・マルチン・ルターもそうでした。21歳の時に雷に打たれて死んだ友人を見て献身し、修道院に入ったマルチンは、必死の思いで修業を致します。与えられた毛布も減らして寒さに耐え、睡眠時間も削って神に祈り、何としても神に喜ばれる人間になろうと、必死の努力をします。しかし、努力をすればするほど、彼の心にはそれと反対に、罪の自覚が深まるばかり、遂にノイローゼの状態に陥ります。その罠から彼を救ったのが、ローマ書の学びでした。パウロは14節で、私のしていることが分からない、と言っていますが、無責任な意味で分からないのではなく、困り果てている、承認しない、と言う気持ちです。クリスチャンすべてにある程度当てはまることですが、日曜日と月曜日以降の生活のギャップです。しかし、困り果てるほど真剣に罪に向き合うところが、実は救いの一歩です。
 
2.希望
 
 
このような悩みの中にあるパウロが希望を見出すのですが、それ表わすフレーズを集めます。

24 (だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。)との自問に答えて、「25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と神への感謝を述べます。

25 「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」これは、解釈の難しいところです。当然のことながら、精神的には神に仕えているが、肉体的には罪を犯し続けるという「ねじれ現象」を感謝している訳ではありません。聖書は霊と肉の二元論を示唆していません。神なき人間性としての私は罪の法則に仕えているけれども、キリストにある私は神の律法を喜んで、それに仕えているという分裂状態を総括し、そして、その先にある勝利を見越して「感謝している」と私は捉えます。これは幾人かの注釈者によっても支持されています。

8:1 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

8:2 「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理(生命が活動する原理)が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

纏めますと

1)罪の束縛からの解放:絶対に釈放不可能と思われる罪の隷属状態から、私達が解放されるのです。本部で働いておられたある兄弟は、どうにもならないアルコール依存症で、そのために何度も仕事上の失敗をしてしまいました。ご家族がその救いのために祈っておられましたが、ついに教会に導かれ、救いに与り、すぐにではありませんでしたが、アルコールの絆から解放してくださいました。福音の力とは、そのようなものです。

2)赦し:キリストの贖いによって、完全な赦しがなされます。私達の罪がどんなに大きく、深く、心の傷を残すものであったとしても、その罪を赦し、さらに、罪に伴う罪責感から私達を釈放してくださいます。

3)きよめ:過去の罪からだけではなく、現在的な罪の支配からも釈放してくださいます。私達の生きる原理としての罪の法則、律法の法則(ねばならぬ主義)から私達を解き放ち、御霊による生き生きとした力が私達を罪から守ってくださいます。罪から守るという消極的な効果だけではなく、豊かな祈りと交わりの生涯へと導いてくださいます。
 
おわりに
 
1.内住の罪と正面から向き合おう
 
 
パウロが真剣に、正直に罪と向き合ったように、私達の奥深くに潜んでいる罪の深さ、しつこさ、醜さと正面から向き合いましょう。どれだけ正直に、自分の罪と向き合えるかが、信仰生活の深さを決める鍵です。
 
2.キリストの救いの豊かさに信頼しよう
 
 
自らの罪深さばかりに目を留めないで、それ以上に、キリストの救いの豊かさに目を留めましょう。御言葉の約束を単純に信じ、告白し、それに立って歩みましょう。主はそのことを私達の心の事実として証印を押してくださいます。
 
お祈りを致します。